菅野義丸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/16 18:02 UTC 版)
経歴
山梨県東八代郡上曽根村(現甲府市)の長田家に生まれ、その後、菅野家に婿入りして本籍を福島県に移す[1][2]。山梨県立甲府中学校(現山梨県立甲府第一高等学校)[1]を経て、検定試験に合格して、1931年3月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業[1][2][3]。1930年10月、高等試験行政科試験に合格[2][3]。1931年、鉄道省に入省し仙台鉄道局書記となる[3]。
以後、鉄道省事務官、鉄道局副参事、国際観光局事務官、大阪鉄道局運輸部長、同業務部長、運輸省大臣官房文書課長、日本国有鉄道職員局長などを歴任[2][3]。1949年11月1日、第3次吉田内閣の官房副長官に就任し、1953年3月23日まで在任して退官した[1][4]。
その後、実業界に転じ、日本開発銀行理事、アラビア石油常務、日本国内航空社長、日本万国博覧会協会副会長を経て、1971年、国際電信電話社長に就任[1][5]。その後、同相談役を務めた[1]。
逸話
1976年、三木武夫総理から国鉄総裁の就任要請を受けたが受諾しなかった[1]。
家族
長女直子は水島三一郎の次男水島昭二(上皇后美智子の従兄弟)に嫁ぎ、三女久子は実吉純一の次男・実吉秀郎に嫁いだ。五男直之はタカラスタンダードの社長を務めた。
著作
- 菅野誠之編集企画『蒸々日上:「菅野義丸」遺稿集』菅野章子、1980年。
参考文献
関連項目
- 1 菅野義丸とは
- 2 菅野義丸の概要
- 菅野義丸のページへのリンク