変遷・その他
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春成秀爾は、縄文時代に一夫多妻や多夫一妻だったものが弥生時代になり一夫多妻にしぼられたとする(佐原眞 『体系日本の歴史1 日本人の誕生』 小学館 1987年 p.217)。例として、縄文期の千鳥窪遺跡では一夫多妻、加曽利遺跡では一夫多妻と多夫一妻、三ツ沢遺跡や女老山遺跡では多夫多妻が人骨から確認されている(同書 p.216 図)。 日本における一夫多妻制の社会を物語る文献記述として、『魏志倭人伝』には、「大人皆四五婦下戸或二三婦」とある。このことから、日本では3世紀頃から一夫多妻制の社会が確認できる。ただし、大林太良はこの記述を「本格的な家父長型(の一夫多妻)ではなく、妻の労働力を求めて複数の妻をめとる型」にあたるものとし(『邪馬台国』、後述書)、原島礼二もこの考えを支持し、大人と下戸という身分において、妻の数に大差がないことを言及している(原島礼二 『〈日本史=16〉古代の王者と国造』 教育者 新装第1刷1985年(旧1刷79年) p.49)。森浩一は、倭人伝において、「妻が嫉妬をしなかった」という記述に関して、第一婦人を別格として、第二婦人以降は第一婦人に統轄されていた可能性を示唆しており(後述書 p.114)、分業体制(例として、第二婦人は洗濯、第三婦人は飯炊きなど)によって、嫉妬が表面化せずに運営できたとする(後述書 p114)。東南アジアの一部では最近までそうした形が見られたことを挙げ、むしろ第一婦人が旦那に対し、「そろそろ第二婦人を持ったらどうか」と勧めるのが普通であり、多く妻がいる方が第一婦人にとっては、プレステージが上がるとする(上田正昭 大林太良 森浩一 『対談古代文化の謎をめぐって』 社会思想社 1977年 p.114)。 奈良時代の戸籍からも、一夫多妻が珍しくなかった事が確認される(佐原眞 『体系日本の歴史1 日本人の誕生』 p.216)。ただし、当時の戸籍には、「嫡子・庶子・妻・妾(しょう)」と記されるが、一説(関口裕子・父系擬制説)には、家の跡取りとしての嫡子制が庶民の家族に存在していたことや、妻・妾同居の家父長制家族が成立していた訳ではなく、対偶婚段階(婚姻史上、一夫一婦の前段階で、流動的・非排他的な一対の男女の結合)の複数の妻達の1人が戸籍上の妻であり、その子が嫡子とされ、以外は機械的に妾・庶子と記載されているに過ぎないとする(後述書 p.53)。また戸籍には、やもめ(パートナーのいない)の幼児連れの男性や独身女性が異常に多く、一里単位で見ると、両者はほぼ人数的に対応し、実家に出戻ったやもめの幼児連れ女性も多く見られ、実態は通い婚の婚姻関係にある男女だが、戸籍上では独身のように見える夫婦別籍となっていて、子供はそのどちらかに記載されている(義江明子 『古代女性史への招待 <妹の力>を超えて』 吉川弘文館 2004年 p.54)。 平安後期の一夫多妻制に関しては、『新猿楽記』などの研究から、一説(脇田晴子 「母性尊重思想と罪業観」『母性を問う』上、人文書院、後『日本中世女性史の研究』所収、東京大学出版会)に役割が分担されており、「母性」・「家政能力」・「性愛」に類型化されるとする(服藤早苗 『平安朝の女と男』 中公新書 6版2001年 p.195)。「元妻」(もとのめ、離婚した妻ではなく、「正妻」の意)は、夫より年齢は上であり、母性機能(子を残す)に加え、その両親の権勢と経済力を有し(同書 pp.196 - 197)、「次の妻」は、夫と年齢は同じくらいだが、諸々の家政・家治を担い、武具管理も行っていた(同書 pp.197 - 198)。そして「第三の妻」は夫より若く、性関係が求められた(同書 p.197)。 江戸時代では、10人近く側室を置く大名は、15万石以上、国持格以上の大名の場合が多く(後述書)、小大名は通常2、3人であるが、例外として、鳥居忠意(壬生藩主)は3万石でありながら、側室が10人近くあり、その内、子を産んだのは5、6人で、子を20人残した(後述書 p.179)。多くの側室をもったきっかけとしては、鳥居が参勤交代によって帰国する際、正室を置いて行かなければならなかったが、正室の方が余りの寂しさに焦がれ死んでしまい、以降、鳥居は正室(継室)をもたなくなったが、代を残すために側室は増やしたためとされ(その後、側室同士が嫉妬から刺殺事件を起こしたため、側室すら廃止する)、磯田道史は、「イケメン大名の悲劇」として著作で紹介している(磯田道史 『日本史の探偵手帳』 文春文庫 2019年 pp.177 - 179)。 近代期に一夫多妻が法律で禁じられた後も妾の風習は残り、社会的地位の高い例としては、「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一が挙げられる(後述書 p.238)。渋沢は近代商業道徳を、儒教を用いて世間に説いたが、女性関係だけはだらしなかったため(後述書 p.238)に渋沢家の女性からも度々攻撃され(後述)、当人も自覚があり、「婦人関係以外は、一生を顧みて俯仰天地に恥じない」と語っていた(後述書 p.238)。43歳の時、最初の妻である千代を亡くすと、後妻兼子との間に4男5女をもうけ、この時期に妾も多数いたため、子供の数は30人を超えるとみられ(後述書 p.238)、最後に子供をもうけたのは80歳過ぎとなる(後述書 p.239)。そのため、孫娘の華子は、「私も若い頃は祖父を何というヒヒジジイと軽蔑していた」(後述書 p.238)と証言し、妻兼子も、「父さまは儒教という上手いものをお選びだよ。耶蘇教なら大変だよ」と皮肉交じりの発言を残している(守屋淳訳 『現代語訳 論語と算盤』 ちくま新書 第23刷2018年(1刷2010年) pp.238 - 239)。守屋淳は、栄一の孫である敬三の思い出話と照らした上で、渋沢栄一の偉業を支えていたのは(これらの)人並外れたバイタリティによると評している(前同 p.239)。前述の兼子の皮肉からも分かるように、儒教的価値観に基づいているが、19世紀末の『古事類苑』には、「40過ぎたら後妻は持つべからず(前妻の子に悪い)」とあるように、当時としても、必ずしも一般的とはいえない。
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