文学と三角山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/30 10:23 UTC 版)
平安時代の在原行平は、855年(斉衡2年)に因幡国の国司に任じられ、京都から因幡国(現在の鳥取県東部)に下向した。用瀬では、このとき行平が用瀬で次の歌を詠んだという伝承がある。 ゆく先を みすみの山を 頼むには これをぞ神に 手向けつつゆく この歌に詠まれている「みすみの山」が三角山であり、「神」が三角山神社であるという伝承がある。三角山の山頂にある権現では、「力石」と称して願掛けや願いが成就した際に山頂の巨岩に石を手向けるしきたりがあった。なお、この和歌は鎌倉時代の『夫木和歌抄』によみ人しらずとして収録されているものであり、在原行平の作であると直接示されてはいない。また、因幡にはもう一つ「三角山」(旧国府町)があり、用瀬の三角山がこの和歌の「みすみの山」であるのかは定かではない。 また、三角山で詠まれたという説がある和歌でもう一つ有名なものに、種田山頭火による次の歌がある。 分け入っても分け入っても青い山 一般にこの歌は、山頭火の自由律俳句の代表例として知られており、山頭火が最初に流浪した九州で詠まれたと考えられている。山頭火は各地を旅し、その日記から九州、四国、信州、北陸へ赴いたことが知られているが、山頭火自身が日記の一部を焼き捨てたため一部が現存しない。このため、かつては、日記に書かれていない山陰には来たことがないというのが定説だったが、後に用瀬で昭和3年に山頭火が自筆で残したこの歌が発見された。用瀬町では、三角山の参道にこの歌を刻んだ石碑を設けているが、この歌が確実に三角山で詠まれたものであるかどうかについては言及していない。
※この「文学と三角山」の解説は、「三角山 (鳥取県)」の解説の一部です。
「文学と三角山」を含む「三角山 (鳥取県)」の記事については、「三角山 (鳥取県)」の概要を参照ください。
- 文学と三角山のページへのリンク