文学と創作物表現
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「大衆文化における近親相姦」、「文学における近親相姦」、および「映画とテレビ番組における近親相姦」も参照 アリストテレスは『詩学』において創作物理論を展開しており、この中ではソポクレスの『オイディプス王』が悲劇作品の傑作としてしばしば引き合いに出されているが、藤沢令夫はソポクレスの作品がアイスキュロスの関連作品に比して恐ろしいのは、オイディプスが父親を殺し母親と結婚する事態になったのは自分自身のダイモーンが原因であって、そもそも父親であるライオスがオイディプスという子供を作ったせいなどではないとされている点にあるという。河合祥一郎は、ソポクレスが『オイディプス王』で主題としたのは、日本語で「運」などと訳される「テュケー」であるとする。なお、エウリピデスの『フェニキアの女たち』ではイオカステはオイディプスとの間にできた息子達が死ぬまで生きていることになっているが、これはソポクレスはイオカステは「母」でもあるが「女」でもあるとするのに対し、エウリピデスはイオカステはあくまで「母」であると解したためだと河合祥一郎は論じている。ソポクレスの『コロノスのオイディプス』では、オイディプスは神霊となるが、こんな話にしたのはペロポネソス戦争で滅亡の可能性があったアテネの人々に対して、逆境に耐え不滅となった存在を提示したかったからではないかと吉田敦彦は論じている。マルキ・ド・サドは古典的悲劇のような体裁で『ユージェニー・ド・フランヴァル、悲惨物語』という近親相姦を扱った短編を執筆しているが、澁澤龍彦によれば父親と娘が一緒に家庭というものに対し反旗を翻すこの短編は、誤魔化してはいるが結局のところ作者自身の反家庭思想が表現されている作品なのだと論じている。澁澤龍彦は、近親相姦はこの上なく甘美なものだ、という固定観念を抜きがたく思っていると告白した上で、理由について相手の中に自分の自己愛を注入し、しかもそれを自分の目で見ることが出来るというユートピア的状況を想像してしまうからではないかとした。 『源氏物語』では桐壺帝の妻の藤壺と息子の光源氏の不倫が描かれるのだが、歌舞伎で桐壺帝を演じた市川團十郎に瀬戸内寂聴が不倫を分かっている設定でこの二人の間にできた子供を抱く演技をしたか否かについて聞いてみたところ、分かっているつもりで演技をしたと回答され、光源氏役の市川新之助は頓珍漢だったものの市川團十郎はちゃんと『源氏物語』を読んでいると田中慎弥に語っている。なお、藤壺と光源氏の最初の性関係の場面は書かれないのだが、この理由について三田誠広は、もし仮に女房らには語ったことがあったとしても、一条天皇に見せるのは畏れ多いと判断して写本に含めなかった可能性があると推測している。大塚ひかりは、藤壺というのが藤原彰子の局の名前であることに着目し、藤壺と光源氏の密通の話は彰子と敦康親王の親密な関係を背景に書かれたものかもしれないという見方をしている。橋本治は光源氏が息子の夕霧について「女にてなどかめでざらむ」というまるで父親が息子に欲情しているかのような表現があることについて触れた上で、これはそういうことではなく男同士が親密な関係にあることを意味する用語が紫式部の時代になかったということだろうと述べている。ウィリアム・シェイクスピアの作品である『ハムレット』はサクソ・グラマティクスが義理の姉との結婚をカトリックの価値観から近親相姦だと『デンマーク人の事績』で非難したことが基になっている。ハムレットにとってクローディアスは叔父でかつ義父ということになるのだが、ハムレット自信は母と叔父の結婚を快くは思っていない。河合祥一郎は、ハムレットが母が禍々しい行為に走ったのは結局は叔父への性欲が原因だと考えているため、ハムレット自身もオフィーリアに対する自身の性欲を憎んでいるのだと論じた。志賀直哉は『ハムレット』を題材に『クローディアスの日記』という作品を書いているのだが、宮越勉はこの作品が『濁つた頭』の草稿に描かれる義母との逸話に酷似していることから、志賀直哉自身の義母への性的欲望を反映した作品なのではないかと論じている。 『有明けの別れ』は、左大将に犯されていた継娘を助けようと左大将の姪が奮闘し、この姪と継娘が深い友情で結ばれる話なのだが、大塚ひかりはこのように男性嫌悪が女性同性愛的な傾向が同一の物語で描かれることは興味深いと評する。近松門左衛門の心中を扱った作品について大塚ひかりは若い頃は理解不能な部分があったとしつつも、神谷養勇軒の編纂とされる『新著聞集』には、大坂での話として、継父が継娘に恋慕したが継娘が出家者と家を出て行ってしまったため、継父は訴えを起こし継娘と出家者は二人とも斬首されてしまったという話があることを引き合いに出し、このような社会的背景の下では近松門左衛門の心中を扱った作品の受けが良いのももっともだと論じている。曲亭馬琴らの話をまとめた『兎園小説』には、父親を自称する男が娘と性関係を結ぼうとしたが、拒まれたので遊女にしようとし、それも嫌がったので短刀で殺害し、当然のことだと平然としていたが多くの人々はこれを許さず役所に訴訟を起こす事態となったことが文化14年の実際の事件として載っているが、曲亭馬琴はこの男は父親を自称しているだけで父親ではなかったのではないかと疑っていた模様である。 スタンダールが『アンリ・ブリュラールの生涯』で母親と接吻する描写を出したことについて、原田武はインセスト的ではあるものの不自然と言うには至らないとする。『アンリ・ブリュラールの生涯』というのはスタンダールの自伝のような作品とされているのだが、恋慕の対象として描写されているスタンダールの母親は実際にはスタンダールが7歳の時に亡くなっているわけで、大岡玲は憎しみの感情が混ざっている夏目漱石とは異なる部分もあるものの、同様にスタンダールも母親がいないがゆえにそれを求めてしまう人間だったのだなと分析している。夏目漱石は『行人』においてダンテの『神曲』での兄嫁と義弟の恋愛話を取り上げている。夏目漱石が登場する貧農を獣に喩えた長塚節の『土』のように村における父と娘の近親相姦をそれとなく暗示したとされる作品もあるが、水上勉は、村社会で父親と娘あるいは母親と息子が孤独さの仲で結ばれたとしても、誰も非難できないであろうと論ずる。 島崎藤村は自らの体験を基にして、姪との恋愛を題材にした『新生』という小説を書いたが、自分のための作品であって姪に対しての配慮がろくになされていないということで、単なる偽善ではないかと芥川龍之介は『或阿呆の一生』で批判したとされる。ただし、小谷野敦は『或阿呆の一生』で述べられているのはダンテの『新生』のことではないかと指摘する。田山花袋は、島崎藤村の『新生』を読んで、島崎藤村が自殺してしまうことを危惧したが杞憂に終わった。芥川龍之介は母親に性的に奉仕することが息子にとっての親孝行になりうるということを題材にした箴言を『侏儒の言葉』に残している。母親との性行為を息子にとっての奉仕のような行為として描いた『触角記』の著者である花村萬月は、実際に母子姦は頻発していると主張した。 太宰治は『魚腹記』において父と娘の近親相姦の話を取り上げているが、太宰治自身の入水未遂事件を話題にしているとみられる大蛇への変身譚の挿話と異なり娘が鮒に変身するという話になっているのは、父親に処女を奪われた娘に対する太宰治なりの温情なのではないかと寺山修司は「「魚腹記」手稿」で論じている。一方、鈴木貞美は「太宰治――虚構への転生」で、『魚腹記』の娘が大蛇ではなく鮒になったのは家によって犯された津島修治自身が、その家に対しての復讐に失敗したということを意味するのではないかと論じた。鈴木貞美は『魚腹記』は形態としては民話のように書いているが、これは近代小説を超越するためにあえてこのような形態にしたのであり、娘を犯したことについて父親は罪を負わないという内容はまったくもって伝説の父娘相姦のありようとはいえないと指摘している。鶴谷憲三は「「魚腹記」の「語り」」で、語りによって伝説や民話っぽくすることで、父親が娘を犯すという忌み嫌われる内容がより自然に受け入れやすくなると指摘した。『魚腹記』の近親相姦の性描写が暴力的なことについて笠原伸夫は「太宰治における死とエロス」で、これは愛というものは痛みが伴うものであり、痛みなくして愛の甘美な側面を描くことなどできないと作者が考えていたためだとしている。相馬正一は太宰治が自身の思い出を作品にした『思ひ出』について、育ての親である叔母に似た人物を好きになったという話なので近親相姦の話だろうとするが、花田俊典はこれはそうではなくただ単に叔母達に愛されていた過去には戻れないのだという悲しみを綴っただけだろうと論じている。 三島由紀夫は「肉欲にまで高まった兄妹愛というものに自分は昔から最も甘美なものを感じ続けてきた」と自身の戯曲『熱帯樹』の解題で述べており、自身も『音楽』、『熱帯樹』などの近親相姦を含んだ作品を執筆している。三島由紀夫は夭折した実妹、美津子について「ふしぎなくらい愛していた」と『終末感からの出発―昭和二十年の自画像』で回想し、妹の死が以後の文学的情熱を推進する出来事の一つだったと論じている。平岡兄妹と親しかった湯浅あつ子は、三島由紀夫は妹を女(異性)として第一番に感じ、それは肉親愛ともちょっと違う初めての「愛」だったのだと思えるとしている。中上健次は被差別部落を舞台に、囚人となった入れ墨を全身に施した父親に対する復讐として、売春婦である異母妹と交わり異母弟を殺害する『枯木灘』という小説を書いたが、樋口ヒロユキは被差別部落を出自に持つ中上健次はこの作品を通して身分制度とエロスを結びつける三島由紀夫を批判したかったのではないかと論じている。新藤謙は、今村昌平の近親相姦を扱った作品に着目し、今村が近親相姦を肉親の最高の親愛、あるいは性の愉悦の極北と捉えているかどうかはつまびらかでないとした上で、そこに基層社会の猥雑さと貧困、また性のおおらかさを見ていることは確かであろうと指摘している。無人島に愛の巣を築こうとする兄妹を描いた『神々の深き欲望』は近代への反措定と古代への憧憬があり、そこからは今村が近親相姦の性の親和力の面に力点を置き、近親相姦を断罪しようとはしない姿勢と、基層人間への愛情が読み取れると分析している。 山本周五郎の『季節のない街』には、「がんもどき」という育ての父親に性的虐待を受ける少女についての話がある。この男性と少女の関係性は、少女から見て母の姉の夫であるが、自分たちが戸籍上の親だという男性の台詞もある。中野新治は「善悪を超えた世界の住人たち」において、この少女の自分が死にたいと思ったとき、少年に忘れられたくないということで刺したという証言について、マルティン・ブーバーの「我と汝」と「我とそれ」の概念を引き合いに出し、伯父にとって性欲の捌け口すなわち「それ」でしかなかった彼女が、少年とは「我と汝」の関係でありたいと願う心がこのような行動を引き起こしたのだと論じた。 倉橋由美子の『聖少女』は、父親と近親姦関係となった少女の存在しない母の恋人についての空想を描いた小説であるが、この話は後に作られた自分を養女として引き取った男が実は実の父親であると暗示される桜庭一樹の『私の男』に通じるところがあると上野千鶴子は指摘する。性関係を結んだかつての恋人の娘が実の娘という題材は、中村文則の『あなたが消えた夜に』でも父親側からの語りとして用いられている。桜庭一樹は、少年は殺人者になることによって現実を超越しようとするのに対し、少女は近親相姦で俗物たる大人の頭上を越えようと考えると倉橋由美子の『聖少女』の解説で記述している。倉橋由美子は、自身が近親相姦を小説に書く理由について、「真実を突きつけてショック療法を行うというような意図は全くない」と断った上で、「『近親相姦をいかにして聖化するか』という課題に魅力を感じるから」と述べており、自身の「理論」からいけば最高の組み合わせは双生の姉弟(兄妹)であるとしている。矢川澄子は、相思相愛の兄妹というテーマは、各種の男女の愛の形式の中でも最も純粋で、かつまた宿命的に悲劇性を帯びたものとして私の心を捉えてやまないものの一つであると述べている。兄妹といったが、場合によっては姉弟でも起こりうるだろうし、何なら男女二卵性の双生児だってよいとしている。また、兄弟姉妹の間に真に緊密な一体感が生まれるためには、互いに物心が付く前から相手が存在していた方がよく、したがって年の差は大きすぎない方がよいともという。宮沢賢治と妹とし子の関係について触れ、妹の存在が宮沢賢治に与えた影響の大きさを指摘している。 近親者間の性愛を書いた作品を描くことが複数あった野坂昭如は、ただ単に欲望を持つというだけならばともかく、父親が幼い娘に、あるいは母親が年少の息子に性行為をするのは、みっともない行為であると主張する。野坂昭如の『エロ事師たち』には義母に性行為を強要されそうになった男が義母について蛍を潰したような臭いがしたという話があるが、同じく蛍が登場する野坂昭如の『火垂るの墓』にもよく見ると兄が妹に欲情する描写があり、これらの作品では蛍は性的な存在としての女の喩えとなっていると樋口ヒロユキは論じている。筒井康隆の『エディプスの恋人』には主人公の女性が恋人の母親に憑依され宇宙に偏在する精神体となり、恋人はその母親に憑依された自分と性行為をして童貞を喪失するという描写があるのだが、青木はるみはこの表現について別に息子の主観としては母親ではないのだから気色悪い表現ではないと述べる。内田春菊の『ファザーファッカー』は養父に性的虐待を受けた自身の経験を基にした自伝風小説ということで売り出したが、本人はこれは商業上致し方なくやった部分があって、本当はただのお話として読んでほしかった旨を語っている。『ファザーファッカー』の新装版に収録された内田春菊の「25年後のあとがき」によれば、この小説を長編として仕上げるよう勧めたのは筒井康隆であったという。ちなみに、『ファザーファッカー』がイタリア語に翻訳されたのが漫画の『南くんの恋人』より早かったため、ボローニャ大学に内田春菊が行った際にはてっきり小説家だと思っていたと言われたとのことである。佐野眞一は、天童荒太の『永遠の仔』で父親に近親姦をされた女性が扱われていることについて触れた上で、近親姦があったかどうかは判断を留保しつつもこの小説の家族の構造は東電OL殺人事件の被害者の家族の構造と似ている気がすると指摘している。 村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』は、それまで三島由紀夫が自決しようとどうでもいいといったポストモダンな小説を書いていた村上春樹が歴史や政治を扱う小説家になったと評されるきっかけとなった作品で、ノモンハン事件を扱っているのだが、同時に妹に対して近親相姦的欲望を抱く兄が登場する話でもある。村上春樹が『少年カフカ』で述べるところによれば、『海辺のカフカ』はオイディプス伝説を基にした部分があるとのことである。ただし、村上春樹は『少年カフカ』で、母親的存在は実際には母親ではないので、交わったところで近親相姦にはならずあくまでメタフォリカルなものにとどまり不自然さはないと述べている。清水良典は『海辺のカフカ』についての解説で、田村カフカが母親かもしれない佐伯とセックスするという表現は、小説内の現実として描かれているわけではなく、深層心理をメタファー化しているわけだと指摘した。清水良典は、父親が死ぬことで物語が動き出す『1Q84』も、潜在的には『海辺のカフカ』に描かれたエディプス的なモチーフを引き継いでいると論じた。東野圭吾の『秘密』は、死んだ妻の魂が娘に宿るという設定なのだが、井上ひさしは設定自体は評価しつつも、内容が近親相姦的なため作者自身がきつい内容に耐え切れずについ常識的な作品に仕上げてしまったように見えると指摘した。皆川博子は、娘としての肉体を持つ妻と夫は性交渉できるのかという内容を、東野圭吾は誠実に冷静に描こうとするわけであるが、これは東野圭吾の作家としての理念に基づくものだと自分は考えていると『秘密』の文庫版解説で評している。川上弘美の『水声』は姉と弟の近親相姦を扱った作品なのだが、文庫版解説を執筆した江國香織は執筆の際に浮かんだ「一般的」という言葉について、そもそも「一般的」とはどういうことなのかと考え込んでしまったと述べている。村田沙耶香の『消滅世界』では夫婦が行う性行為が近親相姦として扱われるが、斎藤環は『消滅世界』のこのアイディアには自身が特別に感動したと語っている。 永田守弘は、官能小説においては近親相姦などの男女関係の要素にフェティシズムなどを組み合わせることで多様なストーリー展開が生み出されていると指摘する。永田守弘は、藤堂慎太郎による著作『ママの美尻』で母親と息子のアナルセックスが扱われていることを例にとり、官能小説の世界では尻フェチが高じてアナルフェチに至る場合もあると論ずる。櫻木充の『僕と義母とランジェリー』では息子との性行為の際の潮吹きや陰核の脈動の描写があるのだが、永田守弘はこのようにエクスタシー表現においては「イク」という台詞にいかなる表現を伴わせるかが重要であると論じた。藍川京は、自らの作品『継母』を引き合いに出し、関係する相手としては継母という設定の方が他人という設定より官能小説向きだし、実際継母との性関係を扱った話は人気もあると述べている。 デーヴィッド・ハーバート・ローレンスは、親子の間には生物学的に性的には惹かれあわないという特徴があると考える。ローレンスは、家族の愛はあくまで基底的なものであり、それが大人同士のような愛に発展するなどということはありえないと論じた。その一方でローレンスは、仮にまったく肉体的なものでなかったとしても強烈な親の愛は子供の性的な中枢を刺激するものであると論じている。ローレンスは、精神的な近親相姦は本能的な嫌悪の対象に比較的なりにくいため肉体的な近親相姦より問題だと述べ、思春期以後の家族は相互にタブーな存在として接触の制限が行われるべきだと主張した。 アナイス・ニンは30歳の時、音楽家であった実の父親ホアキン・ニンとの近親相姦を体験し、そのことを自身の日記に肉体的な性交の描写に留まらず、自身のあらゆる感情について克明に記録し、出版した。エリカ・ジョングは父娘間の性交を扱った自著『ファニー』が映画や舞台になる際、それらを担当した脚本家がその部分をどうしても変えるといって聞かなかったという出来事に触れ、当時の近親相姦のタブーの強さを指摘し、アナイス・ニンはこのタブーを自分の人生によって破り、しかもそのことを書くという今まで誰もやったことがない大胆さを持っていたと述べた。エリカは20世紀が終わるにあたって、アナイス・ニンの革新性は文学の一部となり、女性文学の中で近親相姦を描写することのタブーは破られ、現代の女性作家はニンの世代が夢想したこともない驚くほどの作劇上の自由を手にしていると評価している。アナイス・ニンの愛人だったオットー・ランクはアナイスから彼女と父親との性行為の話を聞いた際、「あなたは人生を神話のように生きようとしている」と評した。ジュディス・ハーマンは、ウラジーミル・ナボコフの『ロリータ』においては義理の父親が義理の娘に誘惑されるという話が扱われていることを指摘した上で、男性誌で扱われている実話ということにされている話について話の流れが似ていることから『ロリータ』を芸術的に劣化させた話のように感じられてならないと感想を述べている。アメリカにおいては、性的自由の風潮が育ってきたことによるものかどうかは判定するのは難しいが、近親相姦を扱った漫画や映画、書物は増加しているとされ、1921年から1930年の間に封切られた長編映画で近親相姦を含むものは全6606本のうち6本だったのに対し、1961年から1970年の間では全5775本の内79本あった。近親相姦を扱った物語の内容としても、『オイディプス王』に見られるような悲劇のテーマとは異にしてきており、暗い結末を持っておらず、性的束縛に対する全体的な挑戦の一つとして映画や書物の中で気軽に扱われるのが流行してきている。リチャード・ガートナーは、映画においては少年と関係する年上の女性が経験豊富で魅力的な女性として描かれることが多く、『好奇心』のようにこの考えをそのまま母親と息子の関係に当てはめた作品もあると指摘する。 ワーナー・ソラーズは近親相姦と混血が正反対の位置にあるにもかかわらず、奴隷制を持つ社会を舞台としたフィクションでの表象においてはしばしば密接な関係を持って描かれると指摘している。ナサニエル・ホーソーンの母方の4代前の祖先のニコラス・マニングは、自身の二人の妹と性的関係を結んでおり、またホーソン自身も姉のエリザベスと固着的な姉弟関係を持っていた。岩田強はホーソンにとって聡明な姉のエリザベスが常に発達同一化の対象であったと指摘している。また、エリザベスが生涯独身であったことについて触れ、彼女が弟を愛し崇拝していたということ、また弟の結婚相手を憎悪していたということを慮ると、近親相姦的感情の存在は否定しきれないと分析している。テネシー・ウィリアムズは少年時代より唯一の遊び相手だった姉のローズと仲が良かったが、精神を病んだ姉が自身の知らない間にロボトミー手術を受けて廃人となってしまったことで、結婚もせず、生涯償いであるかのように姉の面倒を見ることになった。姉ローズへの思いは、『浄化』『ガラスの動物園』『欲望という名の電車』『二人だけの芝居』といったテネシーの作品の中で登場人物の中に投影されていて、それは時に痛みを伴うものであり、時には近親相姦を思わせるものでもあるという。 トーマス・マンは『選ばれし人』、『エジプトのヨセフ』など近親相姦を扱った作品を執筆しているが、トーマス・マンが育った一家には性的色彩を濃厚に帯びた兄妹愛が存在していたことが長男ハインリヒ・マンの著作などから指摘されている。長男ハインリヒと次女カルラ、次男トーマスと長女ルーラのそれぞれの組み合わせには恋愛感情ないしはそれに近いものが存在していた。また、トーマス・マンが妹カルラに宛てた短編『衣装戸棚』の内容から、トーマス・マンはもう一人の妹である次女カルラにも性的な愛情を向けていた可能性があるという。トーマス・マンは双子の兄妹の近親相姦を扱った『ヴェルズンゲンの血』を書く数か月前にカーチャ・プリングスハイムを妻にしているが、彼女は双子の兄にクラウス・プリングスハイムがおり、トーマス・マンは『ヴェルズンゲンの血』が何らかの出来事の焼き直しであるということを示唆する手紙を書いていた。そのため、『ヴェルズンゲンの血』はプリングスハイム家の双子の兄妹をモデルにしていると話題になった。高山秀三は近親愛は他人よりも自分に近い者への愛としてナルシシズムを原点に持つと述べ、近親愛に関心があったトーマス・マンと三島由紀夫をナルシシズムの観点から共通性が見い出されると論じている。パーシー・ビッシュ・シェリーは、自身の著作『チェンチ家』『レイオンとシスナ』『ロザリンドとヘレン』で近親相姦を扱っているが、「近親相姦は、非常に詩的な題材である。それは、愛情の過度か憎悪の過度かのいずれかである。それは、最高の英雄的な行為の栄光に身を包むもののために、他の総てを無視するものであるか、或いは、利己主義と嫌悪に耽る目的のために、思想の内にある善と悪の観念を混同し、これらを無視する冷笑的な憤怒であるかのいずれかである」と述べている。マルグリット・ユルスナールは文学における近親相姦の歴史を『姉アンナ…』の自作解説で振り返り、父娘や母息子の場合は双方の意志に基づかないものが多く、兄弟姉妹だけには意志的なものが成り立つと主張した。マルグリット・ユルスナールは近親相姦が可能性の状態で人間の感受性の中に偏在していることは神話や伝説、夢想、統計、新聞記事などが充分に証明していると述べた。
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