石田三成襲撃事件と輝元の対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 21:24 UTC 版)
「毛利輝元」の記事における「石田三成襲撃事件と輝元の対応」の解説
慶長4年閏3月、輝元と同じ五大老の前田利家が死亡すると、福島正則、加藤清正ら七将が三成を襲撃した。三成は襲撃を逃れ、伏見城内の自邸に逃げ込んだ後、輝元と連絡を取るようになった。その間、三成は輝元に対して、大阪の喉元を抑えるため、尼崎方面に陣を構えるように要請している。 結局、この事件は三成が佐和山城で隠居することで解決したが、この処分の決定には輝元と、同じく五大老の一人・上杉景勝による調整があった。無論、輝元と景勝の両名二人で決定できるわけではなく、五大老筆頭たる家康との調整も必要であった。 同月21日、輝元は家康と起請文を交わして、そのなかで家康を兄、輝元を弟とし、事実上屈服した。だが、三成が失脚すると同時に、家康は自身と敵対する大名への勢力削減を狙い、その矛先は輝元にも向けられた。 4月、家康は三成が押し切った毛利氏所領に関する決定の見直しを行い、秀吉の遺命という大義名分を掲げ、秀元に長門及び周防の一部を分配するよう輝元に迫った。だが、輝元は自己の権力強化を目指していたため、家康の強制とはいえ、それは受け入れられないことであった。 6月、秀元には長門、周防吉敷郡、安芸、周防、備後の旧穂井田元清領が与えられ、広家の所領をそのままに、隆景の遺領は輝元に返還されることになり、輝元・秀元・広家ともにこの案を受け入れた。秀元に与えられた領地は伯耆・出雲・隠岐の三国の石高には若干及ばなかったが、秀元は父の遺領を引き継げたため納得し、毛利家中における秀元の処遇問題は解決した。 しかし、毛利氏の内部には、家康が家中の問題に介入し、それを許したという遺恨が残った。輝元自身もまた、自らを頂点とする一元的な支配体系の構築を目指してきただけあって、家中の問題を自分の思い通りにできなかったことを屈辱に感じた。そして、輝元は家康の権力増大を食い止める必要性を感じ、それが翌年の決起に繋がっていった。
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