新河岸川の舟運
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 20:18 UTC 版)
川越大火の復興のための資材搬入として、荒川及び新河岸川が使われた。大火の時期は春先であったため、荒川の水量が少なく舟を渡せなかった。そのため、新河岸川が検討された。当時三か所に古橋があったため土橋から板橋に付け直し、舟運ができるようになった。船着き場は幕府の御料所でもあった寺尾の芝地(寺尾河岸)を活用した。だが、この時は急場だったため秋には引き払われた。 1647年(正保4年)に松平信綱によって本格的に整備された。それまでは荒川の平方河岸や入間川の老袋河岸が使われていたが、川越の城下町からあまりに離れており、不便であったため、1666年(寛文6年)には元の寺尾河岸の1km上流の地点に新河岸(後の上新河岸)が置かれることとなった。当時は藩の公用を目的とした小規模なものであったが、1682年(天和2年)に江戸の松平家の屋敷が類焼に遭い、資材を川越から輸送することとなった。この時、川越の商人12人と近郷の有力者17人が関わり、上新河岸のさらに上流に扇河岸が新たに作られることとなった。 また、五河岸へは川越からだけではなく、青梅や八王子、さらには甲州・信州から陸送され、ここで舟に積まれて江戸に輸送されるものも少なくなかった。1731年(享保16年)に問屋株(株仲間)制度が整い、運上金が納められるようにもなった。1731年には上新河岸・下新河岸・扇河岸で16軒だったものが、1812年(文化12年)には五河岸で30軒の規模にまで拡大した。新河岸川の舟運は通船停止令まで続いた。 主な取引商品としては、川越からは米・麦・雑穀などの食糧品や建築資材・特産品などで、江戸からは衣類や雑貨、肥料や嗜好品などが中心であった。
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