大嘗祭悠紀斎田とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 大嘗祭悠紀斎田の意味・解説 

大嘗祭悠紀斎田

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 02:05 UTC 版)

六ツ美悠紀斎田お田植えまつり」の記事における「大嘗祭悠紀斎田」の解説

天皇即位の礼の後に行われる大嘗祭において、儀式用い新米収穫するための田を斎田さいでん)という。斎田東日本から1か所、西日本から1か所選ばれる。この2か所は京都を境に畿内5国(山城国大和国河内国和泉国摂津国以外の国から選ばれるが、東日本斎田悠紀(ゆき)斎田呼び西日本斎田主基(すき)斎田と呼ぶ。 大正天皇即位後の1914年大正3年2月5日宮内省悠紀の国郡(くにごおり)を愛知県主基の国郡を香川県定めた愛知県県下11郡の郡長適地調査求めそれぞれの郡からあわせて11か所の候補地挙がった愛知県知事松井茂愛知県農林学校初代校長山崎延吉らによる協議結果、6か所にしぼられ同年3月4日までの間に西春日井郡北里村大字小針(現・小牧市)、中島郡稲沢町大字稲沢(現・稲沢市)、碧海郡六ツ美村大字下中島(現・岡崎市)の3か所が最終候補地とされた。 上記3か所の報告受けた宮内省および農商務省同年3月6日早川定之助の所有する六ツ美村大字下中島字上丸ノ内悠紀斎田の地に決定した。なお西日本からは香川県綾歌郡山田村大字山田上(現・綾川町)が主基斎田選ばれている。 六ツ美村ではただちに準備入り村民総出斎田地にしめ縄はりめぐらし道路普請行った。ところが同年4月11日明治天皇皇后である昭憲皇太后崩御このため即位の礼および大嘗祭1年延期された。 1915年大正4年4月23日播種たねまき)、6月5日田植えが行われる。同日御田植祭熱田神宮宮司斎主として催行された。菅笠かぶった早乙女20余名は男耕作30余名と共に斎田入り太鼓の音と田植え唄合わせて田植えをし、続いて田植え踊り踊りながら退出した。六ツ美第三尋常高等小学校(現・岡崎市立六ツ美南部小学校)の校庭では三河萬歳披露された。6月5日7日3日間で7万人あまりの人々集まったと言われている。 同年10月16日新穀1石(白米、150kg)は京都御所内の宮内省京都出張所に供納された。11月10日大正天皇即位の礼京都御所紫宸殿行われ11月14日大嘗祭悠紀殿供饌(ぐぜん)ノ儀が行われた(主基斎田大嘗祭は翌11月15日行われた)。

※この「大嘗祭悠紀斎田」の解説は、「六ツ美悠紀斎田お田植えまつり」の解説の一部です。
「大嘗祭悠紀斎田」を含む「六ツ美悠紀斎田お田植えまつり」の記事については、「六ツ美悠紀斎田お田植えまつり」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「大嘗祭悠紀斎田」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「大嘗祭悠紀斎田」の関連用語

大嘗祭悠紀斎田のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



大嘗祭悠紀斎田のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの六ツ美悠紀斎田お田植えまつり (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS