石田三成の時代
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石田三成から、左近に仕官の要請があった時、それまでも多くの要請を断ってきた左近はやはり断るが、三成の説得により仕官を受け入れ、2万石の俸禄で召し抱えられた。これは、当時の三成の禄高4万石のうちの半分を与えられるという破格の待遇であり、『君臣禄を分かつ』の逸話として伝えられている(『常山紀談』)。もっとも、島左近が石田三成に仕えたのは、三成が佐和山19万石の城主になってからという説もあるが、それでも破格の待遇であったことには違いがない。屋敷は佐和山城下湖水寄りに与えられた。 石田三成は小姓の頃に知行500石全てを投げうって、柴田勝家や主君・豊臣秀吉が1万2,000石で召し抱えようとした豪傑・渡辺勘兵衛(渡辺了とは別人)を召し抱えており、その話を元にして左近召し抱えの逸話が作られたとの説もある。 天正18年(1590年)5月25日、三成が佐竹義宣の家臣・東義久に宛てた文書があり、義宣が秀吉に謁見する際の心構えを述べたものだが、その使者として左近が登場する(『秋田藩家蔵文書』)。 三成は天正19年(1591年)4月に佐和山城主に就任しており、翌年の『多聞院日記』には、天正20年(1592年)4月に左近の妻が「今江州サホノ城(=佐和山城)ニアリ」と書かれている。 左近が石田三成に仕えていた時代の動向はこれまで不明なことが多かったが、左近が記した書状が2通見つかった。いずれも、天正18年(1590年)7月、小田原征伐の後に書かれたもので、常陸国の戦国大名、佐竹義宣の重臣・小貫頼久と東義久に宛てており、左近は三成の下、佐竹氏との交渉で重要な役割を果たしていたことが分かる。従って、左近は少なくとも小田原征伐の頃には三成に仕えており、既に重臣クラスの立場にあったと考えられる。また、小貫宛の書状の内容から常陸国の大掾清幹の帰属についての交渉が担当者が三成および左近であったことが判明する(しかし、最終的に交渉はまとまらず、大掾氏は佐竹氏に滅ぼされることになる)。 その後、左近は三成に従って朝鮮出兵に従軍したと伝わる。 平成20年(2008年)、嶋左近の名前が掲載された石田三成判物が発見された。三成が年貢収納にあたっての年貢率については、嶋左近・山田上野・四岡帯刀に命じたので、その指示に従って年貢収納を行うよう、今井清右衛門尉に伝えた文書であり、慶長元年から慶長3年の間に出されたものと考えられる。
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