昭和 - 平成
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1927年(昭和2年) - 福岡受信所(日本無線福岡出張所)設置 1929年(昭和4年) - 火工廠設置問題で、耕作権擁護同盟が結成される。 1931年(昭和6年) - 新河岸川改修工事終了。通船停止令のため、新河岸川の水運が全廃される。 1937年(昭和12年) - 火工廠が竣工し、操業が開始される。 1945年(昭和20年) - 7月、福岡受信所でポツダム宣言が傍受されたと推定される。 1959-60年(昭和34-35年)、上野台団地、霞ヶ丘団地の建設と入居開始 1960年(昭和35年)11月13日 - 町制が施行され、福岡町となる。 1972年(昭和47年)4月10日 - 市制施行。上福岡市となる。 1985年(昭和60年)8月15日 - 非核平和都市宣言をする。 2004年(平成16年) - 住民投票の結果2市2町(富士見市・上福岡市・大井町・三芳町)での合併が不成立となる。2000年国勢調査での人口は富士見市(103247名)、上福岡市(54630名)、大井町(45488名)、三芳町(35752名) 2005年(平成17年)10月1日 - 隣接する入間郡大井町と合併し、ふじみ野市になる。
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昭和 - 平成
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1929年(昭和4年)10月31日 - 宗岡閘門及び洗堰ができる。 1930年(昭和5年)いろは橋が架設される。 新河岸川改修工事の竣工式が挙行される。 1931年(昭和6年) - 県の通船停止令により、新河岸川の舟運が終了する。 1936年(昭和11年) - 埼玉第一飛行場(のち浦和飛行場)が着工。 1937年(昭和12年)10月 - 松永安左エ門によって、東邦電力の研究施設として町内に「東邦産業研究所」が設立される。 1939年(昭和14年)4月7日 - 町立志木商業学校が創立される。 1944年(昭和19年)2月11日 - 北足立郡志木町および内間木村、入間郡宗岡村および水谷村が合併し、北足立郡志紀町が発足する。 1945年(昭和20年)4月3日 - 太平洋戦争下の空襲で、幸町一丁目に米軍B-29が時限爆弾を8発投下。後に爆発して民家の母屋と物置が吹き飛び、防空壕に避難していた5人が巻き込まれ死亡。 1947年(昭和22年)4月1日 - 志紀町に志紀中学校が開設される。 1947年(昭和22年)12月15日 - 慶應義塾獣医畜産専門学校が神奈川県川崎市から志紀町に移設される。 1948年(昭和23年)4月1日 - 志紀町が分離し、合併前の志木町、宗岡村、水谷村、内間木村となる(いずれも北足立郡)。町立志木商業学校の名称を町立志木高等学校と改める。慶應義塾獣医畜産専門学校を慶應義塾農業高等学校に改称する。 1949年(昭和24年)3月29日 - 町立志木高等学校を廃止し、その跡に志木中学校を移設する。 1949年(昭和24年)4月 - 志木公民館が落成される。 1951年(昭和26年)7月16日 - 宗岡公民館が落成される。 1954年(昭和29年)8月11日 - 県道新座川越線(通称「防衛道路」)が完成する。 1955年(昭和30年)5月3日 - 志木町と宗岡村が合併し、足立町が発足する。 1957年(昭和32年)4月1日 - 慶應義塾農業高等学校を普通科高校とし、名称を慶應義塾志木高等学校と改める。 1960年(昭和35年)立教高等学校が池袋から新座町に移転となり、これに合わせて志木駅に南口が開設される。 埼玉県下で最も早く救急車が備えられる。 1964年(昭和39年)11月 - 水資源開発公団による秋ヶ瀬取水堰が完成する。 1965年(昭和40年)市場坂上付近の野火止用水が暗渠となり、道路が拡張される。 10月31日 - 志木電報電話局が開設される。 12月16日 - 大字志木(現・志木市幸町3丁目)に国際興業バス川越営業所志木分車庫が開設される。 1967年(昭和42年)6月 - 足立町消防新庁舎を竣工する。 9月27日 - 足立町消防本部が設置される。 1968年(昭和43年)4月1日 - 志木第二小学校が開設される。 1969年(昭和44年)4月15日 - 柏町に第一保育所が開設される。 1970年(昭和45年)10月26日 - 市制施行に伴い名称変更、志木市となる。同時に、市章を制定する。 3月31日 - 宗岡浄水場が完成する。 1972年(昭和47年)4月1日 - 中宗岡に第二保育所が開設される。 5月31日 - 現在の市庁舎が落成する。 1973年(昭和48年)4月1日 - 宗岡第二小学校および志木第二中学校が開設される。 11月1日 - 宗岡地区の町名が上宗岡・中宗岡・下宗岡・宗岡となる。 11月25日 - 第1回産業祭が開催される。 1974年(昭和49年)4月1日 - 埼玉県立志木高等学校が開校する。幸町に第三保育所が開設される。 1975年(昭和50年)4月1日 - 志木第三小学校および宗岡中学校が開設される。 4月11日 - 本町二丁目で大火があり、42世帯141人が被災する(志木大火)。 1976年(昭和51年)4月1日 - 下宗岡に第四保育所が開設される。 1977年(昭和52年)4月1日 - 宗岡第三小学校が開設される。 9月15日 - 長野県南佐久郡南牧村に志木市少年自然の家が完成する。 1978年(昭和53年)4月1日 - 志木市歌が制定される。第一保育所が中野保育園に、第二保育所が北美保育園に、第三保育所が西原保育園に、第四保育所がばんば保育園にそれぞれ改名される。 5月1日 - 市民会館が開館する。 1979年(昭和54年)2月9日 - 保健センターが開所する。 3月1日 - 志木地区の残りの町名が館になる。 4月15日 - 図書館と郷土資料館が開設される。 5月7日 - 市民救急病院が開設される。 8月 - 志木ニュータウンへの入居が始まる。 11月8日 - 東上線柳瀬川駅が開業し、西口が設けられる。 11月10日 - 消防自動車(はしご車)が備えられる。 1980年(昭和55年)1月29日 - いろは水門(旧宗岡閘門)が撤去される。 4月1日 - 志木第四小学校および三ツ木保育園が開設される。 4月23日 - 市民体育館が開設される。 7月23日 - 柳瀬川駅に東口が設置される。 1981年(昭和56年)4月1日 - 宗岡第四小学校が開設される。 1982年(昭和57年)2月1日 - 埼玉運輸支局所沢自動車検査登録事務所が開設され、管轄が大宮ナンバーエリアから所沢ナンバーエリアに変更となる。 4月1日 - 宗岡第二中学校が開設される。 1987年(昭和62年)8月25日 - 東武東上線と旧営団地下鉄有楽町線(現・東京地下鉄有楽町線)の相互直通運転が開始される。 1988年(昭和63年)10月24日 - 志木郵便局が柏町四丁目から本町五丁目に移転する。 1990年(平成2年)4月24日 - 新河岸川における鯉のぼり掲揚が行われる。 11月25日 - 志木市交響楽団の第1回演奏会が行われる。 1992年(平成4年)3月13日 - 柳瀬川図書館が開設される。 3月25日 - せせらぎの小径が一部完成する。 1993年(平成5年)3月16日 - 国際興業バス川越営業所志木分車庫が西浦和営業所の開設に伴い移転のため閉鎖。 8月19日 - 大相撲志木場所が行われる。 1994年(平成6年)3月15日 - 防災行政無線運用開始。 1997年(平成9年)8月4日 - 群馬県館林市と「大規模災害時における相互応援に関する協定」を締結する。 2000年(平成12年)2月24日 - 志木駅東口再開発ビルが竣工する。 2003年(平成15年)4月1日 - いろは遊学館が開設される。 7月1日 - 本町にある朝日屋原薬局が国の登録有形文化財に登録される。 2005年(平成17年)3月31日 - ららぽーと志木が閉館する。 8月25日 - 長沼明市長が財政非常事態宣言を発令する。 2006年(平成18年)1月17日 - 「災害時の食糧供給等の協力に関する協定」が山崎製パン埼玉第一工場と締結される。 2006年(平成18年)4月1日 - 「志木市立中学校通学選択の自由化」が開始される。 7月1日 - 路上喫煙防止条例が施行される。 2007年(平成19年)4月1日 - 志木市立救急市民病院が志木市立市民病院と改称し、リハビリテーション科が設置される。 8月25日 - 長沼明市長が財政非常事態の脱却を宣言する。 2008年(平成20年)4月17日 - 市町村で全国初となるねんきん特別便支援相談室を設置する。 2008年(平成20年)4月21日 - 長野県上水内郡飯綱町と「大規模災害時における相互応援に関する協定」を締結する。 6月14日 - 東京メトロ副都心線が開業。同時に、東武東上線と東京メトロ副都心線の相互直通運転が開始される。 10月3日 - 人口が7万人を突破。 2011年(平成23年)3月11日 - 東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)で発生した津波が秋ヶ瀬取水堰に到達。 2013年(平成25年)7月30日 - 千葉県香取郡東庄町と「大規模災害時における相互応援に関する協定」を結ぶ。 2017年(平成29年)1月27日 - 山梨県富士吉田市と文化・観光交流協定を締結。
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昭和 - 平成
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1950年代から1960年代にかけて五社協定という取り決めがあり、映画会社と専属契約を結んだいわゆる映画俳優は、自社製作の映画以外への出演が制限されるなど、明確に活動範囲を区分されていた。そのため初期の大河ドラマは、歌舞伎界や新劇などの俳優に頼らざるを得なかった事情がある。同時期の民放のテレビドラマも同様で、海外ドラマを輸入して放送したり、テレビ局で制作するドラマには、映画俳優以外の俳優や新人を起用することで対処していた。 1970年代になり、邦画の斜陽化に伴って五社協定が自然崩壊し、さらには映画会社がテレビドラマの外注先になってテレビ映画を制作するなど、映画とテレビとの垣根はほぼ消滅した。既にテレビドラマの制作現場では映画俳優に頼らないシステムが確立され、別ジャンルから俳優業に参入するケースは以前より増えた。ただし、テレビドラマにおいては俳優の実力よりも、テレビ局と所属事務所、あるいは番組スポンサーとの関係や、俳優個人の人気すなわち視聴率を取れるかどうかを重視してキャスティングすることが多く、視聴者が疑問を感じるキャスティングがされる場合もある。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}現在の[いつ?]日本国内においてもっぱら劇場用映画に出演して生活を成り立たせることができる者は皆無に近い。つまり「映画俳優」はほぼいなくなった。 1990年代以降、テレビ局主導で映画製作が行われるケースも一般的になり、テレビドラマの制作スタイル(俳優業を本業としない者が俳優を兼業するスタイル)の領域も拡大傾向にある。一方で、俳優と名乗りながらバラエティ番組などで活動している者も多数おり、職業としての俳優という区分は曖昧になりつつある。これについて、映画俳優の設定が確立しているアメリカと違い、拘束時間が長い割に金銭的に恵まれない日本の俳優の環境のちがいの指摘もあるが、俳優個人の価値観や所属事務所の方針の問題も大きい。また、それぞれの出身の職業をあくまで本業としつつ、俳優業を含めて様々な活動を行う者もおり、マルチタレントと呼ばれる場合がある。これは評価される場合もあるが、否定的な見方をされることも多い。 俳優業は華やかな一面、厳しい世界だと言われている。俳優を志望しても俳優として食べられる(それ自体で生活を維持できる程度の収入を得られる)人はごくわずかで、収入も安定していないため、俳優として食べられるようになる段階に到達する人の数よりも、中途半端な状態で挫折してしまう人の数のほうがはるかに多い。また、一旦ある程度仕事が増えても、そのままずっと俳優でいられる保証はなく、一時的には第一線で活躍していた俳優でもその後はほとんど仕事がない人もいる。
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昭和・平成
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1945年(昭和20年)、日本が太平洋戦争で敗戦する。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)指令によって大日本武徳会は解散し、武道は禁止された。この間、苦肉の策として撓競技(しないきょうぎ)というスポーツが考案され、フェンシングに似せた用具やルールを採用するなどして、従来の剣道とは無関係のものとして行われた。 占領が解除された1952年(昭和27年)に全日本剣道連盟が発足し、本来の剣術が稽古できる環境に戻ったが、形稽古と竹刀稽古の二極化が進み、今日に至っている。ただし、一刀流諸派や直心影流など、形・竹刀とも重視している流派もある。神道無念流の流れを汲む一剣会羽賀道場や日本剣道協会では、戦前のままの足搦や投げ技も含む竹刀稽古を続けている。 日本古武道協会や日本古武道振興会では、剣術の保存、振興のために、形の記録映像の制作や、古武道演武大会などを開催している。
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昭和・平成
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その独特の風合いや芸術的側面に光を当て、創作活動として裂織を見直す動きが生まれた。素材は必ずしも古布とは限らず、布の染め方や裂き方などに多くの工夫を凝らして複雑なデザインに挑戦する芸術家も登場しつつある。
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昭和・平成
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昭和に入ると、五明にのちのニッケとなる昭和毛織紡績弥富工場が開業。昭和後期まで「ガチャマン景気」と呼ばれる戦前戦後の尾州繊維産業の快進撃に流れ、彌富町にも全国各地から女工が集い、当時の人口統計にも若い女性の比率が高いとの記録がある。 昭和の大合併では1955年(昭和30年)に鍋田村および市江村楽平地区を合併(市江村のその他地区は佐屋町に合併)。町名を“海部郡彌富町”から“海部郡弥富町”に改称した。翌年隣接する三重県桑名郡木曽岬町とも合併協議がもたれたが、こちらは三重県議会の反対などから実現しなかった。 1959年(昭和34年)の伊勢湾台風では、海岸や河川の堤防が多くの箇所で決壊し、入植が開始されたばかりの鍋田干拓地を含む全域が水没。町内で308名の犠牲者を出した。 台風後は治水設備も大幅に強化され、洪水の危険性は減少した。一方で、縦横に流れていた水路の多くが埋め立てられ、水郷地帯としての風景も様変わりした。高度成長期と並行して耕地整理や道路事業・公共施設建設・団地開発ラッシュが進み、主力産業のひとつであった漁業や海苔養殖はほぼ消滅した。昭和40年代に減反政策が行われると町内多くの農家が弥富金魚の養殖業に転業し、昭和50年代に生産量はピークを迎えた。一方で、産業の発展や人口増加に伴い地下水の揚水量が著しく増加すると、町内で地盤沈下現象を起こし、問題となった。また町北部では、名古屋大都市圏のベッドタウンとしての需要が高まり、田畑や金魚の養殖池を埋め立て宅地開発が行われた。 名古屋港の一部として沿岸部の埋め立ても進められ、これらの埋め立て地は1976年以降順次弥富町に組み入れられている。1996年(平成8年)には、長年帰属が問題となっていた木曽岬干拓地の一部も編入された。 平成の大合併施策に伴い、2002年(平成14年)から海部郡飛島村、同郡蟹江町、同郡十四山村との合併協議会が行われた。しかし、飛島村は合併に伴う村民サービス低下の懸念から住民投票にて反対過半数となり、蟹江町は対等合併という協定で進められるも弥富町が新市名を「弥富市」とすると主張したことから対立となり、両町村の併合は白紙撤回となった。十四山村でも編入合併という立場に議会が反対したが、賛成派住民による議会リコールを申し出て、住民投票の結果、賛成52%・反対48%でリコールが成立。2006年(平成18年)、十四山村を編入合併・市制施行し、愛知県35番目の市弥富市が発足した。
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昭和・平成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 15:18 UTC 版)
1975年(昭和50年)には脚気が再燃し、原因には砂糖の多い飲食品や副食の少ないインスタント食品といった、ビタミンの少ないジャンクフードがあることが分かった。 1975年(昭和50年)には、高カロリー輸液の点滴の際に「ビタミンB1欠乏症」が報告され、死亡を含む重症例が相次ぎ、1991年(平成3年)に厚生省は「緊急安全性情報」を出し調査を開始し、調査の結果、1997年(平成9年)には、厚生省は高カロリー輸液の点滴の際に、ビタミンB1を投与するという通達を出した。 2014年(平成26年)にも、高齢者が食品購入の不自由さから、副食を食べず白米のみを食す食生活により、脚気発症が報告されている。
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