石田三成 石田三成の概要

石田三成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 02:24 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
 
石田 三成
東京大学史料編纂所所蔵
時代 安土桃山時代
生誕 永禄3年(1560年
死没 慶長5年10月1日1600年11月6日)(41歳没)
改名 佐吉(幼名)、三也、三成
別名 石田治部少輔
戒名 江東院正軸因公大禅定門
墓所 大徳寺三玄院高野山奥の院、滋賀県彦根市佐和山遊園
官位 従五位下治部少輔
主君 豊臣秀吉秀頼
氏族 石田氏
父母 父:石田正継、母:岩田氏(瑞岳院)
兄弟 正澄三成、弥治郎、福原長堯正室、
正室:皎月院宇多頼忠娘)
重家重成、佐吉(清幽)、山田隼人正室、小石殿(岡重政室)、辰姫津軽信枚室)、八郎?
テンプレートを表示

豊臣政権の奉行として活動し、五奉行のうちの一人となる[1]豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。

生涯

秀吉の子飼い

石田三成出生地碑と三成像(滋賀県長浜市石田町)

永禄3年(1560年)、石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)で誕生した。幼名は佐吉。 北面武士であった下毛野朝臣の一族、もしくは三浦一族である相模国大住郡石田郷(現・神奈川県伊勢原市石田)の住人石田為久の末裔とされる他、石田村は古くは石田郷ともいい、石田氏は郷名を苗字とした土豪であったとも言われている。

羽柴秀吉織田信長に仕えて近江長浜城主となった天正2年(1574年)頃から、父・正継、兄・正澄と共に秀吉に仕官し、自身は小姓として仕える(天正5年(1577年)説もある)。 秀吉が信長の命令で中国攻めの総司令官として中国地方に赴いた時、これに従軍した。

天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変により横死し、次の天下人として秀吉が地位を固めるにつれ、三成も秀吉の側近として次第に台頭してゆく。 天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当し、また先駈衆として一番槍の功名をあげた(『一柳家記』)。 天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いにも従軍。 同年、近江国蒲生郡検地奉行を務めた。

豊臣政権下

石田三成の書状

天正13年(1585年)7月11日、秀吉の関白就任に伴い、従五位下治部少輔に叙任される。 同年末に賤ヶ岳7本槍も4000〜6000石の加増なのに対し秀吉から近江国水口4万石の城主に封じられたと一般にはされているが、水口には天正13年7月に中村一氏が6万石で入っており、その後は同18年(1590年)に増田長盛文禄4年(1595年)に長束正家と引き継がれている[注釈 1]

天正14年(1586年)1月、当時名将として名高かった島清興(左近)を知行の半分を与えて召し抱えたといわれる(『常山紀談』。 異説あり[注釈 2])。 秀吉はこれに驚愕、賞賛し、左近に三成への忠誠を促し、菊桐紋入りの羽織を与えた。同年、越後国上杉景勝が秀吉に臣従を誓うために上洛してきた時、これを斡旋した。

また、秀吉から堺奉行に任じられる。 三成はを完全に従属させ、兵站基地として整備する。 秀吉は翌天正15年(1587年)の九州平定に大軍を動員し、比較的短期間で終わらせるが、その勝因の一つは水軍を最大限に活用して大軍を動員・輸送する能力があった事である[5]。こうした秀吉の遠征を支えたのが、後方の兵糧・武具などの輜重を担当した三成ら有能な吏僚達であった。

九州平定後、博多奉行を命じられ、軍監の黒田孝高らと共に博多町割り、復興に従事した。 また、天正16年(1588年)、取次として薩摩国島津義久の秀吉への謁見を斡旋した。

天正17年(1589年)、美濃国を検地する。天正18年(1590年)の小田原征伐に参陣。秀吉から後北条氏の支城の館林城忍城攻撃を命じられる。忍城攻めでは元荒川の水を城周囲に引き込む水攻めが行われ、その際の遺構が石田堤として周囲に現存している[6]。関東各地の後北条氏の支城はほとんどが本城である小田原城よりも先に陥落したが、忍城では小田原開城後の7月初旬まで戦闘が続いた。 なお、三成は取次として、常陸国佐竹義宣が秀吉に謁見するのを斡旋し、奥州仕置後の奥州における検地奉行を務めるなど着実に実績を重ね、吏僚としての功績は大きかった。

天正19年(1591年)4月、近江佐和山に入城する。 ただし、これは蔵入地の代官の資格で佐和山城に入ったもので、城を預かる城代としての入城であった。 当時の三成の所領は美濃国内、安八郡神戸とその周辺にあったと推定されている[7]

文禄元年(1592年)からの文禄の役(朝鮮出兵)では渡海し、増田長盛大谷吉継と共に漢城に駐留して朝鮮出兵の総奉行を務める。文禄2年(1593年)、碧蹄館の戦い幸州山城の戦いに参加。その後、軍の講和使・謝用梓、徐一貫を伴って肥前名護屋城に戻るなど、明との講和交渉に積極的役割を果たしている。 しかし、秀吉と現地の連絡役という立場の行動は、豊臣家中で福島正則黒田長政ら武断派の反発を招いた。

文禄3年(1594年)、9月3日に母・瑞岳院が死去、兄・正澄と親交が厚かった藤原惺窩大村由己らが追悼の漢詩や文を送り、三成も佐和山城下に瑞岳寺を建立している[8]。 また、この年に島津氏佐竹氏の領国を奉行として検地する。

文禄4年(1595年)、秀吉の命により、秀吉の甥・豊臣秀次を謀反の嫌疑により糾問する(秀次事件)。 秀次の死後、その旧領のうち近江7万石が三成の代官地になる[注釈 3]。 また、同年に畿内と東国を結ぶ要衝として、軍事的にも政治的にも、重要な拠点である[9]近江滋賀県佐和山19万4,000石の所領を秀吉から与えられ[10] 、正式に佐和山城主となった[7]。それにより佐和山に城を築く大大名となった。

慶長元年(1596年)、佐和山領内に十三ヶ条掟書、九ヶ条掟書を出す。 明の講和使節を接待。同年、京都奉行に任じられ、秀吉の命令でキリシタン弾圧を命じられている。 ただし、三成はこの時に捕らえるキリシタンの数を極力減らしたり、秀吉の怒りを宥めて信徒たちが処刑されないように奔走したりするなどの情誼を見せたという(日本二十六聖人)。

慶長2年(1597年)、慶長の役が始まると国内で後方支援に活躍した。 その一方で、この年に起きた蔚山城の戦いの際に在朝鮮の諸将によって戦線縮小が提案され、これに激怒した秀吉によって提案に参加した大名が譴責や所領の一部没収などの処分を受ける事件が起きた。 この際、現地から状況を報告した軍目付は三成の縁戚である福原長堯らであり、処分を受けた黒田長政、蜂須賀家政らはこの処分を秀吉に三成・長堯が意見した結果と捉え、彼らと三成が対立関係となるきっかけとなった[11]加藤清正は石田三成に帰国をしないことを秀吉に報告され。武断派との対立が深まったと言われている。

慶長3年(1598年)、秀吉は小早川秀秋の領地であった筑後国筑前国を三成に下賜しようとしたが、三成は辞退している。 しかし、筑後国・筑前国の蔵入地の代官に任命されて名島城を与えられた。 慶長4年(1599年)に予定されていた朝鮮における大規模攻勢では、福島正則や増田長盛と共に出征軍の大将となる事が決定していた[12]。 しかし、慶長3年(1598年)8月に秀吉が没したためこの計画は実現せず、代わって戦争の終結と出征軍の帰国業務に尽力した。

秀吉死後

秀吉の死後、豊臣家の家督は嫡男の豊臣秀頼が継ぐ。 しかし朝鮮半島よりの撤兵が進められる中、政権内部には三成らを中心とする文治派と、加藤清正・福島正則らを中心とする武断派が形成され対立を深めていた。 慶長3年(1598年)8月、毛利輝元と三成ら四奉行は、五大老の中に自分達と意見を異なる者が出た場合、秀頼のために協力してこれにあたる事を改めて誓う起請文を作成している[13]。 一方、徳川家康は同年10月から12月にかけて京極高次細川幽斎ら諸大名を訪問し、また水面下で福島正則、黒田長政、蜂須賀家政ら武断派諸侯と婚姻関係を結ぼうとしていた。

翌慶長4年(1599年)初頭、家康による縁組計画が発覚する。 これを文禄4年(1595年)8月に作られた「御掟」における大名間の私的婚姻の禁止条項に違反する行為であるとして、前田利家を中心とする諸大名から家康弾劾の動きが起こる。 四大老五奉行による問責使が家康に送られる一方、家康も国許から兵を呼び寄せる[14]など対立は先鋭化するが、2月12日に家康が起請文[15]を提出することなどにより一応の解決をみた。

同年閏3月3日に前田利家が病死すると、その直後に加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興浅野幸長池田輝政加藤嘉明七将が、三成の大坂屋敷を襲撃する事件(石田三成襲撃事件)が起きる。三成は後に、この事件の中心人物として事件直前に家康より豊後国内に6万石を与えられていた細川忠興の名を挙げている[16]

この後、七将と三成は伏見城内外で睨みあう状況となるが、仲裁に乗り出した家康により和談が成立。三成は五奉行の座を退き、閏3月10日、佐和山城に帰城した。この事件の際、「三成が敵である家康に助けを求め、単身で家康の向島の屋敷に入り難を逃れた」という逸話があるが、これらの典拠となっている資料は明治期以降の『日本戦史・関原役』などで、江戸時代に成立した史料に、三成が家康屋敷に赴いたことを示すものはない[17]

慶長4年(1599年)11月には家康暗殺計画への関与を疑われた前田利長が、父・利家から引き継いでいた大老の地位を事実上失い、浅野長政も奉行職を解かれ領国の甲斐国に蟄居となる。これによって五大老五奉行は四大老三奉行となり、以降、豊臣政権内部の主導権は家康が握る。

関ヶ原の戦い

笹尾山の石田三成陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町
石田三成の馬印と旗印

慶長5年(1600年)6月16日、家康は陸奥国会津を領していた上杉景勝を討つために大坂を発つ(会津征伐)。入れ替わるように前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行の上坂要請を受けた毛利輝元が7月17日に到着(大坂入城は19日)。同時に三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状(『内府ちがいの条々』)が諸大名に送られた。ここに関ヶ原の戦いの対立構造が成立する。

この西軍の結成に関して三成がどのような役割を果たしたのかについては、研究者によって評価が別れる。従来の説は単独で決起した三成が諸大名を引き込んだとするものであるが、挙兵に到るまでの三成の詳細な動向は一次史料では不明であり、また三成を西軍結成の首謀者とする史料は江戸時代成立の二次史料が多い点が指摘されている[注釈 4]。また、家康が会津征伐に向かう際に、三成に対して佐和山城を宿所として借りようとして拒絶されたとして、これを挙兵と関連づける考えもあるが、単に家康に会津征伐を再考させるためのものであった可能性が高い[19]

『常山紀談』には三成が挙兵にあたって、大谷吉継を味方に引き入れるため佐和山に招いた時の逸話が載せられている。ただし『常山紀談』は明和7年(1770年)成立の逸話集であり、史実である確証は無い。

また上杉家の家老・直江兼続らと連携して事前に挙兵の計画を練っていたとする説もあるが、これも江戸時代成立の逸話集などに登場する説であり、一次史料による裏付けは無い。七月晦日付真田昌幸宛三成書状には「三成からの使者を昌幸の方から確かな警護を付けて、沼田越に会津へ送り届けて欲しい」(真田宝物館所蔵文書)と記されており、西軍決起後の七月晦日の段階においても、上杉家との確かな交信経路を持ち合わせていなかった点から、上杉側と三成の具体的な謀議や提携は、無かったとする考察もある[20]

決起した西軍は7月18日、家康家臣・鳥居元忠の守る伏見城を包囲。8月1日に城は陥落する(伏見城の戦い)。8月に入って伊勢国に侵攻した西軍は伊賀上野城安濃津城松坂城などを落とすが東軍の西上の動きを知って美濃方面へと転進。こうして東西両軍は関ヶ原で相まみえることになる。

通説では当初はやや西軍優勢で進み、黒田長政細川忠興加藤嘉明ら数倍の敵を一手に引き受けたとされているが、小早川秀秋脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなったとされている。しかし、東西どちらの陣営につくか迷った秀秋の陣に家康が鉄砲を打ち込んだため意を決した秀秋が西軍に襲いかかったとする経緯は、江戸時代成立の二次史料に記されているものであり、合戦後すぐに作成された9月17日付の石川康通彦坂元正による連署書状には秀秋が開戦直後に裏切ったと記されている[21]

大徳寺三玄院前の石田三成墓所石碑

戦いに敗れた三成は、伊吹山の東にある相川山を越えて春日村に逃れた。その後、春日村から新穂峠を迂回して姉川に出た三成は、曲谷を出て七廻り峠から草野谷に入った。そして、小谷山の谷口から高時川の上流に出、古橋に逃れた。しかし9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛された。

一方、9月18日に東軍の攻撃を受けて三成の居城・佐和山城は落城し、三成の父・正継を初めとする石田一族の多くは討死した。9月22日、大津城に護送されて城の門前で生き曝しにされ、その後、家康と会見した。9月27日、大坂に護送され、9月28日には小西行長、安国寺恵瓊らと共に大坂・堺を罪人として引き回された。9月29日、京都に護送され、奥平信昌京都所司代)の監視下に置かれた。

10月1日、家康の命により六条河原斬首された。享年41。辞世は「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」。首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園沢庵宗彭に引き取られ、京都大徳寺の三玄院に葬られた。

豊臣奉行としての三成

三成は秀吉直下の奉行として様々な政策・実務に携わっている。三成自身の政治的影響力は主に各地に赴いての検地や、秀吉(豊臣政権)と地方大名との間の外交交渉、大名内部で起きた諸問題への介入などを通じて、秀吉の国内統一戦が始まって以降徐々に高まっていったものと考えられる。その影響力を伺わせる発言がいくつか残っている。

  • 毛利輝元:「彼仁、当時、肝心の人にて、なかなか申すに及ばず。大かた心得にて候(大いに気を使う)[22][注釈 5]
  • 島津義弘:「江州佐和山の城主・石田治部少輔、太閤公の股肱の臣として、その勢威、比肩の人なし」[注釈 6]
  • 木食応其:「治少(治部少輔)、御奉行のその随一なる顔にて候つる。少しもそむけ候えば、たちまち身のさわりをなす仁にて候」[注釈 7]

五奉行に限らず、地方大名との様々な交渉を担当した豊臣秀長富田一白宮部継潤、小西行長、黒田孝高らは、単に秀吉の意思を伝達するだけではなく、相手の依頼に応じて便宜を図ることもあり、その結果秀吉の当初の決定に修正が加えられることもあった[23]。 三成に関しては毛利家・島津家が主な交渉相手であり、両家との交渉過程で築かれた関係が後の関ヶ原の戦いにおける連携に繋がることとなる。

ただし、政策の基本的部分は秀吉の意志によって決定され、また実務は他の奉行衆との連携・分担によって進められており、政権内部において三成一人が突出した権力を持っていたわけではない。浅野長政は秀次事件で失脚するまで東国諸大名に対して三成を上回る大きな影響力を有し[24]、朝廷や京周辺の寺社との交渉は主に前田玄以が務めていたように、三成の職権と影響力には限りがあった。

また、五奉行による連署書状の署名順は一部の例外を除き、前田玄以→浅野長政→増田長盛・三成→長束正家となっており、三成は五奉行内の序列においては3番手もしくは4番手であった[25]

秀吉の最晩年期になると慶長3年(1598年)8月5日の秀吉遺言書や、同時期に奉行衆と家康および他の大老との間で交わされた起請文[26]の条項によって、奉行の政治的権限は五大老、中でも家康の影響力を抑止する方向で強化されてゆく。これに対抗する家康と、現体制を保持しようとする奉行衆との対立関係が秀吉死後の政治抗争を招いたものと考えられる[27]


注釈

  1. ^ 近年では水口城は中村一氏の築城で、またその入封は甲賀衆の内紛による没落とされている事から、三成が領有することは考えられないとみられている。 もっとも、後年の小田原征伐の頃には7、8万石相当の軍役を負担していた[2]
  2. ^ 三成が左近を召抱えたのは、左近の先主・羽柴秀保が死去した文禄4年(1595年)以降とも言われており、この場合、三成は既に佐和山19万石の城主になっている[3]。 ただし、天正18年(1590年)5月に左近の妻が伊勢亀山(関一政の本拠)に留まっている一方、同月に三成から佐竹義久への使者を左近が務めている事から、小田原征伐の頃に関氏の厄介になっていた左近が三成に登用されたとするのが近年の有力説である[4]。また、水口4万石の半分の2万石で召し抱えたという説もあるが、三成が水口を領有した事実はないため、これは誤りである。
  3. ^ 当初は同じく旧領であった尾張清須21万石が与えられる予定であったが、こちらは福島正則に与えられた
  4. ^ 布谷陽子は慶長3年7月15日付上杉景勝宛島津義弘書状に毛利輝元、大坂の三奉行、小西行長大谷吉継が三成と共に談合を行ったことが記されていることから、西軍結成計画は複数人によって早くから進行していたものとする[18]
  5. ^ 家臣の児玉玉三郎右衛門に秀吉に献上する脇差を譲るよう命じた書状の一節。
  6. ^ 三成が奉行として行う検地への協力のために、義弘が兄の義久へ、その協力が島津家のために必要であることを説得した書状の一節。
  7. ^ 木食応其は三成と極めて親しい仲で、三成のために大津城の開城交渉にあたった人物である。これは、木食応其が三成への加担を徳川方から責められた時の発言であるので、ある程度割り引いて考える必要がある事に留意。
  8. ^ 本多博之は蔚山での秀秋の失態に史料的な裏付けはなく、また越前への転封については秀吉による筑前直轄領化構想のもと行われたとする[38]
  9. ^ 『武功雑記』にも三将に小袖が送られる逸話が載せられているが、家康が三将の体面を気に掛けるくだりが無いなど細部が異なる。

出典

  1. ^ 上田正昭ほか監修、三省堂編修所編 『コンサイス日本人名事典 第5版』 三省堂、2009年、101頁。 
  2. ^ 谷 2018, p. 41.
  3. ^ 二木謙一『関ケ原合戦-戦国の一番長い日-』中央公論社、1982年。
  4. ^ 谷徹也「総論 石田三成論」谷徹也 編『シリーズ・織豊大名の研究 第七巻 石田三成』(戎光祥出版、2018年) ISBN 978-4-86403-277-3)p46-47
  5. ^ 安井 1996, p. 19.
  6. ^ 岡山市教育委員会編 『備中高松城水攻め築堤跡 高松城水攻め築堤公園建設に伴う確認調査』、2008年、24頁http://sitereports.nabunken.go.jp/12803 
  7. ^ a b 伊藤真昭「石田三成佐和山入城の時期について」『洛北史学』4号、2003年
  8. ^ 谷 2018, pp. 12–13.
  9. ^ 渡辺世祐『佐和山城に就いて』三省堂書店、1912年。
  10. ^ 岩沢愿彦、高柳光寿博士頌寿記念会編 『戦乱と人物』 吉川弘文館、1968年。 
  11. ^ 山田貴司「加藤清正論の現在地」『シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正』戒光祥出版、2014年、24-25頁。ISBN 978-4-86403-139-4
  12. ^ 「島津家文書」二‐九七八
  13. ^ 「毛利家文書」(『大日本古文書. 家わけ八ノ三』962号文書)
  14. ^ 義演准后日記』慶長4年正月29日条
  15. ^ 「毛利家文書」(『大日本古文書. 家わけ八ノ三』1015号文書)
  16. ^ 慶長3年2月7日付細川忠興宛三奉行連署書状。本来、豊臣大名への知行加増は他の大老・奉行との合意のもと行われるものであるが、この書状には「内府公被任御一行旨」とあり、忠興の加増が家康単独で決定したものであることがわかる。慶長5年7月晦日付真田昌幸宛三成書状(『真田家文書・上巻』1981年、51号文書p53)
  17. ^ 笠谷和比古「豊臣七将の石田三成襲撃事件―歴史認識形成のメカニズムとその陥穽―」『日本研究』22集、2000年。 笠谷和比古『関ヶ原合戦と近世の国制』思文閣出版、2000年、27-46頁。
  18. ^ 布谷陽子「関ヶ原合戦の再検討ー慶長五年七月十七日前後ー」『史叢』73号、2005年。
  19. ^ 谷 2018, p. 62.
  20. ^ 宮本義己「内府(家康)東征の真相と直江状」『大日光』78号、2008年。
  21. ^ 白峰旬「フィクションとしての「問鉄砲」(パート2) 家康神話創出の一事例(その2)」『別府大学大学院紀要』2013年。
  22. ^ 今井, p. 222.
  23. ^ 跡部信「秀吉独裁の権力構造」『大阪城天守閣紀要』37号、2009年。
  24. ^ 戸谷穂高「天正・文禄期の豊臣政権における浅野長吉」『遙かなる中世』21号、2006年。
  25. ^ 小林厚太「豊臣氏五奉行についてー特に発給文書の形式を中心にー」『鴨台史学』7号、2007年。
  26. ^ 慶長3年8月5日付徳川家康宛五奉行起請文、8月8日付前田利家宛五奉行起請文、9月3日付五大老五奉行起請文、等(『武家事紀』巻第三十一、所収文書)
  27. ^ 堀越祐一「知行充行状にみる豊臣「五大老」の性格」『國學院大學紀要』48巻、2010年。
  28. ^ 森岡榮一・太田浩司「石田三成の生涯-その-出自と業績-」『石田三成-秀吉を支えた知の参謀-』(市立長浜城歴史博物館、1999年)
  29. ^ 谷 2018, p. 8.
  30. ^ 本郷和人『戦国武将の明暗』新潮社、2015年、31-32頁。
  31. ^ 谷 2018, pp. 9–30.
  32. ^ 『大日本古文書 浅野家文書』21号文書
  33. ^ 中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2016年、114頁。
  34. ^ 福岡市博物館編『黒田家文書 -本編 第1巻』 1999年、204号文書注解
  35. ^ 中野等「唐入り(文禄の役)における加藤清正の動向」『九州文化史研究所紀要』53号、2013年。
  36. ^ 早稲田大学出版部『通俗日本全史』第13巻、1913年。
  37. ^ 慶長三年一月十七日付小早川秀秋宛豊臣秀吉朱印状(黒田基樹『近世初期大名の身分秩序と文書』、2016年、320頁。
  38. ^ 本多博之「豊臣政権下の筑前」『西南地域史研究』11号、1996年。
  39. ^ 高橋博「豊臣政権の人質政策の形成過程」『戦国史研究』52号、2006年。
  40. ^ 酒井忠勝『関ケ原合戦始末記 : 実録天下分け目の決戦』坂本徳一訳〈教育社新書 原本現代訳〉、1981年。
  41. ^ 近藤瓶城編『史籍集覧』第26冊1902年、p66
  42. ^ 『明良洪範』国書刊行会1912年、p467
  43. ^ 某年10月7日付石田三成自筆書状(「廓坊文書」)
  44. ^ 谷 2018, p. 11.
  45. ^ 近藤瓶城編『続史籍集覧』第7冊1930年
  46. ^ 白川亨『石田三成とその一族』新人物往来社、1997年。
  47. ^ 市立長浜城歴史博物館編集・発行 『没後四〇〇年特別展覧会 石田三成 ─秀吉を支えた知の参謀─』 1999年10月22日
  48. ^ 市立長浜城歴史博物館編集・発行 『文化財保護五〇年記念 特別展覧会 石田三成 第二章 ─戦国を疾走した秀吉奉行─』 2000年10月27日
  49. ^ a b 福永 1993, 1巻, p. 77.
  50. ^ 現在は東京国立博物館が所蔵(重要文化財刀 無銘 正宗(名物 石田正宗) e国宝)
  51. ^ a b 松浦 1978, pp. 201–205.
  52. ^ 福永 1993, 2巻, pp. 314-315.
  53. ^ a b 福永 1993, 2巻, p. 122.
  54. ^ 武将の末裔が語る“関ヶ原の戦い”裏事情” (2019年2月10日). 2019年2月10日閲覧。
  55. ^ 妙高エリアの老舗温泉ホテルが破産 石田三成の子孫が経営”. SankeiBiz (2013年7月12日). 2020年8月8日閲覧。
  56. ^ 「石田三成×滋賀県」ポータルサイト(2018年10月6日閲覧)。
  57. ^ 長浜市観光PRキャラクター「三成くん」(2018年10月6日閲覧)。


「石田三成」の続きの解説一覧




石田三成と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

石田三成のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



石田三成のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの石田三成 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2022 GRAS Group, Inc.RSS