批判と評価とは? わかりやすく解説

批判と評価

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 05:50 UTC 版)

岡田茂 (東映)」の記事における「批判と評価」の解説

ニュー東映監督へ昇格した深作欣二1953年入社し本社企画部在籍した企画合同会議があったある朝長身美貌青年岡田企画部室に入ってきたと思うと、いきなり「やァ暑いですなあ、こう暑いと“おまんこ”する気にもなれませんなあ」と傍若無人大声発した新入社員としてはさすがに唖然として、一年先輩工藤栄一に「あれは誰です?」と聞くと「京撮の岡田製作課長だ」という。活動屋なんてガラの悪いものと承知はしていたが、当時から既に切れ者評判高い東大出のエリート課長発言だけに、度肝抜かれたという。工藤は、岡田を「色んな意味で頭がいい思った人間掌握したり、自分トラブル解決したり、明快だったよね。それに勢いがあった。人を集めて、バーッとやらせるという。映画てのはそれでいいと思う」と評している。 1955年、後の東京撮影時所長幸田清が、現場で下働きして数ヵ月後、事務方配属辞令受けたが、当時30歳岡田製作課長抗議にいったら、「現場が好きか」と聞かれ希望通り現場に籍を置けることになった。一課長辞令をねじ曲げたことに驚いたという。 岡田1960年代から1970年代にかけて仕掛けた任侠映画」や「実録ヤクザ映画」、「東映ポルノ」は、"女性観客にまったく迎合しないアウトロー映画群"ともいわれ 今日概ね評価が高いが、これを批判する論調もある。武井昭夫は「岡田敷いた東映やくざ映画路線が、日本映画を駄目にした、とわたしは思う。60年代半ば近くになると、東映系はもちろん、映画館の中は、本当にやくざとその娼婦らしき人が目立ってきてなにか映画館異様な雰囲気になった。やがて映画館がだんだんガラガラになっていった。統計的にはどうか分かりませんが、わたしはあの路線長い目でみると、観客を増やさなかった、逆にまともな映画好き遠ざけた、と思っている。全共闘学生たちのやくざ映画ファンも実は少数派だったんじゃないかな。日本の人口増えていったのに、映画人口が減っていったのはなぜか。やくざ映画観客開拓したとはとうてい思えない。それから日活ポルノ映画新し客層をつくるというより、むしろほどなくマンネリとなって離れていった観客が多いのではないか。それで観客は家でテレビ観る、あるいは昔の名作ビデオを見るうになる日本映画自分で古い観客追い出し新し観客はあまりつくらなかった。つまりなかば自殺未遂繰り返して、いまや衰弱死寸前の状態になった、と思うのです」と論じている。マキノ雅弘は「岡田茂俊藤浩滋ハッキリいえば二人とも映画人としてゲテモノなんです」と述べている。 山城新伍岡田評して毒気そのもの。もう吹いて吹いて吹きまくというか永田雅一さん以上の吹き屋でしたね。製作課長時代からこの人社長じゃないか、と錯覚さすような大きな言ってました。俺がいなけりゃこの会社すぐポシャるみたいな事で..」「時々違う方向に行くんで困る。どうかするとこの人映画嫌いじゃないか、と思う時ありますよ」などと話していた。 奥山和由は、日本映画不調がいわれた1990年代後半インタビューで「映画界大きな器という人が減ってきたと思う。映画器量勝負ってところがあるから、これも映画衰退背景一つではないかかつては政治家にも、田中角栄のような悪党かもしれない面白人がいたけど、いまは誰でしたっけという世界東映岡田茂さんなんて人は、どーんとして格好よかった俳優勝新裕次郎松田優作と、映画が命といって連中がみんないなくなっちゃった」と話していた。1987年奥山企画したハチ公物語』は製作出資面で難航し却下された。そこで奥山渋谷舞台なので東急グループ出資お願いしようと、東急リクレーション社長兼務していた岡田橋渡し頼んだライバル会社出資仲介頼みに行くというのは前代未聞岡田はこの依頼応え五島昇紹介東急グループ出資決め、さらに三井物産も製作に参加。これを聞いて松竹最後に出資決定した。『ハチ公物語』は異業種映画ビジネス算入した初の邦画といわれる同作強力なプロモーション大量前売り券確保後押しもあって、当時松竹新記録となる配収23億円の大ヒットとなった1989年岡田奥山松竹とは別の場所で生かしてやりたい、と東映で金を出してやるから『大霊界~死んだらどうなる』みたいな考えろと言ったら、奥山は「『大霊界』はカンベンして下さい」と初演され間もない今井雅之の『THE WINDS OF GOD』を映画化したい持って来たという。その後経過不明だ1995年松竹最初映画化が行われた。 東映映画大ファン関連著作も多い杉作J太郎は、「東映不良性感度路線は『暴力セックス』の男性カルチャー。僕が東映映画傾倒していったのは、自分青春不遇だったから。実生活女性冷たくされてへこんでい自分助けてくれたのは東映映画けだった。『女がなんだ!』その気持ち奮い立たせてくれたんです。当時東映映画館女性皆無でした。それは岡田さんが、意図的に女性客を切り捨てた映画作ってきたから。その意味ではギャンブラーですよ。絶対にその路線行ける!という確たるものがあったわけではないですから。でもそういう男だけでいい世界』を描く時代は、おそらくもう二度と来ないでしょう。だから当時東映不良性感度路線映画を観返すことは、単なるノスタルジーではなくこれからも必要となってくるはずです。それは岡田さん大いなるギャンブル残してくれた遺産なんです」と述べている。 映画美術第一人者井川徳道は、近代映画協会新藤兼人口利き岡田紹介してもらい東映京都撮影所移籍した。東撮で長く仕事をしていたおり、松竹篠田正浩から誘い受けたことがあり、たまには芸術映画やりたいと「しばらく京都離れたい」と岡田掛け合うが「映画娯楽やぞ。一般の人が楽しんでこその映画や。評論家選ばれるではなく東映システムの中でやってほしい」と諭され、その言葉感銘受けた井川東映京都撮影所今日まで60年上の長きに渡り美術セット作り続けている。 東映映画惹句量産し関根忠郎は、岡田顔を合わせる度に「いいかキミおもしろ惹句書けよ。大衆受けするヤツをな。誰にでも分かるヤツな。芸術要らんぞ。映画は客が来てナンボだからな!」と言われたという。「これまで岡田会長世に送った娯楽映画の数と同じ数だけ、わが師匠喜代次と私とで書いた娯楽一点張り惹句残っている筈です」「岡田会長。私はこれまで大量映画惹句量産してきましたが、こと〈ゲイジュツ〉に惑わされたことはありません。なぜなら東映映画には、幸か不幸か高尚難解な芸術至上作品見当たらなかったからです。私にとって岡田茂会長は、これからも〈映画巨人〉であり続けます」などと話した。 『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』を共同製作した佐藤正之岡田について「大映永田雅一松竹城戸四郎芸術エンターテイメント優先収支はあとからついてくる考えていた。その点、岡田さんはまずはじめに収支ありきだ」と話した大高宏雄は「これはちょっと凄い言葉だと思う。エンターテイメント云々前に収支優先というのが凄い。映画あり方めぐってよく言われる芸術エンターテイメントという二分法をさえひっくり返す論法になるのではないか儲からないダメである。ここまで言い切った人は他にいない」と論じている。また岡田自伝で「私の持論は“映画商品である”ということ尽きる。倒産した会社、製作から撤退した会社が多い邦画界で生き残り東映だけが製作を続けることができたのは、この信念根底にあったからである」などと話しているが、これについて大高は「1960年代後半から製作が開始されエログロ映画は、儲かるためなら、反社会的な企画であろうが、何でも貪欲に取り込んでいった“超=商業主義”とでも言いたい製作の恐るべき発展形といえる。それらの映画群は当時映画商業主義枠内であっても文化であると考えたい会社内外常識的なたちから猛反発食らった。しかし今、この批判岡田にとっては、勲章的な意味を持つ。商業主義徹底化の果て生まれたエログロ映画は、矮小な商業主義をさえ凌駕してしまった。今の映画界一見商業主義徹しているようでいて、その徹底性において中途半端過度商業主義のように見えて、実はその商業主義安全パイの中で構造化されている。だから商業性ありながら、少しでも反社会性を持つ企画はまず上がってくることはない。モデルヤクザがまだ実在しているなかでの『仁義なき戦い』のシリーズ化、『山口組三代目』製作に於ける警察との軋轢が、どれほど想像を絶するリスクであったか、それらを飲み込んだ上で映画商品である」と言い放っていることを、今の日本映画界は思い知るべきで、真の商業主義というものを、岡田存在から考えさせられる」などと論じている。 翁長孝雄は「東映調というのはつまりは岡田茂調です。統一した色があるんじゃなくて、とにかく先見の明で先へ先へ行くという。それで当たらない判断したら、アッという間次に行く。とにかく攻め姿勢で、攻めることこそ守ることとい発想なんです」と述べている。 高岩淡1983年の映画誌の座談会で「萬屋錦之介さん、鶴田浩二さん、高倉健さん、菅原文太さん、佐久間良子さん、三田佳子さん、笠原和夫さん、深作欣二さん、降旗康男さん、佐藤純彌さん、みんな岡田茂社長育てたスタッフ役者さんです。東映黄金時代若者たちがいま映画界第一線頑張っているとはっきり言えます」と述べている。 高崎俊夫は「岡田茂訃報聞いて、しみじみと"巨星堕つ"の感を抱いた映画ファンは多いのではないだろうか。豪胆な言動から〈最後カツドウ屋〉と呼ばれ東映自由闊達気風作り上げた不世出の大プロデューサー岡田茂波瀾に富む映画人生はそのまま戦後生まれた若い映画会社東映歴史ピタリ重なる。1951年東映設立される岡田経理プロ・大川博と根っ子からの活動屋・マキノ光雄1957年死去)という全く相反する個性接着剤役割果たし高度経済成長背景に、東京京都撮影所長を歴任するなかで、古参監督首を切り大胆な合理化推し進める冷徹なマキャベリスト的な側面と、時代の空気大衆好み欲望いち早く察知する予見者の資質併せ持つ岡田稀有才能一挙に開花した映画ブーム10年とばかりに、反戦映画時代劇任侠実録エログロ文芸大作次々新路線を打ち出した岡田標する〈不良性感度〉は東映独自のカラーとして深く浸透した」などと評している。 中島貞夫は「日本映画界には優れたプロデューサー何人かいて、また、経営者として優れた人もいた。岡田さん場合は、その両方出来る人だった。日本映画界で、映画作ることと、商売すること両方きちっとできた人は殆どいない。しかも、映画界というのが非常に苦しくなった時にそれをやってのけた。こんな人は、多分岡田さん初めだったんじゃないか思いますし、今後そういう方は出てくるのかなあ、という危惧あります」と話している。岡田さん京都若手監督らを集めて『あのなあ、映画メシ食っていこうや』『映画メシ食ってこうとい覚悟のあるヤツらだけでやろうや』と言ったことがある。その言葉昭和40年代映画界どん底のなかで、東映生き残った原動力かと思う(抜粋)」などと話している。大高宏雄も、「映画製作と、映画会社経営双方にまたがる矛盾そのものを、そうと悟られずに生き続けた稀有映画人」であり「カツドウヤと資本家ありえないことをやってのけた」と岡田評した松岡功も「岡田さんのように映画作る才能会社経営する才能両方持っている方はなかなかいません。これから出てないと思います。私を含め岡田さんは全映画人あこがれであり目標でした」と評している。 鈴木則文映画辞めよう思案していた時、珍しく自宅静養していた岡田尋ねた鈴木はまだ映画辞める心境と言ってないのに何故か急に岡田これまでの自分体験話し始めた最後に「己を足らざるを知り、ただちにそれを学べ」という言葉がある。忘れずに覚えておけよとしみじみ語った鈴木はその格言語源漢字辞典などで調べてみたが発見できなかった。それは造語天才である岡田が、その時即座に創った格言だったのである。この教えは、鈴木の胸に深く刻み込まれその後映画人生の指針になったという。岡田茂傑出した映画人であった。が、同時に優れた教育者でもあったと述べている。「その性質は峻巌にして秋霜烈日。180センチ超える体格持ち主柔道三段。「三国志」や「水滸伝」に登場する豪傑のようなであった押し出しの強い広島弁特徴で、スマートに政財界重鎮渡り合ったかと思えばその辺方々にも睨みをきかせ、それでも愛され稀有な人でもあった。経営者としては、非常にシビアな面もあり、人員整理人事異動容赦なく行なった。〈国粋主義〉のレッテルを貼られ、GHQ禁止されていた時代劇解禁され、その隆盛とともに岡田茂擡頭はじまった市川右太衛門片岡千恵蔵替わる新しスター作品連発し敗戦国日本国民溜飲下げ娯楽飢えていた国民渇望潤し東映株式会社の礎を築いた」「激変する時代の中で落日斜陽浴びて悪戦苦斗する映画産業護り抜き、また商売の要である幾多人気俳優有能なスタッフ育て上げた功績は、彼の並外れた人間力〉のしからしむるところであった岡田茂こそ日本映画産業衰退とともに死語となりつつある〈活動屋〉という言葉にふさわしい〔最後活動プロデューサー〕なのだ」 などと岡田評している。 岡田裕介は「岡田茂東映カラー作り上げた人間だと思いますが、私自身先輩プロデューサーとして岡田茂を誰よりも研究してまいりましたテレビ映画急成長ていった1960年代に、今まであった東映映画財産を、岡田茂はすべてテレビ移行していきました。「水戸黄門」や「遠山の金さん」など、時代劇ヒットしたシリーズをすべてテレビ売っていった印象があるのです。その時映画東映何が残ったのか、それは"反テレビ"という思想であったと私は認識してます。テレビで出来るものは次々テレビへ売って映画ではテレビでやれないものを目指す岡田茂思想にはそれがあった。ですからヤクザ映画や、道路交通法破っていく「トラック野郎シリーズなど、テレビで絶対できないものを次々作っていきました。それで主人公おのずとアウトローになっていったのです。岡田茂自身アウトロー目指し好んでエロティック方向作品作ったではなく、かなり確信的にそちらの方向にへ東映映画持っていった。それが岡田茂守ろうとした東映カラーだと私は思います。また当時東映直営館は、そんなアウトロー世界疑似体験できるような環境ありました映画館の中でたばこ吸って咎められませでしたし、映画館そのもの入口から出口まで東映ワールドであった思います。ですから岡田茂最初にシネコン映画を観たときに『俺の時代終わった』という言い方しましたシネコンのようにどの会社作品も同じ環境鑑賞できる状況になると、東映世界崩れてしまいます。しかもシネコンスーパーマーケット傍ら設営されているものも多くファミリー楽しめる商業モールイメージを守らなくていけない。また観客そういうものを求めるようになってきました岡田茂は『不良性感度のあるもの、そういう映画しか観客は観ないんだ』と発言しましたが、いつの間に観客は"良性"のものしか見ないようになってきたのです。こういう上映館環境含めた時代流れは、東映にとって不利な状況であると感じてます。そういう状況の中、東映映画どのような特徴出していくのか。それは弊社がもともとやってきたB級映画復活させて、そこから若い人材を発掘し育成していくことだと思います。(中略男女嗜好含め観客ニーズ変化してきていますが、時代ピント合ったB級映画を我々はこれから作っていかなくてはいけないこれまでの流れ見ても、時代先取りし作品東映発表し社会的なモラルから言えばギリギリ企画を、東映実現して成功させてまいりました。今シネコン対応した安全な企画が多い中で、そこに安住せず独自の企画勝負するのが東映映画ですし、またそれが弊社課せられた使命だとも感じています」などと話している。

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批判と評価

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/09/12 12:08 UTC 版)

原始民主制」の記事における「批判と評価」の解説

上記のような理論当時通説覆すものであり、学会大きな議論投げかけた。しかし彼の取った手法、即ち神話叙事詩解釈主材料とするという手法は、学問的見地から多く批判巻き起こった日本学者では前川和也などがこれを指摘している。 例えば、上述した主権を持つ集会(ウンキン Unkin)の意思決定手続き説明を、ジェイコブセンは以下のような論拠によっている。集会指揮する一人指導者とは、通常神話内で神々集会取り仕切る天空神たるアン神の存在から想定されたものである。そして集会決定承認する7人の小グループとは、神話内における「7人の立法神々」(Dingir nam tar a(k) inim anene)からその存在導き出している。 また、ニップル市において戦争指導者が集会によって選出されたとし、その論拠として創世神話エヌマ・エリシュ』があげられている。この神話内において、マルドゥク神が神々集会指導者としての地位認められ神々敵対し魔獣生み出した女神ティアマト戦ったという説話展開されることが、ジェイコブセンの主張重要な証拠となっているのである。しかし、この神話マルドゥク神による秩序確立(即ちバビロンによる統治正統性)を示すためにバビロン宮廷神官朗唱したものであり、それが現在知られる形に纏められていく年代シュメール初期王朝時代よりも遥か1000年上後カッシート時代のことである。 以上のように、神話叙事詩主材料としたジェイコブセンの原始民主制という仮説には、学問的見地から重大な問題があることが指摘されているのであるこのため原始民主制論は、現在ではそのままこれを採用する研究者はあまり存在しない。 しかし、上記のような重大な欠陥にもかかわらず、このジェイコブセンの仮説研究史上重要な論説として今日でも度々触れられる。それは、原始民主制論が多く批判晒されながらも、これをきっかけとした後発研究いくつも生み出したことによる。ジェイコブセンのこの仮説は、長期間わたって学会認められていた神殿都市論などへの重要な批判提供することが出来た点で重要である。軍事指導者機能拡大王権の成立繋がったとするこの説は、神殿都市論の描く宗教性の強いシュメール社会像とは異なりシュメール社会を「世俗的発展」の論理把握しようとした視点によっている。この視点シュメール研究において重要な意味を持っている評価されている。

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批判と評価

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/16 16:35 UTC 版)

NIPPON (曲)」の記事における「批判と評価」の解説

週刊朝日』は、2014年7月4日号の誌上にて、「(サッカー日本代表チームカラーを「混じり気無い青」と表現した歌詞が)『純血性』を強調している」、「(死をイメージさせる歌詞が)特攻隊思わせる」、「『日本応援歌なんだから日の丸は当然』と言うが、意味深な歌詞はためく国旗の下で歌われてしまうと、さすがにいろいろ勘ぐりたくもなる」などと評した。こういった観点について、音楽評論家石黒隆之は「日本限定された歌がずっと流れることになるのも、相当にハイリスク」「過剰で、TPOわきまえていないフレーズ日本以前サッカーそのもの想起させる瞬間すらない」と、NHKワールドカップ中継テーマとしてふさわしくない批判しジャーナリスト清義明も「サッカー民族文化ミクスチャー混在)のシンボル」「最近は浦和レッズ一部サポーター掲げた『ジャパニーズ・オンリー』という横断幕差別表現と大批判され事件もあったのに、サッカーカルチャーをまったくわかってないとしか言いようがない」と批判している。一方で音楽評論家宗像明将は「デビュー当時から和の要素も含む過剰な様式美押し出してきた人ですから、その要素過剰に出すぎて議論呼んでいるだけでしょう」として、椎名音楽特段政治性はないと擁護している。 これらの批判に対して椎名自身は、雑誌SWITCH』のインタビューにて「貧しい」「諸外国方々過去不幸な出来事踏まえて何かを問うているなら耳を傾けるべき話もあるかもしれないが、日本人から右寄り云々と言われたのは心外。(それらの批判は)揚げ足取られたと理解するほかない。趣味嗜好偏り個々美意識違いなどという話を踏まえた上でも、自分誰か鼓舞するものを書こうとはしても誰か誤って危害加えるようなものは書いていないつもりだ」と反論し不謹慎だと言われた“死”という言葉については「死は生と同じくみんな平等に与えられるもので、勝負時にせよ今しかないという局面にせよ、死の匂い感じさせる瞬間日常にもある。ここを逃すなら死んだ方がマシという誇り負けた後のことまで考えていられないという決死覚悟そのまま写し取りたかっただけ」と答えている。また、2014年6月14日ゲスト出演したラジオ番組JA全農 COUNTDOWN JAPAN』において、椎名は「最前線で戦う方だけにわかる、『ここを逃したら死ぬしかない死んでもいいから突破したい』っていう気持ちはどんな分野にでもある。その瞬間だけを苦しんじゃなくて、楽しもうという気分を切り出せば成功するだろうと思い頑張って取り組んだ」と語っている。

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