帝国主義 帝国主義の時代

帝国主義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/17 08:30 UTC 版)

帝国主義の時代

1895年のフランスのマダガスカル侵攻を喧伝するポスター

情勢

帝国主義という言葉には様々な定義が存在するが、なかでも最も帝国主義が強まったのは1870年代以降のことであり、狭義の帝国主義とはこの時期の動きのことを指す[18]。ただし、15世紀後半から19世紀前半にかけてのヨーロッパ諸国の世界進出と対比して、この時期の帝国主義を新帝国主義と呼ぶこともある。この時期、ヨーロッパ諸国やアメリカ・日本といった列強諸国が世界のかなりの部分を植民地化して分割支配し、独立を保っている地域も勢力圏におさめていった。

この時期の帝国主義の主目的となったのは、主にアジアおよびアフリカ、オセアニア地域だった。アジアはそれまでの時期にもかなり分割が進んでいたが、1870年から1914年までの間にそれまで独立を保っていた地域も次々と列強の支配下に入り、独立国として残存するものはわずかとなった。ただし、この地域には近代帝国以外に、オスマン帝国といった旧来の帝国がいまだ残存していた[19]。ただしこれらの旧帝国の多くは政治的敗北によって列強との間に不平等条約を締結しており、関税自主権の喪失や治外法権領事裁判権などを認めさせられ、また国内各地域の経済利権を列強に握られるなど、半植民地的な状況に陥っていた。

この時期の対立の焦点の一つとなっていたのが中央アジアであり、グレート・ゲームと呼ばれるイギリスとロシアの勢力圏争いのなかで、南下を目指すロシアとインドに権益を持つイギリスは中間のトルキスタンアフガニスタンペルシアチベットを巡って角逐を繰り返した。ロシアはコーカンド・ハン国ブハラ・ハン国ヒヴァ・ハン国の西トルキスタン3ハン国を支配下に置き、イギリスはアフガニスタンのバーラクザイ朝1881年の第二次アフガン戦争保護国とした。この争いは1907年英露協商によって、ペルシア・ガージャール朝の独立尊重と北部をロシア・南部をイギリスの勢力圏とすること、アフガニスタンのイギリス勢力圏の尊重などが決定されて終結した。

世界分割の中で最も遅くまで取り残されたのがアフリカ大陸であり、1870年の時点では海岸部を中心にわずかな植民地が存在するにすぎなかったが、1884年ベルリン会議が開かれて分割ルールが制定された[20]ことで列強は一斉にアフリカ内陸部の植民地化を開始し、16年後の1900年ごろにはいくつかの地域を除くアフリカのほとんどすべてが欧州列強によって分割されてしまった。黒人国家のほかに、南部アフリカにはトランスヴァール共和国オレンジ自由国の二つのオランダ系移民(ボーア人)による白人国家が存在したが、が発見されてゴールドラッシュで潤うトランスヴァールの併合をもくろんだイギリスは1899年に両国に宣戦してボーア戦争(第二次ボーア戦争)を引き起こし、1902年フェリーニヒング条約によって両国はイギリスに併合された。北端のアラウィー朝モロッコは要衝にあるため列強間の牽制によって独立を保っていたが、スペインおよびフランスの優越が強まっていった。これを危惧したドイツは1905年第一次モロッコ事件(タンジール事件)及び1911年第二次モロッコ事件(アガディール事件)によってモロッコ進出を狙ったが、結局1912年フェス条約によってフランスはモロッコを保護国化した。こうして1912年には、アフリカ大陸の独立国はエチオピアリベリアの2か国のみとなっていた。

政治的要因

この時期に帝国主義が強まった理由としては、さまざまな説明がなされてきた。政治面からの説明としては、ナショナリズムの発展によって国民国家化したヨーロッパ列強諸国が、国家の威信を上げ民族としての自尊心を満たすために拡張主義を取ったということが言える。フランスでは特にこういった面が顕著であり、フランス第三共和政の政府は1871年普仏戦争の敗北の傷を癒やし、国家の威信を高めるために積極的な海外進出を行っていった[21]。ドイツやイタリアといった、いわゆる「遅れてきた」列強も、自国の充実した国力の証明としての対外進出と植民地獲得を目指していた[22]。これとは全く逆に、ポルトガルは自国の国力の衰退に直面し、国力の健在ぶりと威信を示すよすがとしての植民地の維持に強く執着した[23]。このような進出は1870年代以前に基礎が成立しており、これ以前に各地に足場を築いていたイギリスとフランスが植民地分割の主役となった。この時期に統一を成し遂げたイタリアやドイツは植民地分割競争においては後塵を拝せざるを得ず、英仏の進出していなかった植民地的価値の少ないエリアへと進出することとなった[24]

こうした列強のナショナリズムは、しばしばそれまでも存在していたヨーロッパ的な「人道主義」、すなわち非ヨーロッパ人へのキリスト教の布教と、ヨーロッパ文明を伝えることで現地の「遅れた」人々を「教化」する動きと、容易に結びついた。こうした動きは古くから連綿と続いていたのだが、帝国主義期に入ると動きの遅さや頓挫から、尖兵となっていた宣教師の一部からは抵抗を続ける現地政府を祖国の世俗政府によって打倒し、より教化を行いやすい環境とすることを歓迎する風潮が現れ始めた。またこの時期にはプロテスタントだけでなく、一時布教の動きをやめていたカトリックがふたたび積極的な布教を開始した。すでにヨーロッパ主要国が廃止していた奴隷制への反対運動も、いまだ活発な奴隷貿易が続くアフリカ大陸奥地をターゲットとして継続しており、奴隷貿易の廃止は現地政府へのヨーロッパ諸国の介入の主な名目のひとつとなっていた[25]。また非ヨーロッパ人へのヨーロッパ文明の「教化」の動きは、現地住民とのさまざまな齟齬(ヨーロッパ文明のうち、現地住民が優越性を認め取り入れようとしたものは物質的な進歩中心にわずかな分野に限られた)と西洋化の遅れによって変質していき、ヨーロッパ人の文明的な「優越性」を現地住民が完全に理解し同化することは不可能であるとする人種差別的な認識に傾いていった[26]

アフリカにおいては、奥地の探検が帝国主義的進出と直結することも珍しくなかった。特に1870年代以降、政府に委託を受けた探検家が現地の首長と条約を締結し、その地を植民地へと組み込むことが広く行われた。1878年にはヘンリー・モートン・スタンリーがベルギー国王のレオポルド2世に委託を受けてコンゴ川流域を探検し、各地で貿易協定を結んで、これは1885年のコンゴ自由国の成立へとつながっていった[27]。同時期、フランスのピエール・ブラザもコンゴ川流域の探検を行っていて、彼の探検した地域はフランス領コンゴへとつながっていった。

経済的要因

経済面からの説明としては、産業革命によって列強諸国の経済体制が大きく変動したことで、各国はその産業の原料供給地と市場を確保する必要に迫られ、対外進出を行い後進地域を競って統治下においたとの説明が一般的であった[28]。そしてそのために各植民地に鉱山やプランテーションを開設し、原料供給地としてモノカルチャー経済下に置いたと説明された[29]。この説明は一面の真理ではあるが、必ずしもすべてを説明しているわけではない。

経済的な帝国主義は、必ずしも政治的な植民地化や対外拡張を伴ったというわけではなく、また各国の植民地が経済的に重要な地位を占めるということもわずかな例外を除けば存在しなかった。例えば植民地化が最高潮に達した1913年の世界貿易において、アフリカの割合は3.5%、インドの割合も同じく3.5%にすぎず、植民地はそれほど大きな割合を持っていない[30]。同年のヨーロッパ諸国及びアメリカ合衆国の貿易総額は世界全体の72.4%を占めており、貿易の主戦場はあくまでも先進国間貿易であって植民地貿易ではなかった[31]。これは投資においても同様であり、各国の資本は自国の植民地ではない地域に投下されることが圧倒的に多かった。フランス資本はフランス植民地ではなくロシアに最も投下されたし、イタリアもバルカン半島中東といった自国の植民地外への投資を主に行っていた。イギリスは自国の白人入植型植民地(カナダオーストラリアニュージーランド)への投資をかなり積極的に行っていた時点でやや異色の存在と言えたが、それでもアルゼンチンをはじめとするラテンアメリカ諸国への投資もそれに匹敵するようなものだった[32]。逆に言えば、政治的な独立を保っていても経済的な従属下に置かれている地域というものも存在し、これはジョン・ギャラハーとロナルド・ロビンソンによって非公式帝国という呼称を与えられ一般化した。また、各国における海外植民推進団体の主な構成員に、実業界からの参加者はほとんど存在しなかった[33]

後進地域に対する列強の経済的進出は、民間よりもむしろ政府によって主導されることが多かった。その一例となるのが、後進国に対する列強からの借款である。オスマン帝国やガージャール朝、清といった旧来の大帝国は財政難を乗り切るために外国からの借款に頼るようになり、その資金の源である列強諸国に対し利権の供与や譲歩を余儀なくされるようになっていった[34]。これら諸国の関税自主権の喪失もまた、列強の経済的進出を促すこととなった。

交通分野での進出

この他に政治が強く関与した経済的進出としては、鉄道の建設が挙げられる。列強は植民地内のみならず、後進地域の鉄道敷設権を争って獲得していき、自国の民間資本によって建設させていった。鉄道建設はしばしば帝国主義的構想と密接に関連しており、たとえばイギリス領ケープ植民地の首相だったセシル・ローズによるケープタウンカイロ間のアフリカ大陸縦断鉄道構想[35]と、両都市とさらにインドのカルカッタとを結ぶ勢力圏を構築する3C政策、そしてそれと対立するドイツによるバグダード鉄道建設構想(後年、ベルリンビザンチウムバグダードを結ぶ進出政策として3B政策と呼ばれるようになった)などは、その一例である。

鉄道のほかに、この時期に建設された世界の二大運河であるスエズ運河パナマ運河もまた、帝国主義と深くつながっていた。スエズ運河はムハンマド・アリー朝統治下のエジプトで、フランスのフェルディナン・ド・レセップスによって1869年に建設されたが、その条件はエジプトに非常に不利なものだった[36]1875年にエジプトが財政危機に陥り、エジプト副王イスマーイール・パシャスエズ運河会社の持ち株を売りに出すとイギリス政府がそれを購入して筆頭株主となり、エジプトに大きな影響力を及ぼすようになった[37]。翌年エジプトが財政破綻するとフランスとともに同国の財政管理を行い[38]、やがて1882年の軍事占領へとつながっていくこととなった。パナマ運河は当初レセップスが建設を行っていたものの失敗して破産し、1903年にアメリカ政府がコロンビア政府と条約を結んでその権利を引き継いだ。しかしコロンビア議会では反対の声が強かったため、アメリカは運河予定地であるパナマ市の分離独立派に資金を拠出し、革命を扇動した。独立したパナマ共和国をアメリカはすぐに承認し、パナマ運河地帯の租借など非常にアメリカ有利な条約を締結させた[39]うえで運河工事に着工、1914年に開通した。

その他の要因

技術的要因としては、医学の発展で疫病での死者が減少し、それまでヨーロッパ人の軍事行動が困難だった熱帯地域において大規模な軍事行動が可能になったことがまず挙げられる。これはヨーロッパ列強のアフリカ分割を可能とする一つの要因となった[40]。また科学革命や産業革命による武器の発展によってヨーロッパ諸国の軍事力が増大し、さらに経済の急成長によって国力にも大きな差がついたことで、後進地域との間で軍事力に大きな懸隔が生じるようになった。これによって侵略のコストは大きく下がり、アフリカ分割の大きな要因の一つとなった[41]電信や鉄道、蒸気船の開発など交通・通信手段が進歩して遠隔地への連絡が容易となったことも要因の一つとなった。

第一次世界大戦後

この帝国主義は第一次世界大戦の終結とともに緩み始めたが、この時期は敗北した中央同盟国側の植民地が委任統治領の名目で戦勝国側に分配されるなど、帝国主義の再編・強化につながる動きもいまだ存在していた[42]第二次世界大戦後、列強が植民地側の独立要求に抗しきれなくなったことで各地で新独立国が大量に誕生し、脱植民地化が急速に進むこととなった。




注釈

  1. ^ 原文:"Imperialism ... An imperial system of government; the rule of an emperor"[5].

出典

  1. ^ 吉家清次. 日本大百科全書(ニッポニカ). コトバンク. 2019年3月5日閲覧。
  2. ^ a b 精選版 日本国語大辞典. コトバンク. 2019年3月5日閲覧。
  3. ^ a b デジタル大辞泉. コトバンク. 2019年3月5日閲覧。
  4. ^ a b c 大辞林 第三版. コトバンク. 2019年3月5日閲覧。
  5. ^ a b Simpson & Weiner 2004, p. 712.
  6. ^ a b 陳 2013, pp. 53-54.
  7. ^ a b https://ejje.weblio.jp/content/imperialism
  8. ^ a b 竹林 2002, p. 1231.
  9. ^ 淡路 1980, p. 104.
  10. ^ 今井 1991, pp. 33-34.
  11. ^ a b c d 植村 1997, p. 13.
  12. ^ 吉家 2019.
  13. ^ a b Britannica 2019.
  14. ^ a b Magnusson, Lars (1991) (Swedish). Teorier om imperialism. Södertälje. p. 19. ISBN 978-91-550-3830-4 
  15. ^ https://ejje.weblio.jp/content/imperialist
  16. ^ 小林康夫・船曳健夫編『知の論理』173 - 183頁 東京大学出版会
  17. ^ 「ナショナリズム 1890-1940」 p66-69 オリヴァー・ジマー 福井憲彦訳 岩波書店 2009年8月27日第1刷
  18. ^ 「帝国と帝国主義」p27 木畑洋一(「帝国と帝国主義 21世紀歴史学の創造4」木畑洋一・南塚信吾・加納格著 所収)有志舎 2012年9月30日第1刷
  19. ^ 「帝国と帝国主義」p29 木畑洋一(「帝国と帝国主義 21世紀歴史学の創造4」木畑洋一・南塚信吾・加納格著 所収)有志舎 2012年9月30日第1刷
  20. ^ 「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)p288
  21. ^ 「帝国主義」(ヨーロッパ史入門)p30-31 アンドリュー・ポーター著 福井憲彦訳 岩波書店 2006年3月28日第1刷
  22. ^ 「帝国主義」(ヨーロッパ史入門)p32 アンドリュー・ポーター著 福井憲彦訳 岩波書店 2006年3月28日第1刷
  23. ^ 「帝国主義」(ヨーロッパ史入門)p32-33 アンドリュー・ポーター著 福井憲彦訳 岩波書店 2006年3月28日第1刷
  24. ^ 「帝国主義」(ヨーロッパ史入門)p114-115 アンドリュー・ポーター著 福井憲彦訳 岩波書店 2006年3月28日第1刷
  25. ^ 「帝国主義」(ヨーロッパ史入門)p36-37 アンドリュー・ポーター著 福井憲彦訳 岩波書店 2006年3月28日第1刷
  26. ^ 「帝国主義」(ヨーロッパ史入門)p39-42 アンドリュー・ポーター著 福井憲彦訳 岩波書店 2006年3月28日第1刷
  27. ^ 『物語 ベルギーの歴史 ヨーロッパの十字路』p77 松尾秀哉 中央公論新社 2014年8月25日発行
  28. ^ 「南北・南南問題」p11 室井義雄 山川出版社 1997年7月25日1版1刷発行
  29. ^ 「南北・南南問題」p13 室井義雄 山川出版社 1997年7月25日1版1刷発行
  30. ^ 「商業史」p247 石坂昭雄、壽永欣三郎、諸田實、山下幸夫著 有斐閣 1980年11月20日初版第1刷
  31. ^ 「商業史」p245 石坂昭雄、壽永欣三郎、諸田實、山下幸夫著 有斐閣 1980年11月20日初版第1刷
  32. ^ 「帝国主義」(ヨーロッパ史入門)p66 アンドリュー・ポーター著 福井憲彦訳 岩波書店 2006年3月28日第1刷
  33. ^ 「帝国主義」(ヨーロッパ史入門)p67 アンドリュー・ポーター著 福井憲彦訳 岩波書店 2006年3月28日第1刷
  34. ^ 「帝国主義」(ヨーロッパ史入門)p73-74 アンドリュー・ポーター著 福井憲彦訳 岩波書店 2006年3月28日第1刷
  35. ^ 『鉄路17万マイルの興亡 鉄道からみた帝国主義』p62 クラレンス・B.デイヴィス, ケネス・E.ウィルバーン・Jr. 編著 原田勝正・多田博一監訳 日本経済評論社 1996年9月25日第1刷
  36. ^ 「新版 エジプト近現代史 ムハンマド・アリー朝成立からムバーラク政権崩壊まで」p122 山口直彦 明石書店 2011年10月25日新版第1刷発行
  37. ^ 「新版 エジプト近現代史 ムハンマド・アリー朝成立からムバーラク政権崩壊まで」p150 山口直彦 明石書店 2011年10月25日新版第1刷発行
  38. ^ 「新版 エジプト近現代史 ムハンマド・アリー朝成立からムバーラク政権崩壊まで」p151 山口直彦 明石書店 2011年10月25日新版第1刷発行
  39. ^ 「パナマを知るための55章」p98-100 国本伊代・小林志郎・小澤卓也著 明石書店 2004年8月31日初版第1刷発行
  40. ^ 「新書アフリカ史」第8刷(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)p291
  41. ^ 「アフリカ経済論」p51 北川勝彦・高橋基樹編著 ミネルヴァ書房 2004年11月25日初版第1刷
  42. ^ 「帝国と帝国主義」p41 木畑洋一(「帝国と帝国主義 21世紀歴史学の創造4」木畑洋一・南塚信吾・加納格著 所収)有志舎 2012年9月30日第1刷
  43. ^ 「新版 マス・コミュニケーション概論」p207 清水英夫・林伸郎・武市英雄・山田健太著 学陽書房 2009年5月15日新版初版発行
  44. ^ 「世界地理大百科事典1 国際連合」p318 2000年2月1日初版第1刷 朝倉書店
  45. ^ 「世界地理大百科事典1 国際連合」p310 2000年2月1日初版第1刷 朝倉書店
  46. ^ 「新版 マス・コミュニケーション概論」p208 清水英夫・林伸郎・武市英雄・山田健太著 学陽書房 2009年5月15日新版初版発行





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