石田三成との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 06:42 UTC 版)
応其は高野山降伏の使者として秀吉に面会した際、同じ近江出身であった石田三成との関係も深めている。慶長4年(1599年)3月に三成は高野山奥の院に経蔵と一切経を寄進、その扁額の裏面には応其の名前があり、関わりの深さが見てとれる。その後、三成は七将に襲撃され(石田三成襲撃事件)佐和山城に隠退した。翌年正月二日、応其は豊国社に参詣に訪れ、神龍院梵舜や祝衆に贈物をし、その足で佐和山城の三成のもとへ年頭の挨拶に訪れている。そして正月七日の帰路、豊国社を再び訪れ、三成に託された金子を奉納し、高野山に帰っている(『舜旧記』)。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの直後に佐和山城の戦いが起こり落城した際、徳川家康は家康の旧臣で三成の兄石田正澄に仕えていた津田清幽の嘆願により三成の三男佐吉を助命し、清幽に命じて応其に託し出家させている。応其は津田清幽の恩義を忘れないようにと、佐吉に「深長坊清幽(せいゆう)」の坊安名を与え、甲斐国河浦山薬王寺の法弟に託したという。(『津田家譜』)。
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