大嘗祭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/03 02:08 UTC 版)
祭日
太陽太陰暦が用いられていたころは、11月の二の卯の日に行われていた(新嘗祭も同様)。明治6年(1873年)にグレゴリオ暦を採用して以降は新暦の11月に行うようになり[注釈 3]、大正以降の大嘗祭はそれぞれ新暦の11月14日、14日、22日、14日に行われている。
大嘗宮
大嘗祭を行う祭祀の場所を大嘗宮という。これは大嘗祭のたびごとに造営され、斎行された後は破却、奉焼されてきたが、令和の大嘗祭から初めて資材が再利用されることになった。
古来、造営場所は朝堂院の前庭であった。祭の約10日前に材木と諸材料と併せて茅を朝堂院の前庭に運び[23]、7日前に地鎮祭を行い、そこから数えて5日間で全ての殿舎を造営し、祭の3日前に竣工していた[24]。後に大嘗宮の規模は大正、昭和の大典時と同規模と企画されるも、一般建築様式の大きな変化と共に、その用材調達、また技術面でも大きな変化があるため[25]といった理由で、古来の大嘗宮のように5日間では造営できなくなったため、現在では数カ月かけて造営している。令和の大嘗宮は清水建設が9億5700万円で一般競争入札で落札し受注した。
童女が火を鑽出して国司や郡司の子弟の持つ松明に移し、その8人童男童女が松明を掲げて斎場に立ち、工人が東西21丈4尺(約65メートル)、南北15丈(約46メートル)を測って宮地とし、之を中に分け東に悠紀院、西に主基院とする[16]。そして両国の童女が木綿をつけた榊を捧げ、両院が立つ四隅と門の場所の柱の穴に立て「斎鍬」(いみくわ)で8度穿つ[26]。東西に悠紀殿・主基殿、北に廻立殿を設け[27]、それぞれの正殿は黒木造 (皮つき柱) 掘立柱、切妻造妻入り、青草茅葺きの屋根[注釈 4]、8本の鰹木と千木[28]、むしろが張られた[注釈 5]天井を有する[30]。外を柴垣で囲み、四方に小門をつける[27]。使用された木材は長野県産カラマツ(柱)、北海道産ヤチダモ(神門)、静岡県産スギ(外壁)のほか、奈良県産、京都府産など約550立方メートル[31]。
各社殿は以下の通りである。(画像について、特に明記のない場合は令和の大嘗宮のものである。)
- 悠紀殿(ゆきでん)
- 主基殿(すきでん)
- 大嘗宮の中心をなす殿舎。「悠紀殿の儀」「主基殿の儀」と、同様の祭祀を2度繰り返して行う。
- 殿内には中央に八重畳を重ねて敷き、その上に御衾(おんふすま)をかけ、御単(おんひとえ)を奉安し、御櫛、御檜扇を入れた打払筥を置く(寝座)[32]。その東隣に御座がおかれ、伊勢神宮の方向を向いている。御座と向かい合って神の食薦(けこも)を敷き、事実上の「神座」として扱われる[33]。
- 黒木造、切妻屋根、茅葺き[注釈 4]、畳表張り、千木は悠紀殿が内削ぎ、主基殿が外削ぎ。
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悠紀殿
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悠紀殿の千木(内削ぎ)
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主基殿
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主基殿の千木(外削ぎ)
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令和の大嘗祭における悠紀殿・主基殿・廻立殿の屋根は板葺きになっている(画像は主基殿の屋根)
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大正期大嘗宮の悠紀殿
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大正期大嘗宮の主基殿
- 廻立殿(かいりゅうでん)
- 悠紀殿、主基殿の北側に設けられており、祭祀に先立ち、天皇が沐浴を行う。殿内は東西二間に仕切られており、西の部分を「御所」、東の部分を「御湯殿」と呼ぶ[34]。大正以降は皇后も祭祀に列するようになったため三間に仕切るようになり、中央の部分が御所、西の部分が御湯殿となり、東の部分では皇后が斎服を着用する場となった[35]。
- 黒木造、切妻屋根、茅葺き[注釈 4]。床は竹簀と蓆。
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廻立殿
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大正期大嘗宮の廻立殿
- 雨儀御廊下(うぎおろうか)
- 儀式に際して、天皇が行き来する屋根付き廊下。
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雨儀御廊下
- 頓宮(とんぐう)
- 廻立殿のさらに北側に設けられており、天皇はまずここに入り、そこから廊下を通り廻立殿に入る[36]。
- 帳殿(ちょうでん)
- 悠紀殿、主基殿の外陣のそばにあり、祭祀の間、皇后が控える。
- 切妻屋根、板葺き
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昭和期大嘗宮の帳殿
- 小忌幄舎(おみあくしゃ)
- 祭祀の間、男性皇族が控える。
- 切妻屋根、板葺き
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悠紀殿側(東)の小忌幄舎
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主基殿側(西)の小忌幄舎
- 殿外小忌幄舎(でんがいおみあくしゃ)
- 祭祀の間、女性皇族が控える。
- 切妻屋根、板葺き
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殿外小忌幄舎(鳥居の奥の建物)
- 膳屋(かしわや)
- 神饌を調理するための建物。
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悠紀殿側(東)の膳屋
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主基殿側(西)の膳屋
- 神門(しんもん)
- 大嘗宮の東西南北に設けられた鳥居。
- 黒木造
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南神門
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西神門
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北神門
- 楽舎(がくしゃ)
- 奏楽を行う楽師がいる建物。
- 切妻屋根、板葺き
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主基殿側(西)の楽舎
- 風俗歌国栖古風幄(ふぞくうたくずのいにしえぶりのあく)
- 悠紀・主基両地方及び国栖の歌を奏する建物。
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悠紀殿側(東)の風俗歌国栖古風幄
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主基殿側(西)の風俗歌国栖古風幄
- 庭燎舎(ていりょうしゃ)
- 各神門を照らす庭火を焚いた建物。中央部の穴に薪を入れた。
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南神門傍の庭燎舎
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昭和期大嘗宮の庭燎舎で庭火を焚く火炬手
- 斎庫(さいこ)
- 悠紀・主基両地方から採れた新米を収納した建物。
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斎庫
- 幄舎(あくしゃ)
- 皇族以外の参列者が控えた場所。
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「今次大嘗宮イメージ写真」の題名の左斜め上の長い白の天幕が幄舎
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一般公開を前に、いち早く撤去して見学者の撮影スペースとなっている。
- 外周垣(がいしゅうがき)
- 大嘗宮の外側を囲む垣根。よしず垣である。
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外周垣
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外周垣(拡大)
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昭和期大嘗宮の外周垣(現在とは異なり、垣根は板垣で、門の形式は鳥居で、高さも高かった。)
- 柴垣(しばがき)
- 外周垣の内側にあるもう一つの垣根。出入口は鳥居型の神門である。
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柴垣
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柴垣(拡大)。古来からドングリを食用としてきたスダジイの枝がさしてある。
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昭和期大嘗宮の柴垣(現在とは異なり、高さが高かった。)
- 黒木灯籠(くろきとうろう)
- 大嘗宮を照らす灯籠。黒木(樹皮が付いた木)で造られた。
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黒木灯籠
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膳屋に付けられた椎の和恵
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柴垣に付けられた椎の和恵
建設中の「令和の大嘗宮」 - 2019年10月9日現在の工事状況
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大嘗宮の全体模型、奥「主基殿」手前「悠紀殿」右側「廻立殿」
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大嘗宮の全景
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左より「主基殿」「廻立殿」「悠紀殿」
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「主基殿」
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同左、詳細
一般公開(2019年11月21日 - 12月8日)された「令和の大嘗宮」
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11月21日より公開された大嘗宮に集まる見学者
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主基殿、手前は楽舎・衛門幄・庭燎舎
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背後から見た主基殿(右)と廻立殿、中央奥は庭燎舎、その奥に悠紀殿の屋根が見える
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衛門幄と南神門、奥は威儀幄、さらに殿外小忌幄舎
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悠紀殿側の小忌幄舎(右)と風俗歌国栖古風幄
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主基殿側の小忌幄舎(左)と風俗歌国栖古風幄
神饌
新穀
大嘗祭において供される神饌(しんせん)の内、稲については特に重要視される。稲を収穫する田を「斎田」(さいでん)といい、大嘗祭はこれを選定するところから始まる。
大嘗祭の祭祀は同じ所作の物が2度繰り返されることから、斎田も2か所あり、それぞれ悠紀(ゆき)・主基(すき)と呼称される。この語源は、「悠紀」は「斎紀(斎み清まる)」、「斎城(聖域)」とされ、また「主基」は「次(ユキに次ぐ)」とされる。
悠紀・主基の国を斎国(いつきのくに)という。悠紀は東から、主基は西から選ばれるのを原則とし、畿内の国(山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国の令制5か国(現在の京都府、奈良県及び大阪府))から選ばれたことは一度もなかった[注釈 6]。宇多天皇以降は近江国が悠紀、丹波国と備中国(冷泉天皇の時のみ播磨国)が交互に主基とされ、その国の中で郡を卜定した。明治以降は悠紀は概ね京都以東・以南、主基は京都以西・以北として全国から選出されるようになった。また、当時における樺太・関東州・朝鮮など外地からの献上品も、京都からの方角で悠紀・主基の区別を分けられている。大正・昭和でも京都を境界線として若干の差異があったが、平成以降は斎行場所が東京になったため東西の境界線に変更が加えられ、悠紀国は新潟県、長野県、静岡県を含む東側の18都道県、主基国は西側の29府県となった[40]。
斎田は、亀卜を用いて決定される。この儀式は斎田点定の儀(さいでんてんていのぎ)と呼ばれる。神殿にて掌典職が拝礼したあとに前庭に設営された斎舎にて斎行され、これにより都道府県が決定される[41]。平成においては、亀甲の入手が国際条約や都道府県条例により入手困難になったため手法の変更も検討されたが、剥して年月を経たものは抵触しないことから、国産のアオウミガメを入手して行われた[42]。
旧来は国・郡が決められた後現地で具体的に斎田を早急に決め、防護、警備にあたっていたが[注釈 7]、平成以降は都道府県のみ速やかに発表され、斎田については収穫の直前になって初めて公表されるようになった[44]。斎田の持ち主は大田主(おおたぬし)と呼ばれ、奉耕者として関連する祭祀に列席する。
明治以降の悠紀・主基
明治以降の悠紀・主基斎田所在地等は下表の通りである。これらの斎田所在地は、斎田に選ばれた栄誉を後世に語り継ぐために記念碑等を建てたりしている。中でも明治大嘗祭の主基斎田所在地は村名も主基村に改称したり、大正大嘗祭の悠紀斎田所在地は一連の儀式を再現した祭(六ツ美悠紀斎田お田植えまつり)を現在に伝えている。
天皇 | 大嘗祭が行われた年 | 大嘗祭が行われた場所 | 悠紀 | 主基 | ||
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旧国名 | 斎田所在地 | 旧国名 | 斎田所在地 | |||
明治天皇(第122代天皇) | 1871年(明治4年) | 東京都千代田区千代田 皇居吹上御苑 |
甲斐 | 山梨県巨摩郡上石田村 (現・甲府市上石田3丁目)[45] <大田主:山田松之丈>[46] |
安房 | 花房県長狭郡北小町村字仲ノ坪 (現・千葉県鴨川市北小町字仲ノ坪)[47] <大田主:浅野長兵衛、松本左衛門、佐久間庄輔、石井八左衛門、前田小左衛門>[48] |
大正天皇(第123代天皇) | 1915年(大正4年) | 京都府京都市上京区 京都御苑 仙洞御所 |
三河 | 愛知県碧海郡六ツ美村大字下中島字上丸ノ内 (現・岡崎市中島町字上丸ノ内)[49] <大田主:早川定之助>[50] |
讃岐 | 香川県綾歌郡山田村大字山田上 (現・綾川町山田上)[51] <大田主:岩瀬辰三郎>[50] |
昭和天皇(第124代天皇) | 1928年(昭和3年) | 京都府京都市上京区 京都御苑 仙洞御所 |
近江 | 滋賀県野洲郡三上村 (現・野洲市三上[御上神社前])[52] <大田主:粂川春治>[53] |
筑前 | 福岡県早良郡脇山村 (現・福岡市早良区脇山)[54] <大田主:石津新一郎>[53] |
上皇明仁(第125代天皇) | 1990年(平成2年) | 東京都千代田区千代田 皇居東御苑 |
羽後 | 秋田県南秋田郡五城目町大川石崎[55] <大田主:伊藤容一郎[56]> |
豊後 | 大分県玖珠郡玖珠町大字小田[57] <大田主:穴井進[58]> |
徳仁(第126代天皇) | 2019年(令和元年) | 東京都千代田区千代田 皇居東御苑 |
下野 | 栃木県塩谷郡高根沢町大谷下原[59] <大田主:石塚毅男[59]> |
丹波 | 京都府南丹市八木町氷所新東畑[59] <大田主:中川久夫[59]> |
旧来は8月下旬、抜穂使を両斎国に遣わし、斎田と斎場雑色人、造酒童女、物部人、物部女らを卜定、斎田に面した斎場に殿舎を建てていた[60]。
ここで設けられたのは神殿、神饌殿、稲実殿であり、この神殿の祭神は延喜式で「御歳神(みとしのかみ)、高御魂神(たかみむすびのかみ)、庭高日神(にわたかびのかみ)、大御食神(おおみけつかみ)、大宮売神(おおみやめかみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ)、阿須波神(あすはのかみ)、波比伎神(はびきのかみ)」(祭神八座)と定められている[61]。平成以降は斎田の決定が収穫の直前になったため、殿舎は天幕張りとせざるを得なかった[62]。
収穫前日、斎田の近くの河原において、斎田抜穂前一日大祓が行われる。抜穂使の随員が大祓の詞を読み、参列者を祓う[63]。
その翌日(9月の内の吉日)、斎田抜穂の儀を執り行う。祭神の降神に次いで抜穂使が祝詞を奏上し、その命を受けた大田主以下奉耕者が順番に斎田で稲穂を抜き取る。稲穂は抜穂使の見分を経て、最初の4束は高萱御倉に、残りは稲実殿に収められる[61]。前者は御飯(みい)、後者は黒酒(くろき)・白酒(しろき)として供される[64]。
これらの米は9月下旬、大嘗宮斎庫に納められる(悠紀主基両地方新穀供納)[65]。この殿舎を建てるに際しては、まず地鎮祭が行われ、野の神を祭って萱を刈り取り、山の神を祭って料材を伐採する。抜穂が終わると八神殿において祭典がなされる[66]。
精粟
悠紀国、主基国からそれぞれ供納されており、量はそれぞれ7.5キログラムである[67]。
庭積(にわづみ)の机代物(つくえしろもの)
全国各地の農水産物が奉納され、供される。
古例でも各地よりの農水産物の献上品が、悠紀殿前庭の帳殿に机を並べ、その上に盛り付けて奉納された。それゆえに「庭積の机代物」と称されたのである。
一例では大膳職・造酒司により、東鰒(アワビ)50斤、隠岐鰒192斤、佐渡鰒40斤、蒸海鼠(イリコ)182斤、烏賊(イカ)72斤、鮭20隻、昆布60斤、海藻36斤、橘子100蔭、搗栗5升、干柿100連、梨子5斗、大豆餅・小豆餅各60枚、酒あわせて15石2斗が供えられたという[68]。
近代の初例は明治の大嘗祭において、悠紀国に選ばれた甲斐国の名士層より、国内一円挙げて大嘗祭に奉賛するべく、土地の産物献上の申し出があったものである。この申し出が認められ、悠紀殿の儀の際に、三方に載せられた鳥、魚、介、海菜、野菜、果物等の産物が、庭積の机代物として、悠紀殿前の庭に並べられた[69]。
明治25年(1892年)に新嘗祭で各地からの産物の供納を受けるようになると大嘗祭においてもこれらの例に準ずるようになり、大正、昭和の大嘗祭では全道府県および外地の台湾、樺太、朝鮮、関東州、南洋から米1升、粟5合と特産の蔬果魚介を購入した。平成以降は米、粟に加え[注釈 8]、各地の名産品を最大5品目まで供納(宮内庁が購入)するようになった[注釈 9]。
これらの品は、東日本の物は悠紀殿、西日本の物は主基殿の前庭帳殿内の机に置かれ、平成の大嘗祭までは「神事に使ったものは埋めて自然に戻す」[71]などとして終了後にすべて埋納していたが[72]、令和の大嘗祭では食品ロスの問題などの社会情勢の変化に鑑み、食品として有効活用することが検討される[71]ことになり、大嘗祭終了後の11月18日には「庭積の机代物」や「献物」の一部を、食用として埼玉県所沢市の国立障害者リハビリテーションセンターに提供することが宮内庁から公表された[73][注釈 10]。
このほか、御贄(読み:みにえ、米以外の食物。「由加物/斎甕物(ゆかもの)」と称す)が紀伊国や阿波国から納められる[65]。
また、大嘗祭に続いて執り行われる大饗の儀では、悠紀国、主基国それぞれの県や関連団体の推薦によって選定された農林水産物15品が「献物」(けんもつ)として会場正面に陳列される。こちらは庭積みの机代物とは別枠の選定である。
神饌(名称、読み)
- 削木 けずりぎ
- 海老鰭盥槽 えびのはたふね
- 多志良加 たしらか
- 御刀子筥 おんかたなばこ
- 御巾子筥 おんたなごいばこ
- 神食薦 かみのすごも
- 御食薦 みすごも
- 御箸筥 おんはしばこ
- 御枚手筥 おんひらてばこ
- 御飯筥 おものばこ
- 鮮物筥 なまものばこ
- 干物筥 からものばこ
- 御菓子筥 おんくだものばこ
- 蚫汁漬 あわびのしる
- 海藻汁漬 めのしる
- 空盞 こうさん
- 御羹八足机 おんあつものはっそくづくえ
- 御酒八足机 みきはっそくづくえ
- 御粥八足机 おかゆはっそくづくえ
- 御直会八足机 おんなおらいはっそくづくえ
国栖の古風
国栖(くず)の古風(いにしえぶり)という歌は、応神天皇が吉野宮に行幸になった折り、国栖の人々が大御酒を醸して献上したとき歌った故事に由来すると言われている。[74]
「橿の生(ふ)に 横臼(よくす)を作り 横臼(よこす)に醸(か)める大御酒(おほみき) うまらに 聞(きこ)し以(も)ち食(お)せ まろか父(ち)」
橿(かし)の生えている所で横臼を作り、その横臼で醸した大御酒を、おいしく召し上がってください、我が父よ の意。
注釈
- ^ 斎忌(悠紀国)と次(主基国)とその卜定について史上初めて言及されるのは『日本書紀』巻第29の天武天皇5年の相嘗祭と新嘗祭に関してであるが、即位後最初の大嘗祭は天武天皇2年に既に行われている。
- ^ 新嘗祭もまた、この翌年から例年斎行されるようになる。
- ^ 旧暦のままでは新年の1月になる場合があり、新嘗祭に支障があるため。新嘗祭は、明治6年の新暦11月の卯の日であった11月23日に固定された。
- ^ a b c ただし、令和の大嘗祭では、経費削減のため正殿の屋根は板葺きにされた。
- ^ 鎌田純一は「平成の大礼での大嘗宮では内外壁、天井、床仕上材には畳表張りが用いた」と回想している[29]。
- ^ ただし、天武天皇(悠紀:播磨国・主基:丹波国)、持統天皇(悠紀:播磨国・主基:因幡国)、文武天皇(悠紀:尾張国・主基:美濃国)、聖武天皇(悠紀:備前国・主基:播磨国)の時は東西の原則は当てはまっていない[39]。
- ^ この斎田の選定を行う都合上、践祚が8月(旧暦)以降になる場合、大嘗祭は翌年に行われていた[43]。
- ^ なお、粟については一部の県が供納できず、平成の大嘗祭では35都府県、令和の大嘗祭では25都道府県にとどまった[70]。
- ^ 令和の大嘗祭における庭積の机代物の一覧については大嘗祭の儀関連資料-7.庭積の机代物(特産品の都道府県別品目) (PDF) を参照
- ^ 宮内庁によると、厚生労働省と協議の上で安全に食べられると判断した精米や大豆、干しシイタケなど29品目を週内にも国立障害者リハビリテーションセンターに提供するものの、生鮮食品など、傷む可能性があるものは従来通り埋納するという。
- ^ 白平絹で巾子(こじ)に纓(えい)を結びつけたもの。
- ^ 湯の花のようなもので、これを手に付けて流すことにより手水としたと思われる。
- ^ 悠紀国/主基国の地名を入れて詠まれた短歌に、それぞれの地域の謡を参考に作曲したもの。
- ^ a b 悠紀殿の儀に際しては悠紀国、主基殿の儀に際しては主基国のものをそれぞれ行う。
- ^ 犬の遠吠えの声。今日の能におけるシテの登場の際の掛け声に名残が残されている。
- ^ この件に関して後円融天皇の大嘗祭の記録である『永和大嘗会記』には「金銀の立派な器」を用いないのは「神代の風俗倹約」を理由に挙げているが、安江和宣は『古事記』の応神天皇の条に「天皇豊の明り聞し看す日、髪長比売に大御酒の柏を握らしめて、其の太子に賜ひき」とあることから、倹約ではなく我が国の太古からの風俗と反論し、その古い姿が今も厳然と行われていることを挙げ、大嘗祭は「わが国が世界に誇る貴重なしかも尊い最高の伝統文化なのである」と結論づけている[104]。
- ^ 2019年4月30日に放送されたNHKスペシャル『日本人と天皇』では悠紀殿での儀式の様子が再現されている。それによると、天皇は神饌を柏の葉で作られた32の皿に1時間半ほどかけて盛り付ける「親供」を行っているという。
- ^ これらの撤下神饌は、埋納される。
- ^ 忌部氏の祖の太玉命は天孫降臨に随行した神とされ、その孫の天富命は神武天皇の即位の折に鏡剣を捧持して正殿に奉安したとされている。
- ^ 「タメ」は「田部」で、両国の田部の生産にかかる物の意であるとされる。
出典
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