変遷の推定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/07/31 08:38 UTC 版)
軍団制の成立時期は学説が分かれるが、大宝律令が施行された大宝元年(701年)の段階では、志賀団は定員1000人の標準的な軍団であったろう。近江国に置かれたことが知られる軍団は志賀団だけだが、国の規模からは複数あったと考えるのが自然である。国府が所在する隣の栗太郡にもあったと想定する説がある。 全国的な軍団史を参照すると、養老3年(719年)に減員された可能性があり、天平11年(739年)に廃止され、天平18年(746年)に元に復した。上述の史料は復帰後にあたる。大毅、少毅が備わるのは、600人以上1000人までの軍団なので、当時の志賀団の規模もこれでおよそわかる。全国的に減員される宝亀11年(780年)まではこの規模であったと考えられる。 その後の人数は不明で、延暦11年(792年)に廃止された。
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