変遷・その他とは? わかりやすく解説

変遷・その他

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 23:26 UTC 版)

一夫多妻制」の記事における「変遷・その他」の解説

春成秀爾は、縄文時代一夫多妻多夫一妻だったものが弥生時代になり一夫多妻しぼられたとする佐原眞体系日本の歴史1 日本人誕生小学館 1987年 p.217)。例として、縄文期の千鳥遺跡では一夫多妻、加曽利遺跡では一夫多妻多夫一妻、三ツ沢遺跡や女老山遺跡では多夫多妻人骨から確認されている(同書 p.216 図)。 日本における一夫多妻制社会物語文献記述として、『魏志倭人伝』には、「大人四五下戸二三婦」とある。このことから、日本では3世紀頃から一夫多妻制社会確認できる。ただし、大林太良はこの記述を「本格的な家父長型(の一夫多妻ではなく、妻の労働力求めて複数の妻をめとる型」にあたるものとし(『邪馬台国』、後述書)、原島礼二もこの考え支持し大人下戸という身分において、妻の数に大差がないことを言及している(原島礼二 『〈日本史16古代王者国造教育者 新装第1刷1985年旧179年) p.49)。森浩一は、倭人伝において、「妻が嫉妬をしなかった」という記述に関して第一婦人別格として、第二婦人以降第一婦人統轄されていた可能性示唆しており(後述書 p.114)、分業体制(例として、第二婦人洗濯第三婦人飯炊きなど)によって、嫉妬表面化せずに運営できたとする後述書 p114)。東南アジア一部では最近までそうした形が見られたことを挙げ、むしろ第一婦人旦那対し、「そろそろ第二婦人持ったらどうか」と勧めるのが普通であり、多く妻がいる方が第一婦人にとっては、プレステージ上がるとする(上田正昭 大林太良 森浩一対談古代文化の謎をめぐって社会思想社 1977年 p.114)。 奈良時代戸籍からも、一夫多妻珍しくなかった事が確認される佐原眞体系日本の歴史1 日本人誕生』 p.216)。ただし、当時戸籍には、「嫡子庶子妻・妾(しょう)」と記されるが、一説関口裕子父系擬制説)には、家の跡取りとしての嫡子制が庶民家族存在していたことや、妻・妾同居家父長制家族成立していた訳ではなく対偶段階婚姻史上一夫一婦前段階で、流動的・非排他的な一対男女結合)の複数妻達1人戸籍上の妻であり、その子嫡子とされ、以外は機械的に妾・庶子記載されているに過ぎないとする(後述書 p.53)。また戸籍には、やもめ(パートナーのいない)の幼児連れ男性独身女性異常に多く一里単位で見ると、両者はほぼ人数的に対応し実家出戻ったやもめの幼児連れ女性多く見られ実態通い婚婚姻関係ある男女だが、戸籍上で独身のように見え夫婦別籍となっていて、子供はそのどちらか記載されている(義江明子古代女性史への招待 <妹の力>を超えて吉川弘文館 2004年 p.54)。 平安後期一夫多妻制に関しては、『新猿楽記』などの研究から、一説脇田晴子母性尊重思想罪業観」『母性を問う』上、人文書院、後『日本中世女性史の研究所収東京大学出版会)に役割分担されており、「母性」・「家政能力」・「性愛」に類型化されるとする(服藤早苗平安朝女と男中公新書 6版2001年 p.195)。「元妻」(もとのめ、離婚したではなく、「正妻」の意)は、夫より年齢上であり、母性機能(子を残す)に加え、その両親権勢経済力有し同書 pp.196 - 197)、「次の妻」は、夫と年齢同じくらいだが、諸々家政家治担い武具管理行っていた(同書 pp.197 - 198)。そして「第三の妻」は夫より若く、性関係が求められた(同書 p.197)。 江戸時代では、10人近く側室を置く大名は、15万石以上、国持格以上の大名場合多く後述書)、小大名通常2、3人であるが、例外として、鳥居忠意壬生藩主)は3万石ありながら側室10人近くあり、その内、子を産んだのは5、6人で、子を20残した後述書 p.179)。多く側室をもったきっかけとしては、鳥居参勤交代によって帰国する際、正室置いて行かなければならなかったが、正室の方が余り寂しさ焦がれ死んでしまい、以降鳥居正室継室)をもたなくなったが、代を残すために側室増やしたためとされ(その後側室同士嫉妬から刺殺事件起こしたため、側室すら廃止する)、磯田道史は、「イケメン大名悲劇」として著作紹介している(磯田道史日本史探偵手帳文春文庫 2019年 pp.177 - 179)。 近代期一夫多妻法律禁じられた後も妾の風習残り社会的地位の高い例としては、「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一挙げられる後述書 p.238)。渋沢近代商業道徳を、儒教用いて世間説いたが、女性関係だけはだらしなかったため(後述書 p.238)に渋沢家女性からも度々攻撃され後述)、当人自覚があり、「婦人関係以外は、一生顧みて俯仰天地恥じない」と語っていた(後述書 p.238)。43歳の時、最初の妻である千代亡くすと、後妻兼子との間に4男5女をもうけ、この時期に妾も多数いたため、子供の数は30人超えるとみられ(後述書 p.238)、最後に子供もうけたのは80歳過ぎとなる(後述書 p.239)。そのため、孫娘華子は、「私も若い頃祖父何というヒヒジジイと軽蔑していた」(後述書 p.238)と証言し、妻兼子も、「父さま儒教という上手いものをお選びだよ。耶蘇教なら大変だよ」と皮肉交じりの発言残している(守屋淳訳 『現代語訳 論語と算盤ちくま新書232018年(1刷2010年) pp.238 - 239)。守屋淳は、栄一の孫である敬三の思い出話照らした上で渋沢栄一偉業支えていたのは(これらの)人並外れたバイタリティによると評している(前同 p.239)。前述の兼子の皮肉からも分かるように、儒教的価値観基づいているが、19世紀末の『古事類苑』には、「40過ぎた後妻は持つべからず前妻の子に悪い)」とあるように、当時としても、必ずしも一般的とはいえない。

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