文学と創作物表現とは? わかりやすく解説

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文学と創作物表現

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 05:43 UTC 版)

近親相姦」の記事における「文学と創作物表現」の解説

大衆文化における近親相姦」、「文学における近親相姦」、および「映画とテレビ番組における近親相姦」も参照 アリストテレスは『詩学』において創作物理論展開しており、この中でソポクレスの『オイディプス王』が悲劇作品傑作としてしばしば引き合い出されているが、藤沢令夫ソポクレス作品アイスキュロス関連作品比して恐ろしいのはオイディプス父親殺し母親結婚する事態になったのは自分自身ダイモーン原因であってそもそも父親であるライオスオイディプスという子供作ったせいなどではないとされている点にあるという。河合祥一郎は、ソポクレスが『オイディプス王』で主題としたのは、日本語で「運」などと訳されるテュケー」であるとする。なお、エウリピデスの『フェニキアの女たち』ではイオカステオイディプスとの間にできた息子達が死ぬまで生きていることになっているが、これはソポクレスイオカステ「母」でもあるが「女」でもあるとするのに対しエウリピデスイオカステはあくまで「母」であると解したためだと河合祥一郎論じている。ソポクレスの『コロノスのオイディプス』では、オイディプス神霊となるが、こんな話にしたのはペロポネソス戦争滅亡可能性があったアテネ人々に対して逆境に耐え不滅となった存在提示したかったからではないか吉田敦彦論じている。マルキ・ド・サド古典的悲劇のような体裁で『ユージェニー・ド・フランヴァル、悲惨物語』という近親相姦扱った短編執筆しているが、澁澤龍彦によれば父親と娘が一緒に家庭というものに対し反旗を翻すこの短編は、誤魔化してはいるが結局のところ作者自身の反家庭思想表現されている作品なのだと論じている。澁澤龍彦は、近親相姦この上なく甘美なものだ、という固定観念抜きがたく思っていると告白した上で理由について相手中に自分自己愛注入し、しかもそれを自分の目で見ることが出来るというユートピア状況想像してしまうからではないかとした。 『源氏物語』では桐壺帝の妻の藤壺と息子の光源氏不倫描かれるのだが、歌舞伎桐壺帝演じた市川團十郎瀬戸内寂聴不倫分かっている設定でこの二人の間にできた子供を抱く演技をしたか否かについて聞いてみたところ分かっているつもりで演技をしたと回答され、光源氏役の市川新之助頓珍漢だったものの市川團十郎はちゃんと『源氏物語』読んでいると田中慎弥語っている。なお、藤壺光源氏最初の性関係の場面書かれないのだが、この理由について三田誠広は、もし仮に女房らには語ったことがあったとしても、一条天皇見せるのは畏れ多い判断して写本含めなかった可能性があると推測している。大塚ひかりは、藤壺というのが藤原彰子の局の名前であることに着目し藤壺光源氏密通の話は彰子敦康親王親密な関係を背景書かれたものかもしれないという見方をしている。橋本治光源氏息子夕霧について「女にてなどかめでざらむ」というまるで父親息子欲情しているかのような表現があることについて触れた上で、これはそういうことではなく男同士親密な関係にあることを意味する用語が紫式部時代になかったということだろうと述べている。ウィリアム・シェイクスピア作品である『ハムレット』サクソ・グラマティクス義理の姉との結婚カトリック価値観から近親相姦だと『デンマーク人の事績』非難したことが基になっているハムレットにとってクローディアスは叔父でかつ義父ということになるのだが、ハムレット自信は母と叔父結婚快く思っていない。河合祥一郎は、ハムレットが母が禍々しい行為走ったのは結局は叔父への性欲原因だと考えているため、ハムレット自身オフィーリア対す自身性欲憎んでいるのだと論じた志賀直哉『ハムレット』題材に『クローディアスの日記』という作品書いているのだが、宮越勉はこの作品が『濁つた頭』の草稿描かれる義母との逸話酷似していることから、志賀直哉自身義母への性的欲望反映した作品なのではないか論じている。 『有明けの別れ』は、左大将犯されていた継娘助けよう左大将の姪が奮闘し、この姪と継娘が深い友情結ばれる話なのだが、大塚ひかりこのように男性嫌悪女性同性愛的な傾向同一物語描かれることは興味深い評する近松門左衛門心中扱った作品について大塚ひかり若い頃理解不能部分があったとしつつも、神谷養勇軒の編纂とされる『新著聞集』には、大坂での話として、継父継娘恋慕した継娘出家者と家を出て行ってしまったため、継父訴え起こし継娘出家者二人とも斬首されてしまったという話があることを引き合い出しこのような社会的背景の下では近松門左衛門心中扱った作品受けが良いのももっともだ論じている。曲亭馬琴らの話をまとめた『兎園小説』には、父親自称する男が娘と性関係を結ぼうとしたが、拒まれたので遊女にしようとし、それも嫌がったので短刀殺害し当然のことだと平然としていたが多く人々はこれを許さず役所訴訟起こす事態となったことが文化14年実際の事件として載っているが、曲亭馬琴はこの男は父親自称しているだけで父親ではなかったのではないか疑っていた模様である。 スタンダールが『アンリ・ブリュラールの生涯』で母親接吻する描写出したことについて、原田武インセスト的ではあるものの不自然と言うには至らないとする。『アンリ・ブリュラールの生涯』というのはスタンダール自伝のような作品とされているのだが、恋慕対象として描写されているスタンダール母親実際にスタンダール7歳時に亡くなっているわけで、大岡玲憎しみ感情混ざっている夏目漱石とは異な部分もあるものの、同様にスタンダール母親がいないがゆえにそれを求めてしまう人間だったのだなと分析している。夏目漱石は『行人』においてダンテ『神曲』での兄嫁義弟恋愛話を取り上げている。夏目漱石登場する貧農喩え長塚節の『土』のようににおける父と娘近親相姦それとなく暗示したとされる作品もあるが、水上勉は、村社会父親と娘あるいは母親と息子が孤独さの仲で結ばれたとしても、誰も非難できないであろう論ずる。 島崎藤村は自らの体験を基にして、姪との恋愛題材にした『新生』という小説書いたが、自分のための作品であってに対して配慮がろくになされていないということで、単なる偽善ではないか芥川龍之介は『或阿呆の一生』で批判したとされる。ただし、小谷野敦は『或阿呆の一生』で述べられているのはダンテの『新生』のことではないか指摘する田山花袋は、島崎藤村の『新生』を読んで島崎藤村自殺してしまうことを危惧した杞憂終わった芥川龍之介母親性的に奉仕することが息子にとっての親孝行になりうるということ題材にした箴言を『侏儒の言葉』に残している。母親との性行為息子にとっての奉仕のような行為として描いた触角記』の著者である花村萬月は、実際に母子姦頻発していると主張した太宰治は『魚腹記』において父と娘近親相姦の話を取り上げているが、太宰治自身入水未遂事件話題にしているとみられる大蛇への変身譚挿話異なり娘が変身するという話になっているのは、父親処女奪われた娘に対す太宰治なりの温情なのではないか寺山修司は「「魚腹記」手稿」で論じている。一方鈴木貞美は「太宰治――虚構への転生」で、『魚腹記』の娘が大蛇ではなくになったのは家によって犯され津島修治自身が、その家に対して復讐失敗したということ意味するではないか論じた鈴木貞美は『魚腹記』は形態としては民話のように書いているが、これは近代小説超越するためにあえてこのような形態にしたのであり、娘を犯したことについて父親は罪を負わないという内容はまったくもって伝説父娘相姦ありようとはいえないと指摘している。鶴谷憲三は「「魚腹記」の「語り」」で、語りによって伝説民話っぽくすることで、父親が娘を犯すという忌み嫌われる内容がより自然に受け入れやすくなる指摘した。『魚腹記』の近親相姦の性描写暴力的なことについて笠原伸夫は「太宰治における死とエロス」で、これは愛というものは痛みが伴うものであり、痛みなくして愛の甘美な側面を描くことなどできない作者考えていたためだとしている。相馬正一太宰治自身思い出作品にした『思ひ出』について、育ての親である叔母似た人物好きになったという話なので近親相姦の話だろうとするが、花田俊典はこれはそうではなくただ単に叔母達に愛されていた過去には戻れないのだという悲しみ綴ったけだろう論じている。 三島由紀夫は「肉欲にまで高まった兄妹愛というものに自分は昔から最も甘美なものを感じ続けてきた」と自身戯曲熱帯樹』の解題述べており、自身も『音楽』、『熱帯樹』などの近親相姦含んだ作品執筆している。三島由紀夫夭折した実妹美津子について「ふしぎなくらい愛していた」と『終末感からの出発昭和二十年自画像』で回想し妹の死以後文学的情熱推進する出来事一つだったと論じている。平岡兄妹親しかった湯浅あつ子は、三島由紀夫は妹を女(異性)として第一番に感じ、それは肉親愛ともちょっと違う初めての「愛」だったのだと思えるとしている。中上健次被差別部落舞台に、囚人となった入れ墨全身施した父親対す復讐として、売春婦である異母妹交わり異母弟殺害する枯木灘』という小説書いたが、樋口ヒロユキ被差別部落出自に持つ中上健次はこの作品通して身分制度エロス結びつける三島由紀夫批判したかったのではないか論じている。新藤謙は、今村昌平近親相姦扱った作品着目し今村近親相姦肉親の最高の親愛、あるいは性の愉悦極北捉えているかどうかつまびらかでないとした上で、そこに基層社会猥雑さと貧困、また性のおおらかさ見ていることは確かであろう指摘している。無人島愛の巣築こうとする兄妹描いた神々の深き欲望』は近代への反措定古代への憧憬があり、そこからは今村近親相姦の性の親和力の面に力点を置き、近親相姦断罪しようとはしない姿勢と、基層人間への愛情読み取れる分析している。 山本周五郎の『季節のない街』には、「がんもどき」という育て父親性的虐待を受ける少女についての話がある。この男性少女関係性は、少女から見て母の姉の夫であるが、自分たちが戸籍上の親だという男性台詞もある。中野新治は「善悪超えた世界住人たち」において、この少女自分死にたい思ったとき、少年忘れられたくないということ刺したという証言についてマルティン・ブーバーの「我と汝」と「我とそれ」の概念引き合い出し伯父にとって性欲捌け口すなわち「それ」でしかなかった彼女が、少年とは「我と汝」の関係でありたいと願う心がこのような行動引き起こしたのだと論じた倉橋由美子の『聖少女』は、父親近親姦関係となった少女存在しない母の恋人についての空想描いた小説であるが、この話は後に作られ自分養女として引き取った男が実は実の父親であると暗示される桜庭一樹の『私の男』に通じるところがあると上野千鶴子指摘する。性関係を結んだかつての恋人の娘が実の娘という題材は、中村文則の『あなたが消えた夜に』でも父親側から語りとして用いられている。桜庭一樹は、少年殺人者になることによって現実超越しようとするのに対し少女近親相姦俗物たる大人頭上越えよう考えると倉橋由美子の『聖少女』の解説記述している。倉橋由美子は、自身近親相姦小説に書く理由について、「真実突きつけショック療法を行うというような意図全くない」と断った上で、「『近親相姦いかにして聖化するか』という課題魅力感じるから」と述べており、自身の「理論からいけば最高の組み合わせ双生姉弟兄妹)であるとしている。矢川澄子は、相思相愛兄妹というテーマは、各種男女の愛の形式中でも最も純粋で、かつまた宿命的に悲劇性帯びたものとして私の心を捉えやまないものの一つであると述べている。兄妹といったが、場合によっては姉弟でも起こりうるだろうし、何なら男女二卵性の双生児だってよいとしている。また、兄弟姉妹の間に真に緊密な一体感生まれるためには、互いに物心が付く前から相手存在していた方がよく、したがって年の差大きすぎない方がよいともという。宮沢賢治と妹とし子の関係について触れ、妹の存在宮沢賢治与えた影響大きさ指摘している。 近親者間の性愛書いた作品を描くことが複数あった野坂昭如は、ただ単に欲望を持つというだけならばともかく、父親が幼い娘に、あるいは母親年少息子性行為をするのは、みっともない行為であると主張する野坂昭如の『エロ事師たち』には義母性行為強要されそうになった男が義母について潰したような臭いがしたという話があるが、同じく登場する野坂昭如『火垂るの墓』にもよく見ると兄が妹に欲情する描写があり、これらの作品では性的な存在としての女の喩えとなっていると樋口ヒロユキ論じている。筒井康隆の『エディプスの恋人』には主人公女性恋人母親憑依され宇宙偏在する精神体となり、恋人はその母親憑依された自分と性行為をして童貞喪失するという描写があるのだが、青木はるみはこの表現について別に息子主観としては母親ではないのだから気色悪い表現ではないと述べる。内田春菊の『ファザーファッカー』は養父性的虐待受けた自身経験を基にした自伝小説ということ売り出したが、本人はこれは商業致し方なくやった部分があって、本当はただのお話として読んでほしかった旨を語っている。『ファザーファッカー』の新装版収録され内田春菊の「25年後のあとがきによれば、この小説長編として仕上げるよう勧めたのは筒井康隆であったという。ちなみに、『ファザーファッカー』がイタリア語翻訳されたのが漫画の『南くんの恋人』より早かったため、ボローニャ大学内田春菊が行った際にはてっきり小説家だと思っていたと言われとのことである。佐野眞一は、天童荒太の『永遠の仔』で父親近親姦をされた女性扱われていることについて触れた上で近親姦あったかどうかは判断留保しつつもこの小説家族構造東電OL殺人事件被害者家族構造似ている気がする指摘している。 村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』は、それまで三島由紀夫自決しようとどうでもいいといったポストモダン小説書いていた村上春樹歴史政治を扱う小説家になったと評されるきっかけとなった作品で、ノモンハン事件扱っているのだが、同時にに対して近親相姦欲望を抱く兄が登場する話でもある。村上春樹が『少年カフカ』で述べところによれば、『海辺のカフカ』はオイディプス伝説を基にした部分があるとのことである。ただし、村上春樹は『少年カフカ』で、母親存在実際に母親ではないので、交わったところで近親相姦はならずあくまでメタフォリカルなものにとどまり不自然さはないと述べている。清水良典は『海辺のカフカ』についての解説で、田村カフカ母親かもしれない佐伯セックスするという表現は、小説内の現実として描かれているわけではなく深層心理メタファー化しているわけだと指摘した清水良典は、父親が死ぬことで物語動き出す『1Q84』も、潜在的には『海辺のカフカ』に描かれエディプス的なモチーフ引き継いでいると論じた東野圭吾の『秘密』は、死んだ妻の魂が娘に宿るという設定なのだが、井上ひさし設定自体評価しつつも、内容近親相姦的なため作者自身がきつい内容に耐え切れずについ常識的な作品仕上げてしまったように見えると指摘した皆川博子は、娘としての肉体を持つ妻と夫は性交渉できるのかという内容を、東野圭吾誠実に冷静に描こうとするわけであるが、これは東野圭吾作家として理念に基づくものだと自分考えていると『秘密』の文庫版解説評している。川上弘美の『水声』は姉と弟近親相姦扱った作品なのだが、文庫版解説執筆した江國香織執筆の際に浮かんだ一般的」という言葉についてそもそも一般的」とはどういうことなのかと考え込んでしまったと述べている。村田沙耶香の『消滅世界』では夫婦が行性行為近親相姦として扱われるが、斎藤環は『消滅世界』のこのアイディアには自身特別に感動した語っている。 永田守弘は、官能小説においては近親相姦などの男女関係要素フェティシズムなどを組み合わせることで多様なストーリー展開生み出されていると指摘する永田守弘は、藤堂慎太郎による著作ママ美尻』で母親と息子のアナルセックス扱われていることを例にとり、官能小説世界ではフェチ高じてアナルフェチに至る場合もあると論ずる。櫻木充の『僕と義母ランジェリー』では息子との性行為の際の潮吹き陰核脈動描写があるのだが、永田守弘このようにエクスタシー表現においてはイク」という台詞いかなる表現伴わせるかが重要であると論じた藍川京は、自らの作品継母』を引き合い出し関係する相手としては継母という設定の方が他人という設定より官能小説向きだし、実際継母との性関係を扱った話は人気もあると述べている。 デーヴィッド・ハーバート・ローレンスは、親子の間には生物学的に性的に惹かれあわないという特徴があると考える。ローレンスは、家族の愛はあくまで基底的なものであり、それが大人同士のような愛に発展するなどということはありえない論じた。その一方でローレンスは、仮にまったく肉体的なものでなかったとしても強烈な親の愛は子供の性的な中枢刺激するのである論じている。ローレンスは、精神的な近親相姦本能的な嫌悪対象比較的なりにくいため肉体的な近親相姦より問題だと述べ思春期以後家族相互にタブー存在として接触制限が行われるべきだと主張したアナイス・ニン30歳の時、音楽家であった実の父親ホアキン・ニンとの近親相姦体験しそのこと自身日記肉体的な性交描写留まらず自身あらゆる感情について克明に記録し出版したエリカ・ジョング父娘間の性交扱った自著ファニー』が映画舞台になる際、それらを担当した脚本家がその部分をどうしても変えるといって聞かなかったという出来事触れ当時近親相姦のタブー強さ指摘しアナイス・ニンはこのタブー自分人生によって破り、しかもそのことを書くという今まで誰もやったことがない大胆さ持っていたと述べたエリカ20世紀が終わるにあたってアナイス・ニン革新性文学一部となり、女性文学の中で近親相姦描写することのタブー破られ現代女性作家ニン世代夢想したともない驚くほどの作劇上の自由を手にしていると評価している。アナイス・ニン愛人だったオットー・ランクアナイスから彼女と父親との性行為の話を聞いた際、「あなたは人生神話のように生きようとしている」と評したジュディス・ハーマンは、ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』においては義理の父親が義理の娘に誘惑されるという話が扱われていることを指摘した上で男性誌扱われている実話ということにされている話について話の流れ似ていることから『ロリータ』芸術的に劣化させた話のように感じられならない感想述べている。アメリカにおいては性的自由の風潮育ってきたことによるものかどうか判定するのは難しいが、近親相姦扱った漫画映画書物増加しているとされ、1921年から1930年の間に封切られた長編映画近親相姦を含むものは全6606本のうち6本だったのに対し1961年から1970年の間では全5775本の79本あった。近親相姦扱った物語の内容としても、『オイディプス王』に見られるような悲劇テーマとは異にしてきており、暗い結末持っておらず、性的束縛対す全体的な挑戦一つとして映画書物の中で気軽に扱われるのが流行してきている。リチャード・ガートナーは、映画において少年関係する年上の女性が経験豊富魅力的な女性として描かれることが多く、『好奇心』のようにこの考えそのまま母親と息子の関係に当てはめた作品もあると指摘する。 ワーナー・ソラーズは近親相姦混血正反対位置にあるにもかかわらず奴隷制を持つ社会舞台としたフィクションで表象においてはしばしば密接な関係を持って描かれる指摘している。ナサニエル・ホーソーン母方4代前の祖先のニコラス・マニングは、自身二人の妹と性的関係結んでおり、またホーソン自身も姉のエリザベス固着的な姉弟関係を持っていた。岩田強はホーソンにとって聡明な姉のエリザベスが常に発達同一化対象であった指摘している。また、エリザベス生涯独身であったことについて触れ、彼女が弟を愛し崇拝していたということ、また弟の結婚相手憎悪していたということ慮ると、近親相姦感情存在否定しきれない分析している。テネシー・ウィリアムズ少年時代より唯一の遊び相手だった姉のローズと仲が良かったが、精神病んだ姉が自身知らない間にロボトミー手術受けて廃人となってしまったことで、結婚もせず、生涯償いあるかのように姉の面倒を見ることになった。姉ローズへの思いは、『浄化』『ガラスの動物園『欲望という名の電車』二人だけ芝居』といったテネシー作品の中で登場人物中に投影されていて、それは時に痛みを伴うものであり、時には近親相姦思わせるものでもあるという。 トーマス・マンは『選ばれし人』、『エジプトヨセフ』など近親相姦扱った作品執筆しているが、トーマス・マン育った一家には性的色彩濃厚に帯びた兄妹愛が存在していたことが長男ハインリヒ・マン著作などから指摘されている。長男ハインリヒ次女カルラ次男トーマス長女ルーラそれぞれの組み合わせには恋愛感情ないしはそれに近いものが存在していた。また、トーマス・マンが妹カルラ宛てた短編衣装戸棚』の内容からトーマス・マンもう一人の妹である次女カルラにも性的な愛情向けていた可能性があるという。トーマス・マン双子兄妹近親相姦扱った『ヴェルズンゲンの血』を書く数か月前にカーチャ・プリングスハイムを妻にしているが、彼女は双子の兄にクラウス・プリングスハイムがおり、トーマス・マンは『ヴェルズンゲンの血』が何らかの出来事焼き直しであるということ示唆する手紙書いていた。そのため、『ヴェルズンゲンの血』はプリングスハイム家双子兄妹モデルにしていると話題になった高山秀三近親愛他人よりも自分に近い者への愛としてナルシシズム原点に持つと述べ近親愛関心があったトーマス・マン三島由紀夫ナルシシズム観点から共通性が見い出される論じている。パーシー・ビッシュ・シェリーは、自身著作『チェンチ家』『レイオンとシスナ』『ロザリンドヘレン』で近親相姦扱っているが、「近親相姦は、非常に詩的な題材である。それは、愛情過度憎悪過度かのいずれかである。それは、最高の英雄的な行為栄光に身を包むもののために、他の総て無視するのであるか、或いは利己主義嫌悪耽る目的のために、思想の内にある善と悪観念混同し、これらを無視する冷笑的な憤怒あるかのいずれかである」と述べている。マルグリット・ユルスナール文学における近親相姦歴史を『姉アンナ…』の自作解説振り返り父娘や母息子場合双方意志基づかないものが多く兄弟姉妹だけには意志的なものが成り立つと主張したマルグリット・ユルスナール近親相姦可能性の状態で人間感受性中に偏在していることは神話伝説夢想統計新聞記事などが充分に証明していると述べた

※この「文学と創作物表現」の解説は、「近親相姦」の解説の一部です。
「文学と創作物表現」を含む「近親相姦」の記事については、「近親相姦」の概要を参照ください。

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