特筆されるレース
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「ファン・マヌエル・ファンジオ」の記事における「特筆されるレース」の解説
危機回避能力が極めて高いことで知られ、多くのドライバーを巻き添えにした複合事故から一人だけ事態を見抜いてたびたび危機を回避している。 1950年モナコグランプリ 1周目にタバココーナーで多重接触事故が発生し、リタイアしたマシン10台がコースを塞いだ。先頭のファンジオはその状況を知らないまま2周目に入ったが、事故現場のブラインドコーナー手前で減速し、もらい事故を回避した。ファンジオは観客の視線が自分ではなくコースの方を向いていることに気付き、咄嗟にコース上の危険な状況を察知したという。 1953年イタリアグランプリ モンツァ・サーキットにて最終周回の直線で先行していたアルベルト・アスカリとジュゼッペ・ファリーナは遅い車に邪魔されて2台ともクラッシュしたが、そのすぐ後ろを入っていたファンジオは一瞬で事態を見抜き、衝突を避けて優勝した。 1955年のル・マン24時間レース ピエール・ルヴェーのメルセデス・ベンツがランス・マックリンのヒーレーに追突してコースを飛び出して観客80人を死亡させる大混乱の中、そのすぐ後ろを走っていたにも関わらず、ルヴェーが手を挙げたのを見て危険を察知、マックリンのヒーレーとホーソーンのジャガー・Dタイプの間に僅かな空間を見つけその隙間を縫って間一髪でもらい事故を回避した。ファンジオのメルセデス・ベンツにはジャガーの緑色のペイントが付着していた。この大惨事によって精神的に大きなショックを受けたファンジオは、これ以後生涯一度たりともル・マン24時間レースに出走する事はなかった。 1955年イギリスグランプリ メルセデス時代、ファンジオと若きスターリング・モスは理想的な師弟関係を築いた。モスはファンジオの後衛を務め、ファンジオ-モスの順でワンツーフィニッシュを重ねたが、モスの地元イギリスグランプリだけは逆になった。レース中、モスは手で追い抜くよう合図したが、ファンジオは抜こうとせず、モスがF1初優勝を達成した。レース後、モスが譲ってくれたことに礼を述べると、ファンジオは「違うよ、君が速かったんだ」とだけ答えた。 1956年イタリアグランプリ チャンピオン決定戦となった最終戦イタリアグランプリで、ファンジオはマシントラブルに見舞われピットに戻った。当時のルールではマシンの乗換えが認められたが、ルイジ・ムッソはチームオーダーを無視した。しかしフェラーリの同僚ピーター・コリンズは自らのタイトルの権利を捨ててファンジオにマシンを譲り、ファンジオが3連覇を達成するという美談があった(当時の規定では、1台を2人のドライバーが乗り継いでゴールした場合、得点が半分ずつ得られたため)。 1957年モナコグランプリ 2周目、まだスタート直後で全車が一団となって走っている中で先頭のスターリング・モスが障壁に衝突し、続いていたマイク・ホーソーンとピーター・コリンズが避けきれずに多重衝突となり3台の車でほとんどコースが塞がった中、すぐ後ろを走っていたにも関わらずマセラティを巧みに操り危機を切り抜け優勝した。 1957年ドイツグランプリ ファンジオのレースキャリアの中でも、この年のニュルブルクリンクでのドイツグランプリはベストレースと評される。 マセラティチームは燃料再給油・タイヤ交換作戦を計画し、ファンジオは充分なリードを築いてからピットインしたが、ピット作業に手間取って首位から3位に転落した。コース復帰後もペースが上がらないのを見たフェラーリチームは、1、2位のドライバーに安全に順位をキープするためペースダウンの指示を送った。 しかし、これは逆転を狙うファンジオが仕掛けた「罠」であった。ファンジオは猛烈なペースアップを開始し、40秒近くあったフェラーリ勢との差をみるみる縮めた。全長が23km近くあるニュルブルクリンクでは1周の間に先行車との差を大きく詰めることが可能であり、かつオンボード無線機が存在しない当時、フェラーリ陣営のドライバーがファンジオの猛烈な追い上げを知る術はピットから示されるサインボードしかなかった。慌てたフェラーリ陣営は再度のペースアップを指示するも、集中力を極限まで高めたファンジオは残り2周で2台をかわし、奇跡的な逆転勝利を挙げた。 ファンジオは予選で前年のポールポジションタイムを26秒短縮していたが、レース中のファステストラップはそれよりも8秒早かった。名だたる難コースでの追走は神懸り的とも伝えられ、後に自身も「あのレースではかなりの危険を冒した」と述懐している。
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特筆されるレース
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アレジはテスト嫌いの面もあったが、スタートで一挙に順位を上げたり、バトルを見せた。またウエットレースや公道サーキットといった難しいコンディションでも魅せる走りを披露した。 1989年フランスGP デビュー戦。非力なティレルのマシンながらいきなり4位入賞を果たし、注目を浴びた。 1990年アメリカGP スタートからトップに立ち、34周目までラップリーダーであった。35周目にはマクラーレンのアイルトン・セナに一旦抜かれるも、次のコーナーで鋭く抜き返す激しいバトルを繰り広げた。その後抜かれたが、粘って2位入賞を果たした。この一戦で一気に評価が高まった。 1990年モナコGP スタートでアイルトン・セナに次ぐ2番手にジャンプアップ、非力と言われたコスワースDFRエンジンを操りゲルハルト・ベルガーらを抑え2位入賞。前述のアメリカGPの活躍もあり来年の去就が注目されるようになった。 1990年イタリアGP 赤旗再スタートを含む2回のスタートで、非力のV8エンジンにもかかわらずいずれもオープニングラップでV12エンジンを搭載した2台のフェラーリを抜き、2周目にはファステストラップを叩き出し、マクラーレンのセナやベルガーにも攻めて近づいていた(結果は、スピンによるリタイア)。 1992年スペインGP 予選8位から絶妙のスタートを決め3位に浮上。優勝の期待がかかるがシューマッハとマクラーレンに抜かれ5位に落ちる。それでもベルガーを抜き4位に浮上し、セナのリタイヤに救われ3位表彰台を獲得した。 1993年ポルトガルGP 予選6位から好スタートを決め1コーナーでトップに立つと、ピットストップ後はミカ・ハッキネンとテール・トゥー・ノーズで激しいバトルを繰り広げる。しかしベネトンとウィリアムズがピットストップで逆転。自身は4位でフィニッシュした。 1994年ドイツGP 自身最高の予選2位を獲得。ポールのベルガーと共にフロントローを独占するも決勝は0周リタイア。 1994年イタリアGP 自身初のポールポジション獲得。2位にベルガーがつけ、またもフロントロー独占。決勝ではベルガーとワン・ツー体制を築くも、ピットストップでギヤボックスを壊し無念のリタイア。 1994年日本GP ウィリアムズのマンセルと赤旗再スタート後数十周をテールトゥーノーズで最後まで争った。最終ラップでマンセルに先行されるも2ヒートでのタイム差で3位をゲット。レース後はマンセルと抱き合い健闘を称えあった。 1995年イタリアGP(英語版) ベルガーとのワンツー体制を築いていたが、レース中にアレジの412T2の車載カメラがちぎれ飛んでベルガーのフロントサスを壊してしまい、残り数周でアレジもリヤベアリングトラブルでリタイア。 1995年ヨーロッパGP(英語版) 濡れた路面をスリックタイヤでスタートし、レインタイヤ勢を出し抜き1回ピットストップでトップを守り続けるも3回ストップのシューマッハに残り4周でパスされ2位表彰台となった。 1995年日本GP スタート後フライングによるペナルティで最後尾まで後退も、雨が降り出すといち早くレインタイヤに交換・最後尾からトップのシューマッハの真後ろまで迫る走りを見せるが、ギヤボックストラブルでリタイア。 1996年モナコGP 予選3位からスタートしたが、1周目にシューマッハがリタイアしたことで2位に浮上した。その後首位のデイモン・ヒルとの差は30秒に膨らむが、40周目にヒルがエンジンブローによりリタイアし、アレジが首位となった。しかし残り15周でサスペンショントラブルによりリタイアし、リジェのオリビエ・パニスに優勝をさらわれた。 1997年イタリアGP(英語版) 自身2度目のポールポジションを記録。マクラーレンのデビッド・クルサードとワンストップの同時ピットインをするが、ピット作業で逆転され、追走するものの惜しくも2位に終わった。 1998年アルゼンチンGP ピットイン時に右のサイドウィングをエアホースに引っ掛けてしまい、破損させてしまうトラブルが発生。しかしサイドウィングを失いつつも力走し、5位入賞を果たす。 1998年オーストリアGP 予選2位から決勝で5位走行中のアレジ。2位のジャンカルロ・フィジケラが21周目、アレジのほぼ真後ろでピットアウト。フィジケラはスリップストリームでアレジのインに入り、レムスコーナでパスしようとしたが、アレジも譲らず接触し両者リタイアした。 1998年ベルギーGP スパ・フランコルシャン特有の大雨で大波乱となったが、アレジは最後まで生き残り3位表彰台を獲得。 1999年フランスGP 2位走行中にスピンしてグラベルにつかまりリタイア。このレース後不満が爆発したアレジはチームを離れることを決意した。 2000年ベルギーGP ウェットレースでスタート後、17番手であったポジションを路面が徐々に乾いていったときに一番初めに4周目でドライタイヤへの交換を行なった。そこから6,7周とファステストラップ連発で、他マシンがタイヤ交換を行なっている間に一挙に4位まで上がった。その後10周の間、ポジションをキープする走りをみせたが、32周目に燃圧の低下でその年、13戦目で9回目のリタイアに見舞われた。
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特筆されるレース
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1981年最終戦ラスベガスグランプリ ランキングトップのロイテマンと1ポイント差で迎え、予選では4位グリッド。PPを獲得したロイテマンに後塵を拝す結果となった。決勝ではロイテマンがハンドリングの不調から次々と後続に抜かれ、ピケも酷暑の中精細を欠くが、失神寸前まで体力を消耗しながら5位でゴールし、2ポイントを獲得。8位でノーポイントに終わったロイテマンを逆転し、初のチャンピオンを獲得した。同様に失格処分となった1982年のブラジルグランプリでも、表彰台上で失神するという場面があった。 1982年第8戦カナダグランプリ デトロイトGPで予選落ちを喫した1週間後のこのGPで、予選4位を獲得。決勝はリカルド・パレッティの死亡事故により赤旗中断となるが、再スタート後は順位を上げていき、9周目にトップに立った。以後は、最後までトップを守り、シーズン初勝利(結果的には唯一)を挙げた。BMWターボ・エンジンにとっては、F1初の勝利でもあった。 1982年第12戦ドイツグランプリ 2周目からトップを走行していたが、19周目に周回遅れのエリセオ・サラザールにラインをブロックされ、両者接触リタイヤとなった。この際、ピケはマシンを降りるやいなやサラザールを殴り、さらに蹴りを試みる(実際には外れている)。この一部始終は、映像として残っており、今なお話題となることも多い。ピケがここまで怒りを見せた背景には、シーズン2勝目をフイにされたこと以外に、サラザールの面倒を見たことがあったため、「恩を仇で返された」と感じたこともあると言われている。 しかしリタイヤ後にピケのマシンのエンジンを調べたところ、あるピストンのスカートが壊れかかっていた。エンジンサプライヤーであるBMWの地元ドイツグランプリでマシントラブルによってリタイヤする事態を免れたことはBMWにとって幸運であった。 1983年第12戦オランダグランプリ 開幕戦以来優勝のないピケは、堅実に入賞を重ねつつも、ランキングトップのプロストに対し14ポイントのビハインドを抱えこのグランプリを迎えた。予選ではシーズン初(結果的に唯一)のPPを獲得し、決勝でもスタートからトップを走行するが、マシンにトラブルが発生し次第にペースが落ちてゆく。一方のプロストは予選4位から追い上げ、42周目のタルザンコーナーでついにピケのインを突いた。既にトラブルを抱えていたピケは無理なブロックはせず、十分なスペースを空けていたが、ブレーキングを遅らせすぎたプロストは減速しきれず、ピケに追突しタイヤバリアへ押し出す結果となった。その場でリタイヤとなったピケに対し、プロストはフロントウイングを破損しつつも暫くはそのまま走り続けたが、結局その周のうちにスピンを喫しリタイヤとなった。 結果だけを見れば両者リタイヤであったが、既にトラブルを抱え長くは持たない状態だったピケと、好調な流れの中で無用のリタイヤを喫したプロストは失ったものの差が大きく、このグランプリを境にシーズンの流れは大きく変わることになった。 1983年第最終戦南アフリカグランプリ オランダGP後の2戦を連勝し、ランキングトップのプロストに2ポイント差で迎えたこのグランプリで、ピケは軽い燃料でスタートからトップを走行。重い燃料で3位以下を抑え込んだチームメイト・パトレーゼの援護もあり、優位なかたちでレースは進んだ。パトレーゼのピットインで前が空いた後、プロストは一気にペースを挙げるが、急なペースアップはターボトラブルを発生させ、36周目にリタイヤ。ライバルの消えたピケは、その後は極端にペースを落とし後続車に対しても無抵抗で抜かさせるなど徹底的に守りの走りを見せ、3位でゴール。4ポイントを加算し、2年前同様最終戦での逆転でチャンピオンを決めた。 1986年第11戦ハンガリーグランプリ 予選2位からスタートしたピケは、12周目にトップのセナを抜きトップに立つが、タイヤ交換の際に再び先行を許す。しかしセナはハイペースが祟ってタイヤにフラットスポットを作ってしまい、ピケが再度背後まで迫った。55周目、ピケはインからセナを差すが、大きくはらんでしまい、セナに抜き返された。57周目、今度はアウトから仕掛け、カウンターを当てドリフトしながらセナを抜いた。レースは、そのままセナを突き放したピケが優勝した。 1986年第13戦イタリアグランプリ マンセルが先行し、ピケはピットイン時にタイムをロスしたこともあって、一時は大きく差をつけられることとなる。しかし、マンセルは無理なペースからタイヤが厳しくなり、一方で余裕を持ち走行していたピケが差を詰めていく。38周目、ピケはマンセルを抜き優勝、レース全体を考えたペース配分が勝敗を分けるかたちとなった。 このGPにおいて、ピケはロングホイールベース車のほうが合うことに予選の時点で気づいていたが、あえてマンセル側には何も情報を伝えず、自身で使用したという。 1987年第2戦サンマリノグランプリ 予選中、タイヤトラブルにより、高速タンブレロ・コーナーで大クラッシュを起こす。激しい事故ながら、ピケは決勝への出場意欲を見せたが、脳震盪と診断されドクターストップがかかり、決勝を欠場。決勝日には、母国の中継の解説を務めたが、マンセルの優勝がほぼ決定的になると、露骨に不機嫌な様子を見せていた。 この事故により、ピケは長期にわたって不眠・頭痛などに悩まされ、万全ではない状態でシーズンを戦うこととなった。その体調不良もあり、速さを見せる場面が減った一方で、より堅実な走りでポイントを稼いでいくこととなった。 1987年第9戦ドイツグランプリ 決勝レース中、コクピット内の機器類の表示が全て消えてしまうトラブルが発生。メーターや燃料表示などが、一切見られない状態となったが、無線と自身の感覚でマシンを最後まで持たせ、シーズン初勝利を記録。ランキングでもトップとなり、チャンピオン獲得へと近づいていくこととなった。 1990年第15戦日本グランプリ ピケは予選6位スタートであったが、スタートを決めて、5番手スタートのティエリー・ブーツェンの前に出る。ドライバーズタイトル争いをしていたセナとプロストがスタート直後の1コーナーで接触して両者リタイヤ。替わってトップに立ったゲルハルト・ベルガーも2周目でスピンオフ。これでピケはマンセルに次ぐ2位となる。そして、26周目にマンセルがピットアウト時にドライブシャフトのトラブル発生でリタイヤすると、ピケがトップに立ちそのまま優勝。ピケにとっては1987年イタリアグランプリ以来、実に3年・51レースぶりの優勝であった。 1990年最終戦オーストラリアグランプリ ピケは予選7番手からのスタートであったが、タイヤ無交換作戦が当たって、マクラーレン・フェラーリ勢のタイヤ交換の間隙を縫う形でトップに立つ。終盤にはマンセルと激しいバトルを演じるが、トップを守り切って優勝した。レース後に、ピケが犬猿の仲であるマンセルと健闘を讃える握手を交わしたほどの、互いの力を出し尽くした攻防であった。 1991年第5戦カナダグランプリ ニューマシン・FW14の熟成が進んだウィリアムズ勢がフロントローを独占。レースはスタートから予選2位のマンセルが一貫してリード。ピケは予選7位からじわじわと順位を上げてマンセルに次ぐ2位に浮上。マンセルとは1分近い差があったが、ファイナルラップでマンセルのマシンが突如ストップし、労せずしてピケはトップに立ち優勝。なお、ピケはストップしたマンセルのマシンの横を通過する際、マンセルに手の甲を向けてピースサインをした(マンセルの母国・イギリスにおいては侮辱を表すサインであり、タブーとされている)。
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特筆されるレース
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「ミハエル・シューマッハ」の記事における「特筆されるレース」の解説
以下、しばしば特筆されるレースを挙げる。シューマッハ自身はF1デビュー20周年(2011年)のインタビューにおいて2000年日本GPをベストレースに挙げ、その他のランキングには1994年ブラジルGP、1994年スペインGP、1995年ベルギーGP、1998年ハンガリーGP、2006年ブラジルGPを挙げている。 1991年全日本F3000選手権第6戦 シューマッハは国際F3000には参戦しなかったが、1991年の全日本F3000第6戦・菅生にチーム・ルマンの3台目としてスポット参戦している。イギリスで行われたラルトのテスト時に、ラルトの開発ドライバーのデビッド・ブラバムと共にシューマッハを走らせたところ、初めてのF3000マシンにも関わらずシューマッハの方がブラバムより速かったため起用された。レイナードやローラに対してハンディのあるラルトに乗り、チームメイトのジョニー・ハーバートが予選21位に沈む中、予選で4位を獲得。決勝でも2位に入る活躍を見せた。 このレースでシューマッハから0秒4差の3位に入った中谷明彦は「後ろから見ていて、シューマッハは大した奴だと思った。ミスをしないんだよ。とてもF3000が初めてだとは思えないね」と語り、当時エディ・アーバインを擁して全日本F3000を戦っていたセルモの佐藤正幸は「優れたドライバーというのは、あらゆる点で優れている」とシューマッハの印象を語った。 当時の国際F3000以下の下級フォーミュラがバイアスタイヤを使用していたのに対し、全日本F3000はF1と同じラジアルタイヤを使っており、来日した外国人ドライバーは今までの経験と異なる感覚に、タイヤの使い方の習得に苦労を強いられていた。後にF1でともに仕事をすることになるブリヂストンの浜島裕英は、タイヤの特性を詳細に質問する彼の姿勢と、それを元に実際に短時間の練習走行でタイヤを使いこなしてしまったその才能に強い印象を受けたという。 シューマッハは全日本F3000への参戦理由について「フォーミュラでの経験が欲しかったからなんだ。特に日本を選んだ理由は、予選用タイヤの存在だ。そのフィーリングを自分の身体で覚えておきたかったからなんだ。将来への経験としてね」と語っており、実際にF1デビュー戦となった1991ベルギーGP終了後には「予選でのタイムアタックでは日本でのQタイヤの経験が役立った」と述べている。弟のラルフも1996年に日本でレースを行っていたとき、フォーミュラ・ニッポンでは同じチーム・ルマンに所属していた。 1992年第12戦ベルギーGP F1デビューを果たした地での2回目のレース。濡れた路面が乾きつつある時点でコースアウトを喫し、チームメイトのマーティン・ブランドルに先行された。そこでブランドルのリアタイヤを観察し、レインタイヤにブリスターが発生している状況を見て取ると、すかさずピットインしてスリックタイヤへ履き替えた判断が功を喫し、自身初優勝を遂げた。 1994年第5戦スペインGP レース前半、ギアトラブルにより5速以外は使用不能となる。首位の座こそウィリアムズのデイモン・ヒルに讓ったものの、残り40周以上あったレースを5速ギアだけで走りきり2位に入賞した。通常は1速を使うピットストップからの再発進も5速でストールさせることなく行っており、ドライビングテクニック、集中力、体力とその実力をあらためて評価された。シューマッハは「Cカーでの経験が役立った。異なるラインを取って、スムーズに走ることを心がけた」と語り、ロス・ブラウンは冗談交じりに「彼に6つもギアが必要なのか考えてしまうよ」とコメントした。 1995年第14戦ヨーロッパGP この年のチャンピオン争いの実質的な最終局面で、ウエットな路面で始まったレース。残り10周を切った時点でタイトルを争っていたヒルがリタイアしていたため、チャンピオン争いの帰趨はすでに見えていたが、地元レース(ニュルブルクリンク)において勝つことをあきらめず、残り3周というところで1ストップで勝負したジャン・アレジを最終コーナー手前のシケインでアウト側から抜き去り優勝をもぎ取った。 1996年第7戦スペインGP 豪雨の中でコースアウト続出、完走6台という荒れたレースとなった。シューマッハはスタートで6位と出遅れたが、他のマシンよりも4秒速いペースでトップに浮上し、最後には2位のアレジに45秒差をつけてフェラーリ移籍後の初優勝を遂げた。この年の両タイトルを獲ったウィリアムズのパトリック・ヘッドは、シーズン後に「我々のチームは今年全てのレースに勝てる車を用意したと自負している」と述べた上で「ただ、スペインGPのミハエルだけは止めようがなかったと思う」と語った。 1998年第13戦ハンガリーGP シューマッハとロス・ブラウンのコンビネーションを象徴するレース。オーバーテイクが難しいハンガロリンクでマクラーレンの2台に前を塞がれた状況を打開するため、ピットストップ回数を予定の2回から3回に変更。2回目の給油時間を短くしてマクラーレン勢の前に出ると、燃料の軽い状態で自己ベストペースを維持し、「19周で25秒のマージンを稼ぐ」というミッションを遂行して3回目の給油後もトップを守り切り、逆転優勝した。 1999年第15戦マレーシアGP 第8戦イギリスGPで脚を骨折して以来7戦ぶり、3か月ぶりのレースであったが、予選でポールポジションを獲得。決勝では3周目にポイントリーダーでチームメイトのエディ・アーバインを先行させ、自身は2位に下がり、マクラーレンの3位クルサードと4位ハッキネンの前を走行。すでにタイトル争いから脱落していたクルサードには抜かれたが、アーバインと争っていたハッキネンに対して高速コーナーで突然アクセルを戻すことをしながら、ブロックし続けた。アーバインはそのまま逃げ切り優勝し、シューマッハは2位、ハッキネンは3位であった。この活躍により、最終戦を残してアーバインはドライバーズタイトルに、フェラーリはコンストラクターズタイトルにそれぞれ王手をかけることとなった。 2000年第16戦日本GP シーズンを通して続けられたハッキネンとの対決の最終戦。予選から僅差の争いとなり、決勝ではスタートでハッキネンに先行されたが、小雨が降り出した状況で2回目のピットインを遅らせて逆転優勝。フェラーリ移籍5年目で念願のチャンピオン獲得を果たした。シューマッハはのちに「ピット戦略も含めて、最初から最後までものすごい勝負だった。他のレースとは一線を画していた」と振り返った。 2003年第6戦オーストリアGP ピットでの給油作業中、給油口付近のガソリンに引火。ピットクルーが慌てて消火剤をかけたが、シューマッハはコクピット内で動じることなく、バックミラーで消火作業を確認してから再発進して優勝した。インタビューでなぜ動揺しなかったのかと尋ねられると、「メカニックたちは普通に作業をしてくれた。コックピットから出ろという指示がないかぎり、私は走るべき立場だから」と答えた。 2004年第10戦フランスGP ルノーのフェルナンド・アロンソとのトップ争いになったが、常に先手でピットストップを行い、当時常識的な作戦とされた3回を上回る4回のピットストップを行いながらも、レースペースで圧倒して優勝を飾った。上述の1998年ハンガリーGPと並ぶ、シューマッハとブラウンのコンビによる戦略的勝利と位置づけられるレースとなった。 2006年第18戦ブラジルGP ルノーのアロンソに10ポイントのビハインドで迎えた最終戦。アロンソのチームメイトであるジャンカルロ・フィジケラと接触してパンクし最後尾に転落したが、最後まで諦めず4位まで挽回。マクラーレンのキミ・ライコネンとサイド・バイ・サイドのバトルを展開し、力の衰えという限界説を一蹴して1度目の引退レースを締めくくった。 2011年第12戦ベルギーGP デビュー20周年を迎えたメモリアルレース。予選Q1でピットアウト後タイヤが脱落してしまいバリアに激突。最後尾の24位からスタートしたが、ピット戦略が上手くいったこともあり、19台抜きという驚異的な走りで5位フィニッシュした。数々のバトルがあったためシューマッハ自身も「追い抜きを心から楽しんだ」とコメントした。
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特筆されるレース
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「ルイス・ハミルトン」の記事における「特筆されるレース」の解説
2007年カナダGP チームメイトのフェルナンド・アロンソを退けて、自身初のポールポジションを獲得。決勝は4度にわたってセーフティカーが入る荒れた展開となったが、ハミルトンはセーフティカーにより2位以下とのギャップが縮まっても、すぐにセーフティーマージンを築く安定したペースコントロールをみせ、デビュー6戦目の自身初優勝を危なげない形で飾った。 2008年イギリスGP 予選はミスの影響もあり4番手に終わった。しかし、ハーフウェットで始まった決勝のスタートで2番手に上がると、5周目のストウコーナーでヘイキ・コバライネンをかわしてトップに立った。その後、目まぐるしく変わるコンディションに対応しきれずスピン・クラッシュするマシンが続出したが、ハミルトンは大したミスなく60周のレースをまとめ、2位に1分差・4位以下を周回遅れにする圧倒的な速さで母国グランプリ初制覇を果たした。 2008年ブラジルGP 2008年の最終戦。予選は4番手で、ハーフウェットで始まった決勝レースでも順当にポジションをキープ。路面が乾いてきてドライタイヤに交換。7番手でコースに復帰する。そこからヤルノ・トゥルーリ、ジャンカルロ・フィジケラをかわして自力でチャンピオンを決められる5位まで挽回する。その後、最後のルーティンのピットインを終えて4位に浮上したが、レース終盤に再び雨が降り始めてウェットタイヤに交換。5番手でコースに復帰する。残り3周というところでセバスチャン・ベッテルにパスされて6番手に後退し、ワールドチャンピオンの権利を失ったかに見えた。しかし、最終ラップの最終コーナーでドライタイヤでステイアウトしていたグロックをパス。再び5位に浮上し、当時史上最年少のワールドチャンピオンに輝いた。 2010年中国GP 予選6番手から決勝スタート。1周目にセーフティカーが入り、雨を予想してピットイン。しかし、雨は大して降ることなく再度ドライタイヤに交換し、ほぼ最後尾まで順位を落とした。しかし、そこからファステストラップを出しながらベッテルとエイドリアン・スーティルをダブルパッシング、さらにミハエル・シューマッハとの抜きつ抜かれつの激しいバトルを制するなどして徐々にポジションを回復。さらに、レース中盤にセーフティカーが入ってからも勢いは止まらず、最終的にはトップのジェンソン・バトンに1秒差の2位でチェッカーを受けた。 2012年アメリカGP フリー走行からベッテルが圧倒的な速さを見せ、ハミルトンに対して約1秒の差をつけていた。予選では逆転は叶わなかったが、コンマ1秒差にまで迫る2番手タイムを叩き出していた。スタートではウェバーに抜かれて3番手にポジションを落とすが、すぐに抜き返して2番手を取り戻す。その後はトップのベッテルと共にファステストラップを出し合いながらも、ハミルトンはベッテルに対して1秒差を切るところまで近づきオーバーテイクのチャンスを伺う。レース終盤になると周回遅れのマシンが絡み始め、ベッテルが引っかかったタイミングを見逃さずにオーバーテイク。その後も僅差で続くベッテルに抜き返すチャンスを与えずにシーズン4勝目を飾った。2018年現在、マクラーレン在籍時の最後の優勝である。 2014年バーレーンGP 予選はロズベルグに続く2番手。しかしスタートでチームメイトのロズベルグをかわすと、ターン4までの攻防も制してトップに立つ。レースペースで勝るロズベルグが再三プレッシャーをかけてくるが、トップを守り19周目にピットイン。ソフトタイヤで復帰する。その後は、ロズベルグを突き放してこのまま勝負あったかと思われた。しかし、40周目にパストール・マルドナードとエステバン・グティエレスの接触でセーフティカーが出動。ロズベルグに対しての9秒のリードが帳消しとなった。レースは47周目から再開されると、ミディアムタイヤのハミルトンに対して、ソフトタイヤのロズベルグが襲いかかる。数周にわたって1コーナーからターン6までにかけてサイドバイサイド、テールトゥーノーズの抜きつ抜かれつの激しいバトルを繰り広げながらも、ロズベルグを抑えきってバーレーン初優勝、シーズン2勝目を飾った。 2014年アブダビGP 予選はロズベルグに逆転され2番手。決勝のスタートではキャリアベストと語るスタートでロズベルグをかわしてトップに立つ。その後、ロズベルグはマシントラブルにより後退し、代わって2番手に上がってきたウィリアムズのフェリペ・マッサがハミルトンを猛追。しかし、ハミルトンは正確なペースコントロールで寄せ付けずにシーズン11勝目を飾り、自身2度目のワールドチャンピオンを達成した。
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