大嘗祭悠紀斎田
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「六ツ美悠紀斎田お田植えまつり」の記事における「大嘗祭悠紀斎田」の解説
天皇の即位の礼の後に行われる大嘗祭において、儀式に用いる新米を収穫するための田を斎田(さいでん)という。斎田は東日本から1か所、西日本から1か所選ばれる。この2か所は京都を境に畿内5国(山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国)以外の国から選ばれるが、東日本の斎田を悠紀(ゆき)斎田と呼び、西日本の斎田を主基(すき)斎田と呼ぶ。 大正天皇即位後の1914年(大正3年)2月5日、宮内省は悠紀の国郡(くにごおり)を愛知県、主基の国郡を香川県と定めた。愛知県は県下11郡の郡長に適地の調査を求め、それぞれの郡からあわせて11か所の候補地が挙がった。愛知県知事松井茂、愛知県立農林学校初代校長の山崎延吉らによる協議の結果、6か所にしぼられ、同年3月4日までの間に西春日井郡北里村大字小針(現・小牧市)、中島郡稲沢町大字稲沢(現・稲沢市)、碧海郡六ツ美村大字下中島(現・岡崎市)の3か所が最終候補地とされた。 上記3か所の報告を受けた宮内省および農商務省は同年3月6日、早川定之助の所有する六ツ美村大字下中島字上丸ノ内を悠紀斎田の地に決定した。なお西日本からは香川県綾歌郡山田村大字山田上(現・綾川町)が主基斎田に選ばれている。 六ツ美村ではただちに準備に入り、村民総出で斎田地にしめ縄をはりめぐらし道路の普請を行った。ところが同年4月11日、明治天皇の皇后である昭憲皇太后が崩御。このため即位の礼および大嘗祭は1年延期された。 1915年(大正4年)4月23日に播種(たねまき)、6月5日に田植えが行われる。同日の御田植祭は熱田神宮宮司を斎主として催行された。菅笠をかぶった早乙女20余名は男耕作者30余名と共に斎田に入り、太鼓の音と田植え唄に合わせて田植えをし、続いて田植え踊りを踊りながら退出した。六ツ美第三尋常高等小学校(現・岡崎市立六ツ美南部小学校)の校庭では三河萬歳が披露された。6月5日~7日の3日間で7万人あまりの人々が集まったと言われている。 同年10月16日、新穀1石(白米、150kg)は京都御所内の宮内省京都出張所に供納された。11月10日に大正天皇即位の礼が京都御所紫宸殿で行われ、11月14日に大嘗祭・悠紀殿供饌(ぐぜん)ノ儀が行われた(主基斎田の大嘗祭は翌11月15日に行われた)。
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