騎兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/10 09:15 UTC 版)
日本における騎兵
先史から鎌倉時代まで
日本の騎兵は、大陸と異なる独特な発展を遂げた。
日本列島では古墳時代の4世紀末から5世紀に家畜としての馬が九州に伝来し、方形周溝墓や古墳の副葬品として馬骨や馬歯、馬具が出土しており、乗馬として用いられたと考えられている。
律令国家の時代、天武天皇は武官に対して用兵・乗馬の訓練に関する発令をし、大宝律令と養老律令を通じて学制で騎兵隊が強調された。
ヤマト王権と対立した蝦夷は狩猟で培った騎射を主体に戦う軽騎兵であった。騎射の技術は俘囚によって伝わり、武士たちは乗馬と弓の技術を「弓馬の道」と呼び戦闘技術として尊ぶようになった。これ以降は騎兵であることは武士の身分を示すものでもあった(詳しくは武士、士分の項を参照のこと)。封建制の発展した中世の日本において、武士達は西洋の封建領主(騎士)のように、自身らは騎兵として武装し、郎党、従卒からなる徒歩の兵を引きつれ戦争を行った。
ヨーロッパの騎士が槍による突撃を好んだのに対し、日本の武士は弓を主力とし、薙刀や大太刀などの打物は矢が無くなってから使用する武器であった。また大陸の遊牧民や蝦夷が軽装で馬上で取り回しが良い短弓を使う軽装短弓騎兵であったのに対し、日本の武士は重装備である大鎧を纏い、威力を重視した長弓(和弓)を使う重装長弓騎兵であった。この類型は日本独自である。
日本において、騎兵の戦術に長けていた指揮官としては、一ノ谷の戦いで騎兵を生かした奇襲攻撃で勝利した源義経がいる。
日本の騎兵が海外の軍隊と交戦した例として元寇がある。文永の役において、九州に出動した御家人は元軍と激戦を繰り広げた。
元寇における鎌倉武士の様子をモンゴル帝国の官吏・王惲は「兵杖には弓刀甲あり、しかして戈矛無し。騎兵は結束す。殊に精甲は往往黄金を以って之を為り、珠琲をめぐらした者甚々多し、刀は長くて極めて犀なるものを製り、洞物に銃し、過。[訳語疑問点]但だ、弓は木を以って之を為り、矢は長しと雖えども、遠くあたわず。人は則ち勇敢にして、死をみることを畏れず」[8] と鎌倉武士が騎兵を密集させて集団で戦っていたことを指摘している。『蒙古襲来絵詞』絵五にも鎌倉武士が騎兵を結束させて集団で戦っている様子が描かれており、王惲の指摘を裏付けている。
南北朝時代~江戸時代
南北朝時代のころから、日本はかつての騎兵を中心とした戦争から歩兵中心の戦闘に移行し、騎兵もそれ以前とは異なる運用がされるようになっていった。足軽が軍の主力となる事で歩兵戦闘が戦の中心となり状況によって降りて戦う事も必要とされてきたのである。ルイス・フロイスは著書『日本史』第41章、元亀二年(1571年)八月、和田惟政が白井河原の戦いで騎馬武者を下馬させ戦闘した項で、「交戦の際には徒歩で戦うのが日本の習慣だから」と説明している。
『軍法侍用集』にも騎馬を集結運用する陣形が登場しており、馬、槍、鉄砲の運用について言及した長宗我部元親の文書や『雑兵物語』などの当時の文献でも、その様子を窺い知る事が出来る。上記のフロイスの記述がある一方、その4年後の天正三年(1575年)の長篠の戦いに徳川家臣として従軍した水野正重の書上「覚書 故水野左近物語」(譜牒余録巻三)には戦闘中に武田の騎馬武者が3~50騎の集団で陣城前の柵まで攻め寄せてきた記述があるし、評定での織田信長の言葉として「武田家中の者はよく馬に乗り、敵陣を乗り破る由聞き及びたり、さらに手立てせよ」といい陣前に柵を備えた事が記述されており、他にも騎馬隊による騎乗戦闘があった記述は多くのこされている。当時馬用の鎧(馬の博物館所蔵)が存在していた事もあり乗馬戦闘が皆無だったという訳ではない。先述のフロイスの記述もあくまで少数だった和田勢が多勢の敵に対し密集して挑む為に下馬して戦ったまででその方が理に適っていたからである(戦場の地形が騎乗戦闘に適していたかも考慮しなければならない)。
また戦国後期になると各兵科毎に集めて部隊を組む事も行うようになっており(戦国遺文後北条氏篇第3巻、1923号には北条氏直が武蔵岩附衆に当てた書状にて小旗、鑓、鉄砲、弓、歩者、騎馬の兵科毎に奉行を置き総勢1500人程の岩附衆がそれぞれの兵科毎に奉行に率いられて戦う様に書かれている)後期には兵科分けが行われた。
重騎兵の優位性が低下した西欧においては、火縄銃を装備した新しい騎兵、竜騎兵が登場したが、日本はそののち江戸時代に入り、250年もの間戦争がほとんどなくなったため、以降、独自に騎兵が発展することはなかった。
ギャラリー
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イラスト、16世紀
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武士の鎧と馬の鎧
明治以降
時代が下り明治維新前後からは、日本は富国強兵の政策のもと、近代的な騎兵隊の創設に着手した。騎兵の運用については、幕末に江戸幕府がヨーロッパから軍事顧問を招き、インドシナ駐留フランス軍士官の指導に基づいて騎兵の訓練が行われている。明治初期に日本陸軍が創設されるとヨーロッパ種が輸入されて軍馬の改良も行われ、秋山好古らが中心となり、騎兵運用の研究が行われた。秋山は騎兵科創設にも関わり、日露戦争においては、馬格で劣る日本馬で、当時世界最強と謳われたロシアのコサック騎兵に勝つため、機関銃の装備など、数々の工夫をなした。秋山好古は『本邦騎兵用兵論』において敵地深く侵入し後方撹乱にあたる挺進騎兵の必要性も説き、永沼挺進隊により実行されている[9]。 その為、秋山は「日本騎兵の父」と呼ばれる。
第一次世界大戦後の軍縮と軍備近代化の中で、運用経費が高価で戦力価値も疑問視された騎兵は、削減の槍玉にあげられ、歩兵師団所属の騎兵連隊の規模縮小などが行われた。騎兵の乗馬戦闘の全面廃止までも論争となり、騎兵科の吉橋徳三郎少将が抗議の自殺をする騒動となった。結果、乗馬戦闘の全面廃止は無かったものの、機関銃の増加などによる乗馬歩兵化や、捜索連隊の創設による機械化が進んだ。1941年(昭和16年)には、歩兵科の流れを汲む戦車兵と統合されて機甲兵となり、兵種としての騎兵は消滅した。騎兵の多くは、西竹一に代表されるように戦車部隊の要員となっていった。
もっとも、機甲兵となってからも、主に中国戦線での運用を目的として少数の乗馬騎兵が存続した。太平洋戦争末期には、本土決戦時の空挺部隊迎撃用に若干の騎兵部隊が新設された。なお、現在のところ世界最後の本格的な騎兵戦闘・騎馬突撃は、1945年(昭和20年)に行われた老河口作戦での騎兵第4旅団ほかの戦闘であるともいわれる。同旅団は日本最後の騎兵旅団である。3月27日に老河口飛行場の乗馬襲撃、占領に成功し、世界戦史における騎兵の活躍の最後を飾った[10]。
- ^ サイモン・アングリム『戦闘技術の歴史1 古代編』創元社129頁
- ^ サイモン・アングリム『戦闘技術の歴史1 古代編』創元社128頁
- ^ a b サイモン・アングリム『戦闘技術の歴史1 古代編』創元社142頁
- ^ サイモン・アングリム『戦闘技術の歴史1 古代編』創元社128-129頁
- ^ このエピソードを記する多数の文献があるが、たとえば以下を参照。Hendrik Willem van Loon, The Rise of the Dutch Kingdom, 1795-1813: A Short Account of the Early Development of the Modern Kingdom of the Netherlands, Garden City, NY: Doubleday, 1915, p. 105; Samuel van Valkenburg ed., America at War: A Geographical Analysis, New York: Prentice-Hall, 1942, p. 103.
- ^ Schafer, Elithabeth D. (2016), “Cavalry, Horse”, in Tucker, Spencer C., World War II: The Definitive Encyclopedia and Document Collection [5 volumes]: The Definitive Encyclopedia and Document Collection, ABC-CLIO, pp. 376
- ^ Rothwell, Steve (2017), “F.F.3, Burma Frontier Force”, The Burma Campaign 2019年6月27日閲覧。
- ^ 王惲『秋澗先生大全文集』巻四十 汎海小録「兵仗有弓刀甲、而無戈矛、騎兵結束。殊精甲往往代黄金為之、絡珠琲者甚衆、刀製長極犀、鋭洞物而過、但弓以木為之、矢雖長、不能遠。人則勇敢視死不畏。」(川越泰博 1975, p. 28)引文断句錯誤,當作「兵仗有弓刀甲而無戈矛。騎兵結束殊精,甲往往以黄金為之,絡珠琲者甚衆。刀製長,極犀鋭,洞物而過。但弓以木為之,矢雖長不能遠。人則勇敢,視死不畏。」
- ^ 『図説・日露戦争兵器・全戦闘集―決定版 (歴史群像シリーズ)』(学研、2007年3月1日)p126
- ^ 欧米では、戦史上最後の騎馬突撃成功例として、第二次世界大戦の独ソ戦におけるイタリア軍騎兵の戦例(1942年)などが挙げられることが多い。
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