王貞治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/26 10:12 UTC 版)
記録
初記録
- 初出場・初先発出場:1959年4月11日、対国鉄スワローズ1回戦(後楽園球場)、7番・一塁手で先発出場
- 初打点:1959年4月13日、対国鉄スワローズ3回戦(後楽園球場)、8回裏に宮地惟友から右犠飛
- 初安打・初本塁打:1959年4月26日、対国鉄スワローズ6回戦(後楽園球場)、7回表に村田元一から右越先制決勝2ラン
節目の記録
本塁打に関する記録は「節目の本塁打記録」を参照。
- 1000安打:1967年7月10日、対大洋ホエールズ15回戦(川崎球場)、2回表に森中千香良から右越ソロ ※史上65人目
- 1000試合出場:1966年8月24日、対広島カープ21回戦(後楽園球場)、3番・一塁手で先発出場 ※史上116人目
- 1000四球:1968年10月11日、対中日ドラゴンズ27回戦(後楽園球場)、9回裏に小川健太郎から ※史上初
- 1000打点:1969年10月6日、対大洋ホエールズ25回戦(川崎球場)、8回表に平松政次から右前適時打 ※史上7人目
- 3000塁打:1970年6月26日、対中日ドラゴンズ8回戦(後楽園球場)、8回裏に水谷寿伸から2ラン ※史上7人目
- 1000得点:1970年7月28日、対中日ドラゴンズ11回戦(中日スタヂアム)、1回表に末次民夫の適時打で生還 ※史上6人目
- 1500試合出場:1970年8月11日、対ヤクルトアトムズ16回戦(後楽園球場)、3番・一塁手で先発出場 ※史上32人目
- 1500安打:1970年10月6日、対広島東洋カープ21回戦(広島市民球場)、4回表に外木場義郎から右越ソロ ※史上27人目
- 3500塁打:1972年6月6日、対広島東洋カープ5回戦(広島市民球場)、1回表に安仁屋宗八から右越先制2ラン ※史上6人目
- 300二塁打:1972年10月7日、対阪神タイガース25回戦(阪神甲子園球場)、3回表に村山実から左翼線二塁打 ※史上11人目
- 4000塁打:1973年9月19日、対阪神タイガース22回戦(阪神甲子園球場)、1回表に上田二朗から右越先制3ラン ※史上4人目
- 1000三振:1974年4月23日、対ヤクルトスワローズ4回戦(明治神宮野球場)、8回表に浅野啓司から ※史上3人目
- 2000試合出場:1974年6月29日、対ヤクルトスワローズ13回戦(後楽園球場)、4番・一塁手で先発出場 ※史上8人目
- 1500打点:1974年7月30日、対ヤクルトスワローズ17回戦(明治神宮野球場)、5回表に松岡弘から右越2ラン ※史上2人目
- 2000安打:1974年8月4日、対阪神タイガース17回戦(阪神甲子園球場)、6回表に古沢憲司から右前安打 ※史上8人目
- 4500塁打:1975年8月16日、対大洋ホエールズ18回戦(後楽園球場)、7回裏に間柴茂有から中前適時打 ※史上2人目
- 350二塁打:1975年9月24日、対中日ドラゴンズ22回戦(中日スタヂアム)、7回表に松本幸行から左中間二塁打 ※史上8人目
- 5000塁打:1977年7月13日、対中日ドラゴンズ11回戦(ナゴヤ球場)、1回表に星野仙一から右中間へ先制3ラン ※史上2人目
- 2500試合出場:1978年6月3日、対広島東洋カープ10回戦(後楽園球場)、3番・一塁手で先発出場 ※史上2人目
- 2500安打:1978年6月27日、対中日ドラゴンズ12回戦(後楽園球場)、6回裏に戸田善紀から右前安打 ※史上3人目
- 2000打点:1978年9月22日、対中日ドラゴンズ24回戦(ナゴヤ球場)、8回表にフレッド・クハウルアから右越ソロ ※史上初
- 400二塁打:1979年5月31日、対中日ドラゴンズ7回戦(後楽園球場)、8回裏に小松辰雄から左翼へ決勝適時二塁打 ※史上6人目
- 5500塁打:1979年6月12日、対ヤクルトスワローズ7回戦(後楽園球場)、1回裏に神部年男から右翼線安打 ※史上初
- 100犠飛:1980年10月10日、対中日ドラゴンズ26回戦(ナゴヤ球場)、6回表に佐藤政夫から ※史上2人目
- 節目の本塁打記録
号数 | 記録日 | 対戦カード | 球場 | 回 | 投手 | 結果 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 1959年4月26日 | 国鉄スワローズ6回戦 | 後楽園球場 | 7回表 | 村田元一 | 右越先制決勝2ラン | 初安打 |
4 | 1959年6月25日 | 大阪タイガース11回戦 | 後楽園球場 | 7回裏 | 小山正明 | 右越同点2ラン | ONアベック第1号・天覧試合#プロ野球 |
47 | 1962年7月1日 | 大洋ホエールズ15回戦 | 川崎球場 | 3回表 | 稲川誠 | 右越先制ソロ | 一本足第1号 |
50 | 1962年7月11日 | 中日ドラゴンズ12回戦 | 中日スタヂアム | 8回表 | 権藤博 | 右越ソロ | |
100 | 1963年7月28日 | 広島カープ17回戦 | 広島市民球場 | 1回表 | 大石清 | 右中間へ先制2ラン | 32人目 |
150 | 1964年7月16日 | 広島カープ22回戦 | 後楽園球場 | 7回裏 | 池田英俊 | 左越2ラン | 17人目 |
200 | 1965年9月19日 | 大洋ホエールズ20回戦 | 後楽園球場 | 9回表 | 峰国安 | 右越2ラン | 12人目 |
250 | 1966年8月18日 | 大洋ホエールズ22回戦 | 川崎球場 | 4回表 | 新治伸治 | 右越ソロ | 4人目 |
300 | 1967年8月31日 | サンケイアトムズ22回戦 | 後楽園球場 | 3回裏 | 村田元一 | 右越3ラン | 3人目 |
350 | 1968年9月21日 | 中日ドラゴンズ21回戦 | 中日スタヂアム | 6回表 | 小川健太郎 | 右越2ラン | 3人目 |
400 | 1969年10月18日 | 中日ドラゴンズ25回戦 | 中日スタヂアム | 1回表 | 外山博 | 右越先制3ラン | 2人目 |
450 | 1971年4月18日 | 広島東洋カープ4回戦 | 広島市民球場 | 3回表 | 安仁屋宗八 | 右中間へソロ | 2人目 |
500 | 1972年6月6日 | 広島東洋カープ5回戦 | 広島市民球場 | 3回表 | 西川克弘 | 右越2ラン | 2人目 |
550 | 1973年6月21日 | 中日ドラゴンズ11回戦 | 中日スタヂアム | 4回表 | 伊藤久敏 | 右越ソロ | 2人目 |
600 | 1974年5月30日 | 阪神タイガース11回戦 | 阪神甲子園球場 | 3回表 | 谷村智啓 | 右越3ラン | NPB初 |
650 | 1975年7月11日 | 阪神タイガース9回戦 | 後楽園球場 | 8回裏 | 山本重政 | 右越2ラン | NPB初 |
700 | 1976年7月23日 | 大洋ホエールズ16回戦 | 川崎球場 | 8回表 | 鵜沢達雄 | 右中間へ2ラン | NPB初 |
714 | 1976年10月10日 | 阪神タイガース22回戦 | 後楽園球場 | 7回裏 | 古沢憲司 | 右越ソロ | 世界2位タイ |
715 | 1976年10月11日 | 阪神タイガース23回戦 | 後楽園球場 | 8回裏 | 山本和行 | 右越2ラン | 世界2位単独 |
750 | 1977年8月23日 | 広島東洋カープ19回戦 | 広島市民球場 | 3回表 | 池谷公二郎 | 右越ソロ | NPB初 |
755 | 1977年8月31日 | 大洋ホエールズ22回戦 | 後楽園球場 | 1回裏 | 三浦道男 | 右越先制2ラン | 世界タイ |
756 | 1977年9月3日 | ヤクルトスワローズ23回戦 | 後楽園球場 | 3回裏 | 鈴木康二朗 | 右越ソロ | 世界新 |
800 | 1978年8月30日 | 横浜大洋ホエールズ23回戦 | 後楽園球場 | 6回裏 | 大川浩 | 右越ソロ | NPB初 |
850 | 1980年6月12日 | 広島東洋カープ9回戦 | 後楽園球場 | 1回裏 | 金田留広 | 右越ソロ | NPB初 |
868 | 1980年10月12日 | ヤクルトスワローズ26回戦 | 後楽園球場 | 6回裏 | 神部年男 | 右越ソロ | 現役最終 |
レギュラーシーズン
- 三冠王:2回(1973年 - 1974年) ※史上3人目、セ・リーグ初。2年連続は最長タイ、34歳シーズンでの達成はNPB史上最年長
- 通算出場試合:2831(歴代3位、セ・リーグ歴代2位、同一球団での通算出場試合数としては歴代1位) ※2013年に谷繁元信に更新されるまでセ・リーグ記録だった
- 通算打席:11866(歴代2位、セ・リーグ記録)
- サイクル安打:1963年4月25日、対阪神タイガース6回戦(後楽園球場) ※史上22人目
- 5504試合連続退場なし(1959年 - 1988年、1995年 - 2008年) ※NPB記録
- シーズン打率3割30本塁打100打点:7年連続含む12回(1963年 - 1969年、1973年 - 1974年、1976年 - 1978年)※NPB記録
本塁打
- 通算本塁打:868(世界記録)
- 通算満塁本塁打:15(セ・リーグ記録、左打者記録、歴代2位) ※2015年に埼玉西武ライオンズの中村剛也に抜かれるまでNPB記録だった
- 通算サヨナラ本塁打:8(セ・リーグタイ記録)
- 通算400本塁打到達スピード1位:1422試合
- 通算450本塁打到達スピード1位:1559試合
- 通算500本塁打到達スピード1位:1723試合
- 通算550本塁打到達スピード1位:1864試合
- 通算600本塁打到達スピード1位:1983試合
- 通算650本塁打到達スピード1位:2134試合
- シーズン50本塁打以上:3回(1964年、1973年、1977年)NPB記録、1964年の初達成時は史上3人目
- シーズン40本塁打以上:8年連続含む13回(1963年 - 1970年、1972年 - 1974年、1976年 - 1977年)※NPB記録
- シーズン30本塁打以上:19年連続19回(1962年 - 1980年)※日本記録、20本塁打以上でもNPB記録
- シーズン10本塁打以上:21年連続21回(1960年 - 1980年)※NPBタイ記録
- 64試合でシーズン30本塁打到達:1976年
- 97試合でシーズン40本塁打到達:1966年、1967年 ※史上最速[150]
- 7試合連続本塁打:1972年9月11日 - 9月20日 ※史上初、NPBタイ記録[151]
- 4打席連続本塁打:1964年5月3日 ※史上2人目、歴代2位タイ[150]
- 4打数連続本塁打:同上 ※史上2人目、歴代2位タイ[150]
- 1試合4本塁打:同上 ※NPBタイ記録
- 1試合3本塁打以上:5回 ※セ・リーグ記録
- 1試合2本塁打以上:95回 ※NPB記録
- 年齢別シーズン最多本塁打数(22、23、24、26、27、34、36、37、38歳)
公式戦では通算868本の本塁打を記録しているが、そのほか、日本シリーズ戦で29本、オールスター戦で13本、東西対抗戦で1本、日米野球戦で23本、オープン戦で98本と、生涯通算では1000本を超える本塁打(1032本)を放っている。
なお、雨天で試合途中にノーゲームで無効となった本塁打等、いわゆる「幻の本塁打」は1本もない。1964年9月23日の対大洋戦(後楽園球場)で放った最後の55号本塁打は強い雨の中で打ったものだったが、東京オリンピックのために日程消化を急いでいた事情も手伝ってなんとか5回まで強行し試合成立させた結果、55号は幻になることを免れた。なお、1966年の日米野球・対ドジャース戦では走者を追い越し、本塁打が取り消しとなっている。
本拠地であった後楽園球場で413本の本塁打を放っている。この本数は球場別通算本塁打数の中で歴代1位であり、未だに破られていない。
打った本塁打は全て柵超え本塁打であり、ランニング本塁打は1本も打ったことがない[152]。
打率
- 通算安打:2786(セ・リーグ記録)
- 通算最多出塁率:.446
- 通算最多出塁数:5290個
- シーズン最多出塁数:294個(1974年)
- シーズン最高出塁率:.532(1974年)
- シーズン打率3割以上:13回(1963年 - 1970年、1973年 - 1974年、1976年 - 1978年、張本勲の16回に次ぐ史上2位、セ・リーグ記録)
- 8年連続シーズン打率3割(張本勲の9年連続に次ぐ史上2位、セ・リーグ記録)
- シーズン100安打以上:21年連続21回(1960年 - 1980年、NPB記録)
- 打率ベストテン入り:16年連続含む17回(1960年、1962年 - 1977年、NPB記録)
- 全イニング出場首位打者(1969年、史上初、他にイチロー(1995年)、松井秀喜(2001年)、西岡剛(2010年)、長谷川勇也(2013年)、秋山翔吾(2017年)が達成)[153]
- 同一球場で1000安打(後楽園球場)
アベレージヒッターとしての評価も高く、打率3割以上を13回達成したのはNPB歴代2位の記録であり首位打者5回獲得はセ・リーグ2位の記録でもある[154]。プロ通算打率は.301。実働20年を越えて3割を記録したのは他に張本しかいない大記録である。本人はこの維持を気にかけていたらしく、引退会見では「王貞治のバッティングができなくなった」としか述べなかったが、後に「頭になかったといえば嘘になる」とそれが引退の一因であることを明かしている。 また、ホームランの功績は言うまでもないが、打撃によっては4割も可能という定評は現役時代からあった[155]。特に落合博満は「王シフトを逆手に取り、流し打ちをたくさんすれば、それこそ四割も可能だっただろう」と考えている[156]。
また、四球数も非常に多かったことから出塁率も非常に高く、通算出塁率.446及び1974年に記録したシーズン出塁率.532は現在も破られていない。2リーグ制以降でこの記録に最も近づいた記録は落合博満が1986年に記録した.487であり、実に.045の大差をもつけている。また、2リーグ制以降のシーズン出塁率では1位 - 5位までを王が独占しており、ベスト10でも7個ランクインしている。
長打力・得点能力
- 通算得点:1967(NPB記録)
- 通算打点:2170(NPB記録)
- 通算塁打:5862(NPB記録)
- 通算犠飛:100(セ・リーグ記録、左打者記録)
- 通算長打率:.634(4000打数以上で歴代1位)
- 通算RCWIN:142.22(NPB記録)
- シーズン最高OPS:1.293(1974年)
- シーズン最高RC27:14.9825(1974年)
- シーズン最高RCWIN:10.68(1973年)
- シーズン最高XRWIN:9.70(1973年)
- シーズン100得点以上:10回(1963年 - 1966年、1968年 - 1969年、1972年 - 1974年、1977年)※NPB記録
- シーズン100打点以上:7年連続含む14回(1963年 - 1969年、1971年 - 1974年、1976年 - 1978年)
- 14回はNPB記録。7年連続は、2010年にアレックス・ラミレスに抜かれるまでの31年間、NPB記録だった。
- リーグ最多得点:13年連続15回(連続記録、獲得回数ともにNPB記録)
- リーグ最多長打:13年連続13回(1962 - 1974年。連続記録、獲得回数ともにNPB記録)
- リーグ最多塁打:7年連続12回(連続記録、獲得回数ともにNPB記録。3年以上連続を2回は史上唯一)
- 最高長打率:11年連続14回(連続記録、獲得回数ともにNPB記録。2年以上連続を2回は史上唯一)
メジャーリーグで広く普及している総合打撃指標であるOPS(出塁率+長打率)では1.080 (.446 + .634) という数字を残している。OPSが10割を超える選手は数少ない。NPBで2000打数以上の選手でOPSが10割を超える打者は王、ランディ・バース (1.078)、ロベルト・ペタジーニ (1.051) の3人のみである。4000打数以上の選手の中では王のみである(2位は松井秀喜の0.996)。またシーズン記録でもNPB史上で10度しか達成されていないOPS12割も一人で5度記録している。
OPS、XR、RCなどさまざまな得点算出能力で1位である。傑出度を示すRCWINのシーズン記録でも1位から9位までを王が独占している(10位は1986年のバース)。打撃各部門でのシーズンのリーグ1位獲得回数も突出している(合計213個、年度別打撃成績参照。213という数字には、下表にはない最多長打数と最多出塁数が含まれている)。
四死球
- 通算四球:2390(NPB記録)
- 通算故意四球:427(NPB記録)
- シーズン故意四球:45(1974年、NPB記録)
- 通算死球:114(歴代15位タイ、左打者では稲葉篤紀に抜かれるまで歴代1位だった。現在は阿部慎之助、稲葉、青木宣親、松中信彦についで歴代5位)
- シーズン最多四球:158個(1974年、NPB記録)
- シーズン最多四死球:166個(1974年、NPB記録)
- 連続試合四球:18(1970年、NPB記録タイ)
- シーズン100四球以上:16年連続16回(1964 - 1978年、NPB記録)
- リーグ最多四球:18年連続18回(1962 - 1979年、NPB記録)
通算四球は2390個は2位の落合博満の1475個に1000個近くの差をつけて堂々の1位。王の引退当時は本塁打数とともに四球数もメジャーリーグの記録(ベーブ・ルース、2062)を上回っていた(後にバリー・ボンズが更新)。
シーズン四球数は歴代1位から4位(130個、2018年の丸佳浩とタイ)まで独占、歴代6位の金本知憲(2001年、128個)を挟んで再び単独7位から12位タイ(121個、2度、2007年のタイロン・ウッズとタイ)まで王の名前が並ぶ。これらを含め、シーズン四球数歴代10傑のうち8、20傑のうち延べ13を王が独占している。また、連続7打席四球を2度(1971年、1973年)記録している(連続打席四球歴代5位)。なお、シーズン四球記録を達成した1974年は現在より13試合少ない130試合制での記録あり、現行の143試合制に換算すると174個となる。
さらに、通算敬遠427個も2位の張本(228個)に200個近い差をつけての歴代1位。この中にはランナー無しでの敬遠が13回含まれる。イニング別では1回が一番多い。シーズン敬遠数も歴代1位から3位までを独占している。なお、満塁で敬遠されたことはない。
四死球が非常に多かったため、通算打席数11866はセ・リーグ記録だが、通算打数9260は衣笠祥雄(通算9404打数)に次いでセ・リーグ2位となっている。
守備
- シーズン守備機会:1607(1963年、一塁手としてのセ・リーグ記録)
- シーズン刺殺:1521(1963年、一塁手としてのセ・リーグ記録)
- シーズン守備機会連続無失策:991(1980年4月25日 - 10月10日、一塁手としてのセ・リーグ記録)
王本人は「バッティングに比べたら守備は気を抜いていた」と語っているが、実際にはプロ入り2年目でアメリカ製のファーストミットを取り入れるなど守備にも力を入れており、打撃とともにその守備力も高く評価されていた。特にショートバウンドの処理、バント処理が抜群で、1972年から制定されたダイヤモンドグラブ賞に、1980年に現役引退するまで毎年選出されている。一塁手としての9年連続受賞は現在も歴代1位。一塁手としての9回の受賞も1999年に駒田徳広に抜かれるまで1位だった。現在は駒田に次いで歴代2位(2022年度シーズン終了時点)。
一塁手として、1963年にシーズン守備機会数とシーズン刺殺数のセ・リーグ記録をそれぞれ更新しており(1607守備機会、1521刺殺)、現役最後の1980年にも守備機会連続無失策のセ・リーグ記録を更新(991守備機会連続無失策)している。ただし、現役生活が長く守備機会が多かったこともあり、一塁手としての通算失策数165も歴代1位である。一塁手として通算2799試合・27743守備機会・25893刺殺・1685補殺・2317併殺を残しており、通算守備記録においても他の一塁手を圧倒している(すべて一塁手プロ野球歴代1位)。
長年王とともに内野を守った長嶋茂雄は、「一塁手ではワンちゃんが抜群に上手かったですよ。我々内野手はどんな送球でも安心して放れましたから」と振り返っている。特にバント処理に関しては他球団からも警戒されており、監督としても王のいる巨人と対戦した吉田義男(阪神)も、「ワンちゃんにあれだけ迫られたらバントが成功する気が全然しない」と語っている。
篠塚和典は、現役時代王と守備練習を共にした際「俺は下はどんなボール(送球)でも捕れる。(中略)だからゲッツーでもベース板をめがけて投げてこい」とアドバイスを受けたと証言しており、江川卓はそのエピソードを受けて「それくらい王さんって、守備うまかったですよね」と語っている[157]。
王自身は「ファーストは簡単にできるみたいに言われるけど、そんなことはない」と難しさについて述べることもある[158]。
ハンク・アーロンの本塁打記録に並んだ1977年8月31日の対大洋ホエールズ戦と、アーロンの記録を塗り替えた9月3日の対ヤクルト戦では、「外野のファンにお礼がしたいから」と言って、途中から右翼手として出場している。公式戦で王が外野手として出場したのはこの2試合だけである。
日本シリーズ
- 通算出場回数:14(歴代1位)
- 通算出場試合:77(歴代1位)
- 通算得点:58(歴代1位)
- 通算本塁打:29(歴代1位)
- 通算犠飛:5(歴代1位)
- 通算四球:83(歴代1位)
- 通算安打:68(歴代4位)
- 通算二塁打:6(歴代18位タイ)
- 通算塁打:161(歴代2位)
- 通算打点:63(歴代2位)
- シリーズ本塁打:4(1963年、歴代1位タイ)
- シリーズ四球:9(1967年、1976年の2度、歴代1位)
オールスターゲーム
- 出場:20回(1960年 - 1964年、1966年 - 1980年)
- 出場試合:58(歴代1位)
- 通算打数:188(歴代1位)
- 通算犠飛:3(歴代1位)
- 通算四球:33(歴代1位)
- 通算得点:25(歴代3位)
- 通算安打:40(歴代6位)
- 通算二塁打:8(歴代6位タイ)
- 通算本塁打:13(歴代2位タイ)
- 通算塁打:87(歴代3位)
- 通算打点:31(歴代2位)
2年目の1960年から現役最終シーズンの1980年まで21年連続でオールスターゲームにファン投票選出された(1965年のみ怪我のため出場辞退)。ファン投票選出回数(21回)、連続選出回数(21回)ともに野村克也と並ぶタイ記録である(選手としての最多選出回数は野村の22回)。
背番号
- 1(1959年 - 1988年) - ジャイアンツの永久欠番(1989年3月16日認定)になっている。入団から監督を退くまで30年間使用されたが、同一人物による途切れ無しでの30年間使用は、1984年シーズンから引退する2015年まで中日で背番号34を着用した山本昌(32年間)に次ぐ記録である。
- 89(1995年 - 2008年) - 「野球」「破竹の勢い」にかけた。ダイエー・ソフトバンクでの監督時代の背番号である当番号は、ホークスの永久欠番にするかどうかが検討されている。
- ダイエーの監督として連覇を果たした2000年のシーズンオフに、巨人のOB戦(テレビ放映)があり、新調された背番号1のユニフォームを着て参加している。
注釈
- ^ 現在のメジャーリーグの記録はバリー・ボンズの762本。
- ^ 自著『もっと遠くへ ~私の履歴書~』では「坊や、何で右で打っているの?」と書いている。
- ^ 自著『もっと遠くへ ~私の履歴書~』では「じゃあ、次は左で打ってみたらどうだい。」と言っている。
- ^ 荒川はその時の王の印象を後に「なんて素直な少年なんだと思った。普通は大事な試合中に右打ちから左打ちに変えるなんて人に言われたってしない。それをスパッとやってしまうのはすごい」と語っている。
- ^ 開幕戦先発出場のセ・リーグ高卒新人は王以外に1957年に日大三高から阪神入りした並木輝男外野手、小学4年で王に憧れ野球を始め1988年にPL学園から中日入りした立浪和義遊撃手の2人。
- ^ ただし、シーズンで最多三振を記録したことは一度もない。
- ^ 当時の巨人でのシーズン最多本塁打は青田の32本であり、簡単に30本以上が出るとは思っていなかった。
- ^ この日は日曜日で、当時日曜日はダブルヘッダーとすることが多く、第1試合は薄暮ゲームで午後4時半から開始することが多かった。
- ^ この時の当事者だった別所と荒川は、その後1977年から1984年まで、フジテレビと文化放送の野球解説者として『プロ野球ニュース』などで一緒に仕事をすることになる。
- ^ 1981年から1987年までは後楽園球場、1998年から現在は東京ドームの1番ゲートは「王ゲート」と称されており、そのモニュメントで再現されている。また2002年には王の現役時代のバッティングを再現した「王貞治スーパーリアルフィギュア」(868体限定)が販売され、一本足打法が再現されている
- ^ NPB全体では2001年のタフィ・ローズ、2002年のアレックス・カブレラと並ぶ2位タイ記録。日本国籍選手だと1963年の野村克也、1985年の落合博満の52本塁打が最多タイ記録であった(村上は日本国籍)。
- ^ 王が引退した1980年において、メジャーリーグ26球団の本拠地球場の多くは両翼が100mを超えており、両翼が100m以下の球場も左右中間は115m以上あるなど充分な外野の広さを持っていた。これに対し、後楽園球場は両翼が実測87.8m(約288.1ft)、左右中間110.1m(約361.1ft)と狭く、他のセ・リーグの球場もほぼ同様の広さであった。
- ^ 当初は助監督の3年間で退任して巨人を去るつもりであったが、球団の要請により、監督に登用されて引き受けることとなった。
- ^ 戦後から2015年まで(水原監督から第二次原監督まで)でBクラス経験が一度もない巨人軍監督は、水原と王の2人だけである。
- ^ 前年の1993年にも根本から監督の要請があったが、この時は急な話だった為に断っている[81]。
- ^ 長嶋自身、周囲への助言を求めている自分と、そうでもない王の対比を意識しており、その違いは「ワンちゃんは荒川さん直々の打法があったが、自分はそもそも師匠がおらず、直伝された技術がなかった。だから自分から周囲に教えを乞うしかなかった。」と述べている(「巨人V9 50年目の真実」より)
- ^ その際、自分のもとに王から直接電話が来るはずないと思っていた尾花から「王さんですか?失礼ですがそのような方に心当たりないのですが、どちらにお掛けですか」と訊き返し、それに対して王が「福岡ダイエーホークスの監督を務める王貞治と申します」と丁寧に返答したため、尾花が一転して直立不動になってしまったという逸話がある(詳細は尾花高夫を参照)。
- ^ ただし、NPB公式の出塁率のシーズン記録は1986年落合博満(ロッテ)の.487である(両リーグで最高出塁率を表彰開始した1985年以降が対象であるため)[137]。
出典
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