陶 隆康(すえ たかやす) ????~1551
陶隆康
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/21 00:49 UTC 版)
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 天文20年8月28日(1551年9月28日) |
別名 | 通称:三郎、与市郎、左衛門尉 号:蘭渓、道忠 |
墓所 | 山口県長門市深川湯本の大寧寺 |
官位 | 右馬允 |
主君 | 大内義興→義隆 |
氏族 | 多々良姓大内氏庶流陶氏 |
父母 | 父:右田弘詮 |
兄弟 | 隆康、興就、陶興房室(陶興昌母) |
子 | 隆弘、宇野元弘 |
陶 隆康(すえ たかやす)は、戦国時代の武将。大内氏の重臣。父は右田弘詮。子に陶隆弘、宇野元弘。
生涯
大内氏家臣・右田弘詮の子として生まれる。父同様大内氏当主の側近として活動して重用された。 永正14年(1517年)、家督を譲られる[1]。 天文11年(1542年)の月山富田城の戦いの敗北以来、主君の大内義隆は政を省みなくなり、天文20年(1551年)、武断派筆頭の陶隆房(後の陶晴賢)はついに謀反を起こし、義隆を討つべく居城の富田若山城から兵を進めた(大寧寺の変)。隆康にとって隆房は同族であり、従兄の息子で甥という関係であったが、隆康は主君を守るべく嫡男・隆弘と共に義隆に従った。
陶隆房の侵攻を伝える注進が届くと、義隆は大内氏館・築山館を出て、多少でも防戦に有利な山麓の法泉寺に退き、本堂に本陣を置いて嶽の観音堂・求聞寺山などを冷泉隆豊らが固めた。しかし、一緒に逃亡した公家たちや近習らを除けば、義隆に味方した重臣は冷泉隆豊くらいであり、兵力も2,000〜3,000人ほどしか集まらなかったため組織的な抵抗もほとんどできず、法泉寺の義隆軍は逃亡兵が相次いだことから、義隆は山口を放棄して長門国に逃亡。同年8月28日に隆康は嫡男・隆弘と共に法泉寺において殿を務め戦死した。同年に生まれたばかりの次男・鶴千代丸(後の宇野元弘)は難を逃れ、毛利元就に仕えた。
参考文献
- 『萩藩閥閲録』巻61「宇野与一右衛門」
注釈
- ^ 『萩藩閥閲録』第2巻477頁。
「陶 隆康」の例文・使い方・用例・文例
- 陶器が日に焼かれて固まってきた
- 彼女は自分の陶器のコレクションを自慢した
- 陶磁器用飾り棚
- 陶製のカップ
- その陶器には気をつけてください,壊れやすいから
- その建物の表面は陶製タイルで仕上げてある
- 彼女は陶器をかまで焼いた
- 陶器の優れた鑑定家
- 私は陶芸に熱中している
- 私はみやげ物屋で陶器を1つ買いました
- 彼は高価な陶器を戸棚にしまい込んだ
- 陶器
- 私たちは積極的に陶芸愛好家との交流の機会を設けました
- 彼が陶芸家になると1994年に宣言しました
- 鉄鉱石は通常陶器の材料として用いられる。
- これらの陶器の破片は考古学的に重要だ。
- 弟は鬱陶しいやつだ。
- 自己陶酔している場合ではない。
- この陶器は焼きが足りない。
- ここでは昔は陶器が有名でした。
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