日本の一夫多妻制度
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日本では、江戸時代までは上流社会において男子の家督跡取を生むという名目の元で「側室制度(そくしつせいど)」があった。「室」というのは妻女を指し、普通は正室(正妻)は1人、側室は複数人だったが、例外もあって厳密なものではなかった。跡取となる息子は彼女らの内の誰かが生母となるのである。男子の跡取を生んだ側室の扱いは、時代や身分によって大きく異なり多様であった。天皇や公家・武士に限らず、富裕商人が「妾」を持つ例は少なくなかった。 明治3年(1870年)に制定された明治国家最初の刑法典『新律綱領』は、妾を妻と同じく二親等と認めることで、一夫多妻制の法整備をした。さらには妾を正妻に格上げすることも認められた。明治6年(1873年)8月の大政官指令では、戸籍上でも妾を妻の次に記載することが定められた。近代キリスト教国的な重婚の禁止を規定した民法の施行により一夫多妻制は制度的にはなくなったが、近代において地位ある男性が妻と別に愛人をもつ風潮は広くみられた。社会的地位があり、晩年まで愛人を囲った一例としては、渋沢栄一がいる(後述、「変遷・その他」)。アイヌの一部では裕福な男性が複数の妻を持つこともあったが、民法の施行により和人と同じく禁止された。 日本の大奥はオスマン帝国のハーレムと比較した場合、皇太子(嫡子)を生んだ女性が母后として絶大な権力を握ることはなく、あくまで正室=御台所の生活のための役所であり、側室の立場は弱い(山本博文 『大奥学事始め 女のネットワークと力』 NHK出版、後述書p.112)。また大奥女中の気位は高く、相手が大名でも、敬称の「殿」を抜いて、「○○守」といった具合に呼び捨てにすらしていたため、必ずしも女性の地位が低かった訳ではない。 日本の一夫多妻を記録した海外の資料としては、中国の『魏志倭人伝』の他、ルイス・フロイスが豊臣秀吉について、「その諸宮殿内に200人以上の婦人を所有している」と記述したが、誤解に基づくともされる(鈴木旭 『面白いほどよくわかる 戦国史』 日本文芸社 2004年 p.207)。
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