ワニ説とは? わかりやすく解説

ワニ説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 13:55 UTC 版)

和邇」の記事における「ワニ説」の解説

平安時代辞書和名類聚抄和名抄)』には、麻果切韻和邇は、のことで、 鼈(スッポン)に似て四足有りクチバシ長さ三尺甚だ歯が鋭く大鹿川を渡るとき之を中断する記してある とある。和邇とは別のの項には、「和名 佐米」と読み方記され、「さめ」と読む「」という字が使われ始めた平安時代において、爬虫類ワニのことも知られていたことを示す。和漢三才図会の項では、和名抄には蜥蜴に似ると記されているとある。狩谷棭斎は『箋注和名類聚抄・巻第八』において、和名抄には異本がある事を示し、麻果の切韻原典は、呉都賦の劉達が『異物志』を引用した注と考えられ鰐魚クロコダイル)は鼉(ダ、(アリゲーター)に似て四足有り とある事から、鼈はダの誤りであろうとしている。ただし、狩谷棭斎自身日本ワニがいないとしてサメ説である。 クチバシ長さ三尺(90.909センチメートル)という記述日本漂着したイリエワニ成体吻部長さ一致する新井白石は『東雅』のの項において、古事記和邇という者を述べたようすがわかる、また、鰐魚ではなく和邇としたことには意味があるのだろうが、今はその意味不明であるとしている。の項では、和邇について触れていない。 本居宣長は『古事記伝』で『稲葉白兎』について記した際、和名抄引用しワニとした。宣長がワニ説であったことは、ワニ説・サメ説両方論者認めており、後で触れる。 『倭文麻環』では漂着したワニは鼉龍という名前で描かれている。鼉にも同じく「わに」という訓読みがあることから日本人認識において漢籍絵画の中のワニ漂着した実物ワニ一致していたと考えられる葛飾北斎因幡の白兎和邇ワニの姿で描いている。 20世紀入り、ワニ説はヨーロッパで神話対す研究手法取り入れ現代考証耐える研究として発展した高木敏雄1904年比較神話学』の抜粋を示す。 所謂稲羽の兎の説話は兎の欺きしを語る。元来南洋地方或は熱帯地方動物にして、日本近海魚族非ず獅子生存せざる欧羅巴動物説話に、此動物現わるるは、その起原印度なるを示すものとせば、同様の理由によりて日本説話に見ゆるは其南方起原証明する者には非ざるや。(1文略日本古代説話に就いて語ること甚だ多し。之れ恐らく、偶然には非ざる可し。 論理的な考証積み重ね発展したワニ説に対しサメ説での新たな根拠提示はなく、ワニ説を主張しているかのような記述さえなされている。喜田貞吉は、1912年読史百話』において、サメ説根拠として、出雲地方サメワニという事をあげているが、後述する折口信夫講演から逆算すると、文字通り十年一日、同じ事を十年繰り返していた事になる。当然、ワニザメというサメがいるとは記しても、イタチザメネコザメといったサメがいて、なぜ、イタチネコサメ意味しないかといった点については、何の説明もしていない。さらにサメ説主張したはずが、『出雲風土記』にある海岸逍遥していた娘が和邇に喰われた話を引用、「こは、実録にして神話にあらず」と記している。丸山平が古事記比べ極めて後の時代で、古事記とは性質異なるとした批判によるなら、古事記とは無関係の件を持ち出しただけだが、津田左右吉和邇上陸できるとした批判によるなら、喜田自身和邇上陸できると明言した事になる。松本信廣によってこの話は国外からもたらされワニの話であるとされたことは後述する。さらに、喜田は、和邇になったのは、「帰化史官」が「其の形の彼我ヤヤ類し皮膚堅硬時として人畜をも捕り喰うの点相似」ていたので、うっかり間違えたためだと記した和邇ワニ特徴皮膚の特徴に至るまで似ている点を示しサメについてはこの点何も記さず、そのままワニ説の根拠になる記述をしている。 1910年代1920年代発展するワニ説に対しサメ説からは離反続いた。後に、後述する西岡によって「当時学会論客白鳥喜田博士の強い論調押され古事記の」註で和邇としたと批判された4人のうち、少なくとも3人は、サメ説主張をやめてしまった。 物集高量1912年新撰日本歴史辞典』には、古事記登場する多数事物載っているが、因幡の白兎和邇については項目そのものがない。 次田潤1924年古事記新講』において、ワニ説・サメ説両論併記ともどっちつかず中立とも言える記述をしており、少なくともサメ説推す立場ではなくなった。 南方熊楠南方随筆和漢三才図会ワニを「類と見ゆと書いたのは挿絵を見ながら解説文を読んだために混同した考えられる松岡静雄1929年日本古語大辞典』において、『因幡の白兎』では狩谷棭斎引用しワニ日本にいないから和邇サメろうとしているが、豊玉姫の話ではワニなければならないし、また和邇乗った話では舟としている。後述するように中山平にサメ説批判されているが、それほど強く主張している訳ではないサメ説根拠として、サメの背をウサギが渡ることは、よく思いつきそうなこと、としているが、その例は示していない。『記紀論究』でも同様の主張であるが、豊玉姫の話の話が後にあるため、書き進むにつれ、サメ説の弱い主張からワニ説の強い主張変化したになっているサメエイ煮のワニ料理がない日向舞台とされる話では、ワニとしている分、単純なサメ説よりは、根拠との整合性もある。悪の意味とし中山似たことを記し、後に、舟としての和邇起源南方にある事を強く主張するに至る。この場合ワニ海の神とする中山の説と共通することも記している。 堀岡文吉1927年日本及汎太平洋民族研究』の一部抜粋要約を示す。 和邇サメでないことは『出雲風土記』の産物ワニサメ別々に書いてあることを見てもわかる。1924年大正13年3月5日大阪朝日紙上に『大鰐地曳網に』と題し富山県沖で長さ3間目方70貫の大鰐が網にかかった報じられているが、日本がいたから『兎と』の話ができたのではなく、『兎と』の話が漂着したとすべきであろう。 後に丸山平にサメ説批判されることになる西村真次だが、実際に1927年民俗断篇』で「日本ワニ神話は、本来は鰐魚に関するものであり、鰐魚から転じていったとに疑いがない。」と記している。論旨丸山記した通りで、サメ説論旨にワニ説の結論をつけた形で、批判について蘆谷重常の方が事実即している。また、アイヌ語では、サメはSame、フカはTowa-yuk、チョウザメはYubeとしている。サメフカ違いと、サメどころか軟骨魚類さえないチョウザメ挙げた理由記していない。同様に徳川義親も、実際はワニ説を支持しワニサメ変化したもので、輸入元はインドネシアろうとしている。 大正期以降サメ説少なくとも論理的な主張ごくわずかになり、釈瓢斎1929年苦悶の筍』で、本居宣長和邇ワニとしたことは偽証罪新井白石は『東推』でワニ説に疑問呈している、(日本書紀で龍とあるのは)から龍へ脱線、といった事実無根または事実反す独断行いサメ説根拠としては、和邇なら訛の抜けない当時の)首相アイヌ人といった偏見民族蔑視に基づく誹謗中傷丸山平に批判され出雲風土記の件とワニザメの件を記した程度である。 島津久基1933年国民伝説類聚』において、『因幡の白兎』には、インド説話猿の生肝取り』の影響見られるが、西ボルネオセレベス説話がより近い元の話であろうとし、『猿の生肝取り』の紹介をしている。後に、1944年日本国民童話十二講』では、サメよりワニの方が聞き手にとって、想像しやすいと加えている。一方で児童に話す場合にはワニでは混乱するので、サメ良く、少し知識進んだら、南方起源があることを示してワニ説明すると良い、としている。 丸山平が1936年国語教材説話文学の新研究』において『和邇伝説』と題しサメ説根拠一つずつ検証して否定し、ワニ説の根拠記した要約因幡の白兎中心として示す。原文敬語敬称用いた部分等は現代言葉等に変更してある。 和邇という動物日本にいない事から、諸説現れ文部省の『国語読本』などでは、すべて「わにざめ」とし因幡の白兎では挿絵などを描いているが、森鷗外松村武雄共著日本神話』では挿絵示している。どちらが真か、どちらでもなどという曖昧な態度許されないだろう。古事記には因幡の白兎ヒコホホデミ二つ和邇伝説がある。日本書紀本文で龍となっている所があるのは、中国の影響で、「一書」では総て和邇である。風土記には多く和邇伝説がある。この伝説が古代にのみ存在する事は注意要する点である。 本居宣長は『古事記伝』で、和邇について『和名抄』引用しているが、とにかくcrocodileであってまたは他の動物とは見ていない。北国の海には今でも多いと、宣長語った人は指しているのであろうが、宣長の方では『切韻』にあるよう爬虫類信じているのである。西の外国にも多くいる所があるなどは、すでに室町末期から西洋人とも接触していたのであるから、こうした知識も自然わが国人々持っていたのであろう津田左右吉海蛇であろう推論しているが、西村真次指摘しているように、合理主義形式論理推論であって極めて非科学的態度である。 西村説で、ワニヤンの訛化としているが、これは漢字知識不備物語るもので、「」は、中国干物干魚のことで、音はシュウであろう西村は、一転オロッコ族海豹を指すバーニワニ語源が同じと思うとも述べているが、どうして海豹になった納得できない西村は三転、白鳥庫吉のサヒモチ説にとびついているが、古事記でサヒモチとするのは和邇小刀を結びつけたことによる。サヒモチは鋭い歯を持つの意味で、crocodileのことを言ったとも言え説の根拠にはならない。どこかにサメモチの神でもいれば別だが、刃がになるのは飛躍が過ぎる。で、要する説は少しも我々を満足させていない西村は『因幡の白兎』の物語インドネシアから伝播されたと信じているにもかかわらずサメ考える。サメ説根拠は、日本ワニがいないこと、日本周辺外国語ワニ似た語がないこと、それにもまして出雲方言サメワニと呼ぶ程度だろう。 化石日本未発見だが、『肥前風土記』の記述化石伝説思われ、でなければ、わが古代人というものについておぼろげな記憶言い伝え持っていたと思われるワニ固有の日本語である。「わにぐち」は決しの口を意味するではなくの口を意味している。したがってワニ同義語のサヒモチの神も指したのであること言を俟たない出雲地方の「ワニザメ」は「のように強いの意味から来たもので、後に単にワニとも呼んでいる。したがって、本来の和邇の意味がわからなくなった天武天皇時代と、かなり後の話である『出雲風土記』の和邇サメだろう。 たとえ、日本古代に全然爬虫類棲息していなかったと仮定しても、日本固有語としてワニという語があり、概念があっても一向に差し支えない過去にも現在にも日本に龍は棲息ていないが、邦語としてタツの語がありタツ概念がある。 『因幡の白兎』は明らかに南方から伝播した説話大国主命の話に入ったもので、インドネシアには鼠鹿との話があり『因幡の白兎』の伝説と全く同一である。徳川義親説だが、『稲羽の素兎』で東インド諸島和邇伝説二三紹介し古事記出来た和銅5年以前南洋交通があり、東インド諸島伝説入っていると思われる述べその他の伝説紹介しているが、物語叙述も大体同じである。その中に鼠鹿がになっているものがあるが、騙した動物が何であっても騙された動物が常にである点に注意が必要である。 「沖の島」が固有名詞でないことはいうまでもない。 (日本書紀では中国思想影響で龍になっているが)龍はサメよりよほどワニに近い。 トヨタマ姫のお産和邇も、陸上匍匐委蛇う(腹ばい蛇のようにのたうつ動物であるはずはない。説の松岡静雄匍匐委蛇場合ワニだろうとするのは、サメ説行き詰まりを示す。 和邇南方トーテムとしての反映で、姓の和邇の元であろうワニワニであり、断じてサメワニザメなどではない。 なお、丸山は、金毘羅ワニ意味するクンピ―ラから来ているが、和邇とは無関係としている。金毘羅祭神大物主ともされる蘆谷重常1936年国定教科書現れたる国民説話研究』の要約を記す。 さすがに本居宣長和邇解釈していると記している。西村真次が海のと湖の戦った話を記した上でワニサメ混同されたとする(この時点での)西村の説には具体的な根拠語られていない津田左右吉ウミヘビ説4つ根拠ワニにも当てはまる。丸山平のトーテムにまで進めたワニ説は、卓見である。 中田千畝は1941年黒潮につながる日本南洋』において、久米邦武日本人日本へ移住してきてから南方故郷親しくしていた爬虫類記憶していたか、説話的に語り継いで来たとの説を紹介し南洋の話では、騙す動物の数を数えるという点まで一致している事が重要であると記している。 松本信廣1942年和邇其他爬蟲類名義考』において、日本民族が「気宇壮大海国であった」のに、その後事象国内事例によって説明せんとする迂愚陥った」「島国根性所産である」としてワニ説を論証している。サメ説根拠とする出雲サメワニと呼ぶことについては、サメワニ混同を示すだけで、意味がないとしている。松本は、南方ワニ意味する語として、マレー語のbuaya (buwaya)、ジャワwu (h) aya、他 woea woae waia等50上の地域における実例をあげ、音韻上の考察呼称地理的な分布から、bと母音で始まる語よりvまたはwと母音で始まる語の方が古いと推定できる事、古代日本における「邇」の発音推定をもって語形変遷の推定まで行い日本語ワニ語源が、南方ワニ意味する語にあることを論証した。さらに、各地棲息する動物ワニ単数多数かの比較行いワニがいない地域ワニサメ変化した例はあっても、その逆はないことも示したワニだった話が日本入った後、本来のワニがわからなくなりサメ置き換えられたものとしている。さらに、兎と説話インドネシア説話類似するだけでなく、出雲風土記の話、豊玉姫伝説など多く物語類話南方にある事も記し出雲風土記類話南方存在する事は、すでに天明期の『紅毛雑話』に示されているとの実例挙げている。背中鋭角をなしたサメより、平たいワニ解した方が合理的であるとし、後に西岡秀雄が、この点を高く評価している。ワニとしての記憶があったため、サメ説学者否定にもかかわらずワニとする考え方残ったことが、民間信仰根強さ示しているとしている。 折口信夫1942年文部省教学局日本諸学講演集第4輯』収録古代日本文学における南方要素』において述べた事の一部抜粋を示す。 何にせよ古代人は「わに」という語及びそれ表す「わに」という動物知っていたに違いない。ところで、「わに」という語を使っていた古代人考えていた「わに」なる物は、現に我々の考えている「わに」と同じだったとしたら、我々の祖先南方から来たに違いない。(略)ところが、やがて四十年も前になりましょうか。故喜田貞吉博士が、隠岐島行かれました。「わにを食べてきた」、こう言うことを申されました。それはのことでした。だから、神代の巻に出て来る「わに」は、実はなんだ、と言うようなことを申し出されて、皆な一時それに賛成しました。(略)しかし考えて見ると、一体何故、「わに」と言う語が、南方鰐魚意味してはいけないか、と言うことです。(略)動物園にあるからこそ見ることができるのだ。その位の考えでしょう昔の人は見ることは出来まい。(略)しかしそれは非常に短気な話で、日本民族持った非常に広い経験というものを軽蔑しているのです。日本民族は昔から知り難い多く知っていました。我々は獅子だとか、本とうの虎だとか、象、或は又、なかつがみこういう風に色々な動物知っておりますけれども、その知っていた理由は私には唯一説明できるだけです。(略)恐らくある点まで知っている人もあったのだろうと思います。とにかく自分達は今見ることも出来ないけれども、聞いてもおり或は古い経験を語るものによって知っていたというような恐ろしいものを、あちらこちらで、待ち迎えて祭りのときに訪れて貰う。(略)さすれば、我々の祖先が、「わに」を知っていたのも、不思議はない。唯まれ人神として来る場合ではなく因幡の白兎向う岸へ渡る為に騙したとか、海祇の宮から神を送り還し申しあげた、「さひもちの神」なるわにの物語とか、出雲風土記見えた語臣麻呂の、を仇として討ったとか、この前後の二つ物語には、大群が来たことが語られているのです。(略)そういう風に、我々の祖先一部長く馴染重ねて来ておったので、日本の国に来ても、忘却委する訣にはいかなかったのでしょう。(略)何故ならば物語、「因幡の白兎」の類型とか、或は小さな狡猾な動物の口にのって殺され行こうとしたのが、今度あちらこちらに、騙して逃げ乍ら悪口するという類型。これは南の方では、一つの話になっていることが多いようですそう言う物語はどうも日本の国以前に、我々の祖先持って居って此処に来て更に育てたものではなかろうかと言う気が、誰にもする筈だと思います。(文頭略)我々の持った文化蔑みしたりすることを、一つ態度とするような情けない者もあります。(以下略まれびとは、折口学説中核を成す概念である。 戦後、ワニ説は、日本人文化日本人自身起源一つ東南アジアにあるとする説と相補的な関係となりさらに発展した西岡秀雄1947年『兎と説話伝播』の一部抜粋要約を示す。 喜田貞吉が、頭から古の学者邦語ワニ誤っての字を当てたとするのは、何の証拠もない独断に過ぎるのではないか津田左右吉出雲風土記ワニサメ別々に記してある点からワニサメでないとし、ウミヘビとしているが、その後追随する者はいないようである。 西岡は、現地調査行った上で安南カンボジアマレーほかの『兎と説話詳細に紹介し、本来、ワニであるとし、次のように記した。「所変われば品変わる」で兎の方は、鼠鹿、金狼ジャッカル)と変わったもののには変更がなく、わずかにミンダナオになり、日本では近年ワニザメ説が横行し危うく古事記和邇までにされそうになったわけであるが、カムチャッカでは、遂に転向されてしまったわけである。 西岡は、兎と説話古事記組み込まれる過程についても論証し、広い視野立って観察すれば古事記和邇は、決しサメでもウミヘビでも舟でも南方民族でもなく、そのもの素直に考えるべきである、とした。 さらに、前掲折口信夫講演引用、「国内起源サメ説論者には耳の痛い」、「白鳥喜田博士中心としたワニザメ説を顔色かしめるもの」とし、次のように結論づけている。 松本信廣折口信夫教授中心とした南洋ワニ説が卓見であり、古事記和邇ワニザメフカ指したものではないことを再確認する者である。 森鴎外にも師事し折口信夫先輩松岡静雄実兄である柳田國男は、『海上の道』において、一尋等について、当然のごとく、という字を用い、もはや、については可能性さえ一顧だにていない。さらに、沖縄に伝わる登場するに関して諸島にはというはいない。したがって是を単なる昔話役者として受け入れる以外に、みずからこのような改作をする力も無く、またその資材持っていなかったろうと思う。」と述べ、『因幡の素兎』と同様、いないからと言って別の動物には当たらない例を挙げている。 黒沢幸三の1972年奈良大学紀要第1号一部要約を示す。 古事記・日本書紀両方にあるトヨタマヒメの話にある和邇サメでは説明できない乗るにおいては、舟かも知れないが、『因幡の白兎』を含めた他の話においては動物である。記紀等にある動物和邇ワニで、松本考察により、和邇ワニということが、ほぼ論証されたと考える。 サビモチはサメ根拠はならずワニ対す信仰から考えると動物ワニである。 ワニ対す信仰から、ワニ氏の氏名動物ワニ由来する想定される日本に残るワニに関する地名は、ワニ対す信仰か、ワニ氏に由来するものである。 前述次田潤長男である次田真幸は、兎とワニ物語日本においてはサメだが、インドネシア方面からもたらされたことは明らかとし、東南アジアイモ栽培起源等、『古事記』への他の南方神話混入示している。他の話については日本神話#研究参照後述する石破によれば中西進1985年天つ神世界』の中で、東南アジア説話との違いとその理由について考察している。 石破洋は1993年因幡の白兎説話考 A Study of Japanese Traditional Story of "Inaba no Shiro-usagi"』において、『因幡の白兎説話成立過程対す考察の中で、ウサギワニ民族とする説を「けだし、珍説」とし、視覚的な考証として「因みに和邇をばワニザメ認定したものの、サメの背では滑り易いと気になってか、サメ交互に向き変えて横に並ばせた」「児童書があって思わず苦笑させられる」と記しサメ説サメ実際サメ特徴合わないことを批判している。 小説家司馬遼太郎『古事記』山幸彦と海幸彦の章の豊玉姫出産場面で豊玉姫が「八尋和邇(やひろわに)に化りて、匍匐(はらば)ひ委蛇(もこよ)ひき」とあり、「八尋」が「匍匐」すなわち、はらばうのだから「和邇」はワニだとしている。この表現サメ説西宮一民出産様子常套表現であるとするが、野田昌夫は出産経験者への取材結果出産様子常套表現という説には疑問呈している。 赤城毅彦は2007年『古事記』『日本書紀』解明 作成の動機作成の方法』において、中国南部ヨウスコウアリゲーターというワニだとする説を記し古墳時代倭の五王などは中国南朝使い出した、これが『古事記』の「和邇」だとするには、稲作文化またはその担い手人々日本に来た時に中国南部ワニの話を持ってきて、書き手がそのワニ想起しながら古事記書いた考えられる、とした。 海外では、Chamberlian,Basil Hall (1919) が"The White Hare of Inaba"で和邇crocodileとしている。 地主神社公式ホームページ和邇鰐河神社豊玉姫乗せた鰐魚ワニの姿で描かれている。 未確認動物研究家實吉達郎イリエワニ日本漂着する可能性指摘しており、イリエワニは卵を温めるために葦で巣を作るため、産屋作るエピソードとの類似性からワニ説の根拠とする。現代でも実際に西表島奄美大島八丈島漂着例がある。 日本語の「わに」は古代中国語爬虫類ワニを指す鰐魚(ngakngia)からの転訛という説がある。ガ行からワ行ナ行への転訛は他の漢字でも確認できる現代中国語の「ウァユイ(鰐魚)」と「わに()」が似ているのも同源だからと考えられる。『海幸彦と山幸彦』の中で和邇は「鰐魚」と二文字記述されている。馬やももともと日本存在しなかったので純粋な訓読み存在しない。(「うま」・「うめ」という訓読み音読みの「マ」・「メイ」に由来する。)

※この「ワニ説」の解説は、「和邇」の解説の一部です。
「ワニ説」を含む「和邇」の記事については、「和邇」の概要を参照ください。

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