石田三成を救う
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 22:46 UTC 版)
「佐竹義宣 (右京大夫)」の記事における「石田三成を救う」の解説
慶長2年(1597年)10月、佐竹氏の与力大名であり義宣の従兄弟である宇都宮国綱が改易された。これに伴い、佐竹氏も何らかの処分を受ける可能性があったが、従前から親交があった石田三成の取りなしによって、処分を免れた。10月7日の義宣から父・義重に宛てた書状では、佐竹氏にも改易命令が出されたが三成の取りなしによって免れたことや、「上洛して一刻も早く秀吉に挨拶すべきだが、宇都宮氏改易を主導した浅野長政の検使が宇都宮領の調査に向かっているので、それに覚られないように密かに上洛するように」という三成から指示を受けたことが書かれている。 慶長4年(1599年)閏3月3日、前田利家が死去したことを契機として、加藤清正、福島正則、加藤嘉明、浅野幸長、黒田長政、細川忠興、池田輝政は、石田三成の屋敷を襲撃した。この知らせを受けた義宣は、三成を女輿に乗せて脱出させ、宇喜多秀家の屋敷に逃れさせた。 この一連の動きについて、義宣の茶の湯の師匠でもあった古田重然(古田織部)は、徳川家康に釈明するよう勧めた。これに対し、義宣は、「三成は公命に背いたこともないのに、加藤清正らは三成を討とうとした。自分はかつて三成に恩を受けたから、三成の危急を見て命にかけて救っただけである。このことを家康に謝罪すべきというなら、御辺よきにはかられよ」と応えた。これを受けて、重然は細川忠興に取りなしを依頼した。家康は忠興からこの話を聞き、「義宣身命にかけて旧恩に報いたのは、義と言うべきである。異存はない」と答えた。 しかし、実際に義宣が三成の窮地を救ったことを裏付ける一次史料は存在しない。
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