批判と評価
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ニュー東映で監督へ昇格した深作欣二は1953年に入社し、本社企画部に在籍した。企画合同会議があったある朝、長身美貌の青年・岡田が企画部室に入ってきたと思うと、いきなり「やァ暑いですなあ、こう暑いと“おまんこ”する気にもなれませんなあ」と傍若無人の大声を発した。新入社員としてはさすがに唖然として、一年先輩の工藤栄一に「あれは誰です?」と聞くと「京撮の岡田製作課長だ」という。活動屋なんてガラの悪いものと承知はしていたが、当時から既に切れ者と評判高い東大出のエリート課長の発言だけに、度肝を抜かれたという。工藤は、岡田を「色んな意味で頭がいいと思った。人間を掌握したり、自分でトラブルを解決したり、明快だったよね。それに勢いがあった。人を集めて、バーッとやらせるという。映画てのはそれでいいと思う」と評している。 1955年、後の東京撮影時所長・幸田清が、現場で下働きして数ヵ月後、事務方に配属の辞令を受けたが、当時30歳の岡田製作課長に抗議にいったら、「現場が好きか」と聞かれ、希望通り現場に籍を置けることになった。一課長が辞令をねじ曲げたことに驚いたという。 岡田が1960年代から1970年代にかけて仕掛けた「任侠映画」や「実録ヤクザ映画」、「東映ポルノ」は、"女性の観客にまったく迎合しないアウトロー映画群"ともいわれ 今日概ね評価が高いが、これを批判する論調もある。武井昭夫は「岡田が敷いた東映やくざ映画路線が、日本映画を駄目にした、とわたしは思う。60年代も半ば近くになると、東映系はもちろん、映画館の中は、本当にやくざとその娼婦らしき人が目立ってきてなにか映画館が異様な雰囲気になった。やがて映画館がだんだんガラガラになっていった。統計的にはどうか分かりませんが、わたしはあの路線は長い目でみると、観客を増やさなかった、逆にまともな映画好きを遠ざけた、と思っている。全共闘学生たちのやくざ映画ファンも実は少数派だったんじゃないかな。日本の人口が増えていったのに、映画人口が減っていったのはなぜか。やくざ映画が観客を開拓したとはとうてい思えない。それから日活のポルノ映画も新しい客層をつくるというより、むしろほどなくマンネリとなって離れていった観客が多いのではないか。それで観客は家でテレビを観る、あるいは昔の名作をビデオを見るようになる。日本映画は自分で古い観客を追い出し新しい観客はあまりつくらなかった。つまりなかば自殺未遂を繰り返して、いまや衰弱死寸前の状態になった、と思うのです」と論じている。マキノ雅弘は「岡田茂や俊藤浩滋はハッキリいえば二人とも、映画人としてはゲテモノなんです」と述べている。 山城新伍は岡田を評して「毒気そのもの。もう吹いて吹いて吹きまくりというか、永田雅一さん以上の吹き屋でしたね。製作課長時代からこの人社長じゃないか、と錯覚さすような大きな事言ってました。俺がいなけりゃこの会社すぐポシャる、みたいな事で..」「時々違う方向に行くんで困る。どうかするとこの人、映画嫌いじゃないか、と思う時ありますよ」などと話していた。 奥山和由は、日本映画の不調がいわれた1990年代後半のインタビューで「映画界に大きな器という人が減ってきたと思う。映画は器量勝負ってところがあるから、これも映画衰退の背景の一つではないか。かつては政治家にも、田中角栄のような悪党かもしれないが面白い人がいたけど、いまは誰でしたっけという世界。東映の岡田茂さんなんて人は、どーんとして格好よかった。俳優も勝新、裕次郎、松田優作と、映画が命といってた連中がみんないなくなっちゃった」と話していた。1987年に奥山が企画した『ハチ公物語』は製作出資面で難航し却下された。そこで奥山は渋谷が舞台なので東急グループに出資にお願いしようと、東急リクレーションの社長も兼務していた岡田に橋渡しを頼んだ。ライバル会社に出資の仲介を頼みに行くというのは前代未聞。岡田はこの依頼に応え五島昇を紹介。東急グループは出資を決め、さらに三井物産も製作に参加。これを聞いて松竹は最後に出資を決定した。『ハチ公物語』は異業種が映画ビジネスに算入した初の邦画といわれる。同作は強力なプロモーションや大量の前売り券確保の後押しもあって、当時の松竹の新記録となる配収23億円の大ヒットとなった。1989年岡田は奥山を松竹とは別の場所で生かしてやりたい、と東映で金を出してやるから『大霊界~死んだらどうなる』みたいなの考えろと言ったら、奥山は「『大霊界』はカンベンして下さい」と初演されて間もない今井雅之の『THE WINDS OF GOD』を映画化したいと持って来たという。その後の経過は不明だが1995年に松竹で最初の映画化が行われた。 東映映画の大ファンで関連著作も多い杉作J太郎は、「東映不良性感度路線は『暴力とセックス』の男性カルチャー。僕が東映の映画に傾倒していったのは、自分の青春が不遇だったから。実生活で女性に冷たくされてへこんでいる自分を助けてくれたのは東映の映画だけだった。『女がなんだ!』その気持ちを奮い立たせてくれたんです。当時、東映の映画館に女性は皆無でした。それは岡田さんが、意図的に女性客を切り捨てた映画を作ってきたから。その意味ではギャンブラーですよ。絶対にその路線で行ける!という確たるものがあったわけではないですから。でもそういう『男だけでいい世界』を描く時代は、おそらくもう二度と来ないでしょう。だから当時の東映不良性感度路線の映画を観返すことは、単なるノスタルジーではなく、これからも必要となってくるはずです。それは岡田さんの大いなるギャンブルが残してくれた遺産なんです」と述べている。 映画美術の第一人者・井川徳道は、近代映画協会の新藤兼人の口利きで岡田を紹介してもらい東映京都撮影所に移籍した。東撮で長く仕事をしていたおり、松竹の篠田正浩から誘いを受けたことがあり、たまには芸術映画をやりたいと「しばらく京都を離れたい」と岡田に掛け合うが「映画は娯楽やぞ。一般の人が楽しんでこその映画や。評論家に選ばれるのではなく、東映のシステムの中でやってほしい」と諭され、その言葉に感銘を受けた井川は東映京都撮影所で今日まで60年以上の長きに渡り美術セットを作り続けている。 東映映画の惹句を量産した関根忠郎は、岡田と顔を合わせる度に「いいかキミ、おもしろい惹句を書けよ。大衆受けするヤツをな。誰にでも分かるヤツな。芸術は要らんぞ。映画は客が来てナンボだからな!」と言われたという。「これまで岡田会長が世に送った娯楽映画の数と同じ数だけ、わが師匠、橘喜代次と私とで書いた娯楽一点張りの惹句が残っている筈です」「岡田会長。私はこれまで大量の映画惹句を量産してきましたが、こと〈ゲイジュツ〉に惑わされたことはありません。なぜなら東映映画には、幸か不幸か高尚難解な芸術至上作品が見当たらなかったからです。私にとって岡田茂会長は、これからも〈映画の巨人〉であり続けます」などと話した。 『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』を共同製作した佐藤正之は岡田について「大映の永田雅一、松竹の城戸四郎は芸術やエンターテイメントが優先で収支はあとからついてくると考えていた。その点、岡田さんはまずはじめに収支ありきだ」と話した。大高宏雄は「これはちょっと凄い言葉だと思う。エンターテイメント云々の前に、収支優先というのが凄い。映画のあり方をめぐってよく言われる芸術とエンターテイメントという二分法をさえひっくり返す論法になるのではないか。儲からないとダメである。ここまで言い切った人は他にいない」と論じている。また岡田は自伝で「私の持論は“映画は商品である”ということに尽きる。倒産した会社、製作から撤退した会社が多い邦画界で生き残り、東映だけが製作を続けることができたのは、この信念が根底にあったからである」などと話しているが、これについて大高は「1960年代後半から製作が開始されたエログロ映画は、儲かるためなら、反社会的な企画であろうが、何でも貪欲に取り込んでいった“超=商業主義”とでも言いたい製作の恐るべき発展形といえる。それらの映画群は当時、映画は商業主義の枠内であっても、文化であると考えたい会社内外の常識的な人たちから猛反発を食らった。しかし今、この批判は岡田にとっては、勲章的な意味を持つ。商業主義の徹底化の果てに生まれたエログロ映画は、矮小な商業主義をさえ凌駕してしまった。今の映画界は一見、商業主義に徹しているようでいて、その徹底性において中途半端。過度の商業主義のように見えて、実はその商業主義は安全パイの中で構造化されている。だから商業性がありながら、少しでも反社会性を持つ企画はまず上がってくることはない。モデルのヤクザがまだ実在しているなかでの『仁義なき戦い』のシリーズ化、『山口組三代目』製作に於ける警察との軋轢が、どれほど想像を絶するリスクであったか、それらを飲み込んだ上で「映画は商品である」と言い放っていることを、今の日本映画界は思い知るべきで、真の商業主義というものを、岡田の存在から考えさせられる」などと論じている。 翁長孝雄は「東映調というのはつまりは岡田茂調です。統一した色があるんじゃなくて、とにかく先見の明で先へ先へ行くという。それで当たらないと判断したら、アッという間に次に行く。とにかく攻めの姿勢で、攻めることこそ守ることという発想なんです」と述べている。 高岩淡は1983年の映画誌の座談会で「萬屋錦之介さん、鶴田浩二さん、高倉健さん、菅原文太さん、佐久間良子さん、三田佳子さん、笠原和夫さん、深作欣二さん、降旗康男さん、佐藤純彌さん、みんな岡田茂社長が育てたスタッフと役者さんです。東映黄金時代の若者たちがいま映画界の第一線で頑張っているとはっきり言えます」と述べている。 高崎俊夫は「岡田茂の訃報を聞いて、しみじみと"巨星堕つ"の感を抱いた映画ファンは多いのではないだろうか。豪胆な言動から〈最後のカツドウ屋〉と呼ばれ、東映の自由闊達な気風を作り上げた不世出の大プロデューサー。岡田茂の波瀾に富む映画人生はそのまま戦後生まれた若い映画会社・東映の歴史にピタリと重なる。1951年、東映が設立されると岡田は経理のプロ・大川博と根っ子からの活動屋・マキノ光雄(1957年死去)という全く相反する個性の接着剤の役割を果たし、高度経済成長を背景に、東京・京都撮影所長を歴任するなかで、古参の監督の首を切り、大胆な超合理化を推し進める冷徹なマキャベリスト的な側面と、時代の空気と大衆の好み、欲望をいち早く察知する予見者の資質を併せ持つ岡田の稀有な才能は一挙に開花した。映画のブームは10年とばかりに、反戦映画、時代劇、任侠、実録、エログロ、文芸大作と次々に新路線を打ち出した。岡田の標する〈不良性感度〉は東映独自のカラーとして深く浸透した」などと評している。 中島貞夫は「日本映画界には優れたプロデューサーが何人かいて、また、経営者として優れた人もいた。岡田さんの場合は、その両方が出来る人だった。日本映画界で、映画を作ることと、商売すること両方をきちっとできた人は殆どいない。しかも、映画界というのが非常に苦しくなった時にそれをやってのけた。こんな人は、多分岡田さんが初めてだったんじゃないかと思いますし、今後もそういう方は出てくるのかなあ、という危惧はあります」と話している。岡田さんが京都の若手監督らを集めて『あのなあ、映画でメシ食っていこうや』『映画でメシ食っていこうという覚悟のあるヤツらだけでやろうや』と言ったことがある。その言葉が昭和40年代の映画界がどん底のなかで、東映が生き残った原動力かと思う(抜粋)」などと話している。大高宏雄も、「映画製作と、映画会社経営双方にまたがる矛盾そのものを、そうと悟られずに生き続けた稀有な映画人」であり「カツドウヤと資本家。ありえないことをやってのけた」と岡田を評した。松岡功も「岡田さんのように映画を作る才能と会社を経営する才能の両方を持っている方はなかなかいません。これからも出てこないと思います。私を含め岡田さんは全映画人のあこがれであり目標でした」と評している。 鈴木則文は映画を辞めようと思案していた時、珍しく自宅で静養していた岡田を尋ねた。鈴木はまだ映画を辞める心境だと言ってないのに何故か急に岡田はこれまでの自分の体験を話し始めた。最後に「己を足らざるを知り、ただちにそれを学べ」という言葉がある。忘れずに覚えておけよとしみじみ語った。鈴木はその格言の語源を漢字辞典などで調べてみたが発見できなかった。それは造語の天才である岡田が、その時即座に創った格言だったのである。この教えは、鈴木の胸に深く刻み込まれてその後の映画人生の指針になったという。岡田茂は傑出した映画人であった。が、同時に優れた教育者でもあったと述べている。「その性質は峻巌にして秋霜烈日。180センチを超える体格の持ち主で柔道三段。「三国志」や「水滸伝」に登場する豪傑のような人であった。押し出しの強い広島弁が特徴で、スマートに政財界の重鎮と渡り合ったかと思えば、その辺の方々にも睨みをきかせ、それでも愛された稀有な人でもあった。経営者としては、非常にシビアな面もあり、人員整理や人事異動を容赦なく行なった。〈国粋主義〉のレッテルを貼られ、GHQに禁止されていた時代劇が解禁され、その隆盛とともに岡田茂の擡頭がはじまった。市川右太衛門、片岡千恵蔵に替わる新しいスターの作品を連発し、敗戦国、日本国民の溜飲を下げ、娯楽に飢えていた国民の渇望を潤し東映株式会社の礎を築いた」「激変する時代の中で、落日の斜陽を浴びて悪戦苦斗する映画産業を護り抜き、また商売の要である幾多の人気俳優や有能なスタッフを育て上げた功績は、彼の並外れた〈人間力〉のしからしむるところであった。岡田茂こそ日本映画産業の衰退とともに死語となりつつある〈活動屋〉という言葉にふさわしい〔最後の活動屋プロデューサー〕なのだ」 などと岡田を評している。 岡田裕介は「岡田茂は東映カラーを作り上げた人間だと思いますが、私自身は先輩プロデューサーとして岡田茂を誰よりも研究してまいりました。テレビ映画が急成長していった1960年代に、今まであった東映映画の財産を、岡田茂はすべてテレビに移行していきました。「水戸黄門」や「遠山の金さん」など、時代劇でヒットしたシリーズをすべてテレビに売っていった印象があるのです。その時、映画の東映に何が残ったのか、それは"反テレビ"という思想であったと私は認識しています。テレビで出来るものは次々にテレビへ売って、映画ではテレビでやれないものを目指す。岡田茂の思想にはそれがあった。ですからヤクザ映画や、道路交通法を破っていく「トラック野郎」シリーズなど、テレビでは絶対できないものを次々に作っていきました。それで主人公はおのずとアウトローになっていったのです。岡田茂自身がアウトローを目指し、好んでエロティックな方向の作品を作ったのではなく、かなり確信的にそちらの方向にへ東映の映画を持っていった。それが岡田茂が守ろうとした東映カラーだと私は思います。また当時の東映の直営館は、そんなアウトローの世界を疑似体験できるような環境にありました。映画館の中でたばこ吸っても咎められませでしたし、映画館そのものが入口から出口まで東映ワールドであったと思います。ですから岡田茂は最初にシネコンで映画を観たときに『俺の時代は終わった』という言い方をしました。シネコンのようにどの会社の作品も同じ環境で鑑賞できる状況になると、東映の世界が崩れてしまいます。しかもシネコンはスーパーマーケットの傍らに設営されているものも多く、ファミリーで楽しめる商業モールのイメージを守らなくていけない。また観客もそういうものを求めるようになってきました。岡田茂は『不良性感度のあるもの、そういう映画しか観客は観ないんだ』と発言しましたが、いつの間にか観客は"良性"のものしか見ないようになってきたのです。こういう上映館の環境も含めた時代の流れは、東映にとって不利な状況であると感じています。そういう状況の中、東映の映画はどのような特徴を出していくのか。それは弊社がもともとやってきたB級映画を復活させて、そこから若い人材を発掘し、育成していくことだと思います。(中略)男女の嗜好も含め、観客のニーズは変化してきていますが、時代とピントの合ったB級映画を我々はこれから作っていかなくてはいけない。これまでの流れを見ても、時代を先取りした作品を東映は発表し、社会的なモラルから言えばギリギリの企画を、東映は実現して成功させてまいりました。今シネコンに対応した安全な企画が多い中で、そこに安住せず独自の企画で勝負するのが東映の映画ですし、またそれが弊社に課せられた使命だとも感じています」などと話している。
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批判と評価
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上記のような理論は当時の通説を覆すものであり、学会に大きな議論を投げかけた。しかし彼の取った手法、即ち神話と叙事詩の解釈を主材料とするという手法は、学問的見地から多くの批判が巻き起こった。日本の学者では前川和也などがこれを指摘している。 例えば、上述した主権を持つ集会(ウンキン Unkin)の意思決定手続きの説明を、ジェイコブセンは以下のような論拠によっている。集会を指揮する一人の指導者とは、通常神話内で神々の集会を取り仕切る天空神たるアン神の存在から想定されたものである。そして集会の決定を承認する7人の小グループとは、神話内における「7人の立法の神々」(Dingir nam tar a(k) inim anene)からその存在を導き出している。 また、ニップル市において戦争指導者が集会によって選出されたとし、その論拠として創世神話『エヌマ・エリシュ』があげられている。この神話内において、マルドゥク神が神々の集会で指導者としての地位を認められ、神々と敵対し魔獣を生み出した女神ティアマトと戦ったという説話が展開されることが、ジェイコブセンの主張の重要な証拠となっているのである。しかし、この神話はマルドゥク神による秩序の確立(即ちバビロンによる統治の正統性)を示すためにバビロンの宮廷で神官が朗唱したものであり、それが現在知られる形に纏められていく年代はシュメール初期王朝時代よりも遥か1000年以上後のカッシート時代のことである。 以上のように、神話や叙事詩を主材料としたジェイコブセンの原始民主制という仮説には、学問的見地から重大な問題があることが指摘されているのである。このために原始民主制論は、現在ではそのままこれを採用する研究者はあまり存在しない。 しかし、上記のような重大な欠陥にもかかわらず、このジェイコブセンの仮説は研究史上重要な論説として今日でも度々触れられる。それは、原始民主制論が多くの批判に晒されながらも、これをきっかけとした後発の研究をいくつも生み出したことによる。ジェイコブセンのこの仮説は、長期間にわたって学会で認められていた神殿都市論などへの重要な批判を提供することが出来た点で重要である。軍事指導者の機能拡大が王権の成立に繋がったとするこの説は、神殿都市論の描く宗教性の強いシュメール社会像とは異なり、シュメール社会を「世俗的発展」の論理で把握しようとした視点によっている。この視点はシュメール研究において重要な意味を持っていると評価されている。
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批判と評価
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「NIPPON (曲)」の記事における「批判と評価」の解説
『週刊朝日』は、2014年7月4日号の誌上にて、「(サッカー日本代表のチームカラーを「混じり気無い青」と表現した歌詞が)『純血性』を強調している」、「(死をイメージさせる歌詞が)特攻隊を思わせる」、「『日本の応援歌なんだから日の丸は当然』と言うが、意味深な歌詞をはためく国旗の下で歌われてしまうと、さすがにいろいろ勘ぐりたくもなる」などと評した。こういった観点について、音楽評論家の石黒隆之は「日本に限定された歌がずっと流れることになるのも、相当にハイリスク」「過剰で、TPOをわきまえていないフレーズ。日本以前にサッカーそのものを想起させる瞬間すらない」と、NHKのワールドカップ中継のテーマとしてふさわしくないと批判し、ジャーナリストの清義明も「サッカーは民族と文化のミクスチャー(混在)のシンボル」「最近は浦和レッズの一部のサポーターが掲げた『ジャパニーズ・オンリー』という横断幕が差別表現と大批判された事件もあったのに、サッカーのカルチャーをまったくわかってないとしか言いようがない」と批判している。一方で、音楽評論家の宗像明将は「デビュー当時から和の要素も含む過剰な様式美を押し出してきた人ですから、その要素が過剰に出すぎて議論を呼んでいるだけでしょう」として、椎名の音楽に特段の政治性はないと擁護している。 これらの批判に対して椎名自身は、雑誌『SWITCH』のインタビューにて「貧しい」「諸外国の方々が過去の不幸な出来事を踏まえて何かを問うているなら耳を傾けるべき話もあるかもしれないが、日本人から右寄り云々と言われたのは心外。(それらの批判は)揚げ足を取られたと理解するほかない。趣味嗜好の偏りや個々の美意識の違いなどという話を踏まえた上でも、自分は誰かを鼓舞するものを書こうとはしても誰かに誤って危害を加えるようなものは書いていないつもりだ」と反論し、不謹慎だと言われた“死”という言葉については「死は生と同じくみんな平等に与えられるもので、勝負時にせよ今しかないという局面にせよ、死の匂いを感じさせる瞬間は日常にもある。ここを逃すなら死んだ方がマシという誇りや負けた後のことまで考えていられないという決死の覚悟をそのまま写し取りたかっただけ」と答えている。また、2014年6月14日にゲスト出演したラジオ番組『JA全農 COUNTDOWN JAPAN』において、椎名は「最前線で戦う方だけにわかる、『ここを逃したら死ぬしかない、死んでもいいから突破したい』っていう気持ちはどんな分野にでもある。その瞬間だけを苦しむんじゃなくて、楽しもうという気分を切り出せば成功するだろうと思い、頑張って取り組んだ」と語っている。
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