19世紀前半
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19世紀的な意味での本格的な夢幻劇は、1806年12月6日にゲテ・モンパルナス劇場(ゲテ座)で初演された Le Pied de mouton(『羊の脚』)から始まったと言われる。この作品は、Alphonse Martainvilleが俳優のCésar Ribiéと共同で書いたもので、恋に悩む英雄グスマンが、恋人レオノーラを悪役のライバルの手から救うために旅をする物語である。グスマンは、魔法のお守り・タリスマン(タイトルの通り、羊の脚)の助けを借りて、美徳と義務の大切さを説く妖精に見守られながら、音楽、バレエ、決闘などのスパイスを効かせた壮大な試練の数々を乗り越えていく。肖像画が動いたり、人が飛んだり、付き添い人がギタリストに変身したり、食べ物が消えたりと、舞台装置を活用しながら不思議な出来事が自由に展開されていく。最後には、愛がすべてを克服し、妖精が再び介入して、悪に対する善の勝利を確かなものにする。 Le Pied de mouton は大成功を収め、何度も再演された。この作品は、その後100年間にわたる夢幻劇の標準的な形式を確立した。それはすなわち、主人公(たち)がスペクタクルな場面を通じて一連の冒険をする物語であり、しばしば観客の目の前で舞台装置が「魔法のように」転換する、というものである。この作品は、このジャンルの典型的な例として引用され続けている。 一度確立された夢幻劇形式は瞬く間に流行し、1800年から1820年の間に60本もの夢幻劇が製作された。1826年にポルト・サン・マルタン劇場で上演された「メロドラマ・フェリー」の Le Monstre et le magicien は、ゴシック調でメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』を下敷きにしているというテーマ面だけでなく、文字通りの意味でも新境地(新しい床)を開拓した。イギリス人デザイナーのトムキンスを起用して、舞台の床にトラップドアの複雑な仕掛けを新たに施したのである。トラップドア(はねぶた)は夢幻劇の定番の仕掛けとなった一方、舞台におけるゴシック・フィクションの流行は1830年代までには落ち着いた。ギルベール・ド・ピクセレクール(英語版)の代表作である Ondine または La Nymphe des Eaux(1830年)は、人間と超自然的な存在との恋愛を描いた作品の流行のきっかけとなった作品で、死すべき存在である人間と恋に落ちて魂を手に入れた水の精オンディーヌの、バレエティックな恋愛物語である。舞台機構の技術的な進歩は、すぐに新しい夢幻劇作品に取り込まれていった。1830年代後半にパリの主要な劇場に導入されたガス灯は、よりリアルな舞台装置と様々な雰囲気の演出を可能にし、ライムライトは太陽の光や月の光を再現するために特に有用なものとなった。同様に、ルイ・ダゲールが発明したジオラマ――照明の変化によって動きがもたらされ、移り変わっていく舞台装置――は、夢幻劇の転換演出に大きな影響を与えた。 Le Pied de mouton の成功に匹敵する最初の大ヒット作は、シルク・オリンピックの Les Pilules du diable(1839年)である。ヴォードヴィル作家のオーギュスト・アニセ=ブルジョワと、サーカス作品の脚本家であるラルーとローランの2人が脚本を書いたもので、初期の夢幻劇よりも舞台効果は豪華になっていたが、プロットは以下のようなお馴染みのものだった。アンジェーヌであるイザベルに夢中の、金持ちのイダルゴ(下級貴族)、ソティネスが、彼女とその恋人アルベールを追いかけて壮大で奇想天外な冒険を繰り広げるというものである。Les Pilules du diable は広く再演され、模倣され、おそらく最も有名な夢幻劇となった。 その後、La Biche au bois 、La Chatte Blanche 、Peau d'Âne など、童話や騎士道物語から大いに借用しつつ、当時の流行に合わせてストーリーを変えた作品がヒットした。人気劇作家のアドルフ・デネリー(英語版)は、1844年に Les Sept Châteaux du diable(『七つの大罪の城』)という道徳劇風のファンタジーをゲイテ劇場でヒットさせた。若いカップルが、七つの大罪を象徴する城において数々の誘惑に立ち向かう、という物語である。デネリーによる他の夢幻劇の中には、同様に道徳的な作品 Rothomago(1862年)がある。 多作で知られるコニャール兄弟の作品群も、多くの成功を収めた夢幻劇である。『千夜一夜物語』を翻案した1843年の Les Mille et une nuits は、このジャンルに異国情緒を取り入れながらも、ヴォードヴィルのような軽快な台詞回しを保っていた。コニャール作品としては他にも、カフェ・コンセールで活躍したテレーザを起用した La Chatte blanche、トリック満載の La Poudre de Perlinpinpin、1858年にヴォードヴィル作家のClairvilleと共同制作され、それまでの主要な夢幻劇作品のほとんどに対する参照と引喩が散りばめられた喜劇スペクタクル Les Bibelots du diable などがある。Le Pied de mouton と Les Pilules du diable での喜劇的な傾向は、Les Sept Châteaux、Perlinpinpin、Les Bibelots など、成功作の多くで強調されていた。 夢幻劇は大規模なスペクタクルであるため、最も大きく設備面も充実したパリの舞台が会場として最も需要を集めた。元々は政治や馬術関係のイベントに使われていたアリーナ、シルク・オリンピックでは、奥行きのあるステージを利用して豪華な夢幻劇が上演された。しかし最終的にはスペクタクル上演のために特別に建造された新しいオーディトリアム、シャトレ座に取って代わられることとなった。ポルト・サン・マルタン劇場は、元々オペラ作品用に設計されていたが、夢幻劇の要求に適した舞台と機構を備えていたことから、マルク・フルニエによるディレクションのもと、このジャンルで隆盛を誇った。
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19世紀前半
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19世紀前半
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「N・M・ロスチャイルド&サンズ」の記事における「19世紀前半」の解説
19世紀前半、ナポレオン戦争の最中、ロンドンのロスチャイルド銀行は、イギリス政府による同盟国へ転送する資金の調達を先導していた。独自のネットワークによって、スペインとポルトガルに駐留していたウェリントン公の軍隊に資金を送ることができた。さらに、ロスチャイルド銀行は、1818年に、プロイセン政府に対する500万ポンドの融資を手配し、政府の債権を発行した。政府の計画に対して革新的かつ複雑な資金提供を行うことは、銀行の主力業務として、19世紀の大半を費やし形成されていった。 1814年、M・M・ヴァールブルク&CO を企業系列に加えた。 1825年までには、N・M・ロスチャイルド&サンズはシティにおいての財政力は強大になり、イングランド銀行の通貨発行権を手に入れ、流動性の悪化を防ぐことができた。 ロスチャイルドは1833年の奴隷制廃止法案の可決の為、150万ポンドを提供したにも関わらず、奴隷制そのものにも携わっていた。
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19世紀前半
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1803年 イギリスで世界初の公共目的の馬車鉄道であるサリー鉄道が開業。 1807年 イギリス(ウェールズ)で世界初の旅客輸送を行なう馬車鉄道が開業(Swansea and Mumbles Railway)。 1825年 イギリスで世界初の蒸気機関を用いる公共鉄道、ストックトン・ダーリントン間が開業した。 1827年 フランス初の鉄道開業。 サン=テティエンヌ - アンドレジュー間。フランスでは1842年頃から鉄道建設が活発化した。 1830年 アメリカ初の鉄道開業。 ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道。1846年にはアメリカの代表的な鉄道会社の一つであるペンシルバニア鉄道が開業した。 1835年 ドイツ初の鉄道開業。 ニュルンベルク - フュルト間。 1830年代後半~、ベルギー、イタリアなどでも鉄道の建設・開業が相次ぐ。 1840年代~ 各地で鉄道建設ラッシュ。 1840年代頃からイギリスで鉄道の建設が一段と活発化した。アメリカでも1848年に西部のカリフォルニア州がアメリカ領となり、同時期にはじまる金採掘ブーム(ゴールドラッシュ)を機に鉄道建設が一段と活発化した。
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19世紀前半
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19世紀初め(ラテンアメリカ情勢の詳細)、イスパニョーラ島(フランス領サン・ドマング)で黒人革命が起こり、黒人共和国ハイチが独立したことで、同島における奴隷制プランテーションは壊滅した。そのため、砂糖きび生産にかかわる白人プランターは、ハイチに代わってキューバで砂糖きびプランテーションの経営を行った。そのため、19世紀半ばまでにはキューバは世界最大の砂糖生産地となった。さらに、それまで専売だった葉巻の販売がスペイン政府により自由化されたことを受けてたばこ生産も盛んになり、葉巻の通商でも富を得るようになった。しかし同時に、1830年代からスペインの支配者が次第に抑圧的となり、キューバ国内の入植者の間では次第に独立の気運が高まり、一時キューバのアメリカ編入を目指す運動も起きた。
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19世紀前半
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「ノースダコタ州の歴史」の記事における「19世紀前半」の解説
ルイス・クラーク探検隊が1804年から1805年に掛けての冬、現在のウォッシュバーン近くに建設した砦で過ごした。 1820年代、先住民族の多くは天然痘の流行で人口を減らし、マンダン族やヒダーツァ族はまとまって生活することを余儀なくされた。後にアリカラ族もスー族によって北方に追われ、マンダン族やヒダーツァ族と共に三族連合を形成した。 この地域の最初のヨーロッパ人開拓地はペンビアだった。ハドソン湾会社によって交易基地として使われたが、1818年の1818年条約(英語版)に続いて北緯49度線が調査された後の1823年に取り壊された。この地域には後にメティが住み着いた。 世紀の半ばに向けて、毛皮交易がミズーリ川における川舟交易の発展に拍車を駆けた。ビスマークと現在のウィリストンに近いユニオン砦は蒸気船時代の重要な港になった。ノースダコタの大半はその後に開拓された。
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19世紀前半
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「オリンピック関連年表」の記事における「19世紀前半」の解説
1829年 ギリシャ独立。 1834年 第1回スカンジナビアオリンピック。 1836年 第2回スカンジナビアオリンピック。 1850年 マッチウェンロックオリンピック始まる。
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「地震の年表 (日本)」の記事における「19世紀前半」の解説
1801年5月27日(享和元年4月15日) 上総地震 - 久留里城が破損。 1802年12月9日(享和2年11月15日) 佐渡小木地震 - M6.5 - 7.0、死者37人。 1804年7月10日(文化元年6月4日) 象潟地震 - M7.0±0.1、死者500から550人。象潟で2mの地盤隆起と3から4mの津波。 1808年12月4日(文化5年10月17日) 紀伊半島沖で地震 - M7.6、深夜に2度の強い揺れ。紀伊半島から四国にかけて弱い津波。2004年の地震に類似。 1810年9月25日(文化7年8月27日) 男鹿半島で地震 - M6.5±1⁄4、死者60人 1812年12月7日(文化9年11月4日) 文化神奈川地震 - M6+1⁄4±1⁄4またはM6.4、震源は東京湾、神奈川宿を中心に死者多数。 1819年8月2日(文政2年6月12日) 文政近江地震 - M7+1⁄4±1⁄4又はM6.9、伊勢・美濃・近江で地震、死者多数。 1823年9月29日(文政6年8月25日) 陸中岩手山で地震 - M4.8 - 6.0、山崩れあり、死者 69人、不明4人。 1826年1月(文政8年12月) 小笠原諸島近海で地震 父島二見湾で津波の高さ推定6m。 1828年12月18日(文政11年11月12日) 三条地震(越後三条地震) - M6.9、死者1,681人。 1830年8月19日(文政13年7月2日) 京都地震 - M6.5±0.2、死者280人。二条城など損壊。 1833年5月27日(天保4年4月9日) 美濃西部地震 - M6+1⁄4 死者11人。余震は8月まで、震源は根尾谷断層付近。 12月7日(天保4年10月26日) 庄内沖地震(出羽・越後・佐渡地震、天保4年羽前沖地震) - M7+1⁄2±1⁄4(Mw8, Mt8.1)、死者40 - 130人。能登半島・東北・北陸の日本海沿岸に津波。1964年新潟地震の津波よりも規模が大きい。 1834年2月9日(天保5年1月1日) 石狩地震 - M6.4、イシカリ場所を中心に81戸が全半壊。JR札幌駅以北の複数個所で液状化の跡が見つかっているため、M6.5 - 6.6という説もある。 1835年7月20日(天保6年6月25日) 宮城県沖地震(仙台地震、天保大津波 ※) - M7.0程度、死者多数。仙台城が損壊、津波ありとするも別の地震を混同した疑いあり。 1839年5月1日(天保10年3月18日) 釧路・厚岸で地震 - M7.0程度、国泰寺門前の石灯籠が大破。津軽で強い揺れ。 1843年4月25日(天保14年3月26日) 天保十勝沖地震 - M7.5 - 8.0、死者46人。厚岸に津波。 1847年5月8日(弘化4年3月24日) 善光寺地震(弘化大地震) - M7.4。山崩れにより犀川の河道閉塞と閉塞部の決壊により洪水、死者約1万 - 1万3000人。 5月13日(弘化4年3月29日) 越後頸城郡(現在の新潟県上越市高田付近:高田平野東縁断層)を震源とする地震 - M6+1⁄2±1⁄4、死者20人以上。善光寺地震の誘発地震。
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