特筆されるレースとは? わかりやすく解説

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特筆されるレース

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 07:09 UTC 版)

ファン・マヌエル・ファンジオ」の記事における「特筆されるレース」の解説

危機回避能力極めて高いことで知られ多くドライバー巻き添えにした複合事故から一人だけ事態見抜いてたびたび危機回避している。 1950年モナコグランプリ 1周目にタバココーナーで多重接触事故発生しリタイアしたマシン10台がコース塞いだ先頭ファンジオはその状況知らないまま2周目に入ったが、事故現場ブラインドコーナー手前減速しもらい事故回避したファンジオ観客視線自分ではなくコースの方を向いていることに気付き咄嗟にコース上の危険な状況察知したという。 1953年イタリアグランプリ モンツァ・サーキットにて最終周回直線先行していたアルベルト・アスカリジュゼッペ・ファリーナは遅い車に邪魔されて2台ともクラッシュしたが、そのすぐ後ろ入っていたファンジオ一瞬事態見抜き衝突避けて優勝した1955年のル・マン24時間レース ピエール・ルヴェーメルセデス・ベンツがランス・マックリンのヒーレー追突しコース飛び出して観客80人を死亡させる大混乱の中、そのすぐ後ろ走っていたにも関わらず、ルヴェーが手を挙げたのを見て危険を察知、マックリンのヒーレーホーソーンジャガー・Dタイプの間に僅かな空間を見つけその隙間縫って間一髪もらい事故回避したファンジオメルセデス・ベンツにはジャガー緑色ペイント付着していた。この大惨事によって精神的に大きなショック受けたファンジオは、これ以後生涯一度たりともル・マン24時間レース出走する事はなかった。 1955年イギリスグランプリ メルセデス時代ファンジオ若きスターリング・モス理想的な師弟関係築いたモスファンジオ後衛務めファンジオ-モスの順でワンツーフィニッシュ重ねたが、モス地元イギリスグランプリだけは逆になった。レース中、モスは手で追い抜くよう合図したが、ファンジオ抜こうとせず、モスがF1初優勝達成したレース後、モス譲ってくれたことに礼を述べると、ファンジオは「違うよ、君が速かったんだ」とだけ答えた1956年イタリアグランプリ チャンピオン決定戦となった最終戦イタリアグランプリで、ファンジオはマシントラブルに見舞われピット戻った当時ルールではマシン乗換え認められたが、ルイジ・ムッソチームオーダー無視した。しかしフェラーリ同僚ピーター・コリンズは自らのタイトル権利捨ててファンジオマシン譲りファンジオ3連覇達成するという美談があった(当時規定では、1台を2人ドライバー乗り継いでゴールした場合得点半分ずつ得られたため)。 1957年モナコグランプリ 2周目、まだスタート直後全車一団となって走っている中で先頭スターリング・モス障壁衝突し続いていたマイク・ホーソーンピーター・コリンズ避けきれずに多重衝突となり3台の車でほとんどコースが塞がった中、すぐ後ろ走っていたにも関わらずマセラティ巧みに操り危機切り抜け優勝した1957年ドイツグランプリ ファンジオレースキャリア中でもこの年ニュルブルクリンクでのドイツグランプリはベストレースと評される。 マセラティチームは燃料給油タイヤ交換作戦計画しファンジオ充分なリード築いてからピットインしたが、ピット作業手間取って首位から3位転落したコース復帰後もペース上がらないのを見たフェラーリチームは、1、2位のドライバー安全に順位キープするためペースダウン指示送った。 しかし、これは逆転を狙うファンジオ仕掛けた「罠」であったファンジオ猛烈なペースアップを開始し40近くあったフェラーリ勢との差をみるみる縮めた全長が23km近くあるニュルブルクリンクでは1周の間に先行車との差を大きく詰めることが可能であり、かオンボード無線機存在しない当時フェラーリ陣営ドライバーファンジオ猛烈な追い上げを知る術はピットから示されるサインボードしかなかった。慌てたフェラーリ陣営再度のペースアップを指示するも、集中力極限まで高めたファンジオ残り2周で2台をかわし、奇跡的な逆転勝利挙げたファンジオ予選前年のポールポジションタイムを26短縮していたが、レース中のファステストラップそれよりも8秒早かった名だたるコースでの追走神懸り的とも伝えられ、後に自身も「あのレースではかなりの危険を冒した」と述懐している。

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特筆されるレース

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 03:50 UTC 版)

ジャン・アレジ」の記事における「特筆されるレース」の解説

アレジテスト嫌いの面もあったが、スタート一挙に順位上げたりバトル見せた。またウエットレース公道サーキットといった難しコンディションでも魅せる走り披露した1989年フランスGP デビュー戦非力ティレルマシンながらいきなり4位入賞果たし注目浴びた1990年アメリカGP スタートからトップに立ち、34周目までラップリーダーであった35周目にはマクラーレンアイルトン・セナに一旦抜かれるも、次のコーナー鋭く抜き返す激しバトル繰り広げたその後抜かれたが、粘って2位入賞果たした。この一戦一気評価高まった1990年モナコGP スタートアイルトン・セナに次ぐ2番手にジャンプアップ非力と言われコスワースDFRエンジン操りゲルハルト・ベルガーらを抑え2位入賞前述アメリカGP活躍もあり来年去就が注目されるようになった1990年イタリアGP 赤旗スタートを含む2回のスタートで、非力のV8エンジンにもかかわらずいずれもオープニングラップでV12エンジン搭載した2台のフェラーリ抜き、2周目にはファステストラップ叩き出しマクラーレンセナベルガーにも攻めて近づいていた(結果は、スピンによるリタイア)。 1992年スペインGP 予選8位から絶妙スタート決め3位浮上優勝期待がかかるがシューマッハマクラーレン抜かれ5位に落ちる。それでもベルガー抜き4位に浮上しセナリタイヤ救われ3位表彰台獲得した1993年ポルトガルGP 予選6位から好スタート決め1コーナートップに立つと、ピットストップ後はミカ・ハッキネンテール・トゥー・ノーズ激しバトル繰り広げる。しかしベネトンウィリアムズピットストップ逆転自身は4位でフィニッシュした。 1994年ドイツGP 自身最高の予選2位獲得ポールベルガーと共にフロントロー独占する決勝は0周リタイア1994年イタリアGP 自身初のポールポジション獲得2位ベルガーがつけ、またもフロントロー独占決勝ではベルガーワン・ツー体制を築くも、ピットストップギヤボックス壊し無念リタイア1994年日本GP ウィリアムズマンセル赤旗スタート数十周をテールトゥーノーズ最後まで争った最終ラップマンセル先行されるも2ヒートでのタイム差で3位をゲットレース後はマンセル抱き合い健闘称えあった。 1995年イタリアGP英語版ベルガーとのワンツー体制築いていたが、レース中にアレジの412T2の車載カメラがちぎれ飛んでベルガーのフロントサスを壊してしまい、残り数周でアレジもリヤベアリングトラブルでリタイア1995年ヨーロッパGP英語版濡れた路面スリックタイヤスタートしレインタイヤ勢を出し抜き1回ピットストップトップ守り続けるも3回ストップシューマッハ残り4周でパスされ2位表彰台となった1995年日本GP スタートフライングによるペナルティ最後尾まで後退も、降り出すいち早くレインタイヤ交換最後尾からトップシューマッハ真後ろまで迫る走り見せるが、ギヤボックストラブルでリタイア1996年モナコGP 予選3位からスタートしたが、1周目シューマッハリタイアしたことで2位浮上したその後首位デイモン・ヒルとの差は30秒膨らむが、40周目にヒルエンジンブローによりリタイアしアレジ首位となった。しかし残り15周でサスペンショントラブルによりリタイアしリジェオリビエ・パニス優勝さらわれた1997年イタリアGP英語版自身2度目ポールポジション記録マクラーレンデビッド・クルサードワンストップ同時ピットインをするが、ピット作業逆転され追走するものの惜しくも2位終わった1998年アルゼンチンGP ピットイン時に右のサイドウィングをエアホース引っ掛けてしまい、破損させてしまうトラブル発生。しかしサイドウィングを失いつつも力走し、5位入賞を果たす。 1998年オーストリアGP 予選2位から決勝で5位走行中のアレジ2位ジャンカルロ・フィジケラ21周目、アレジのほぼ真後ろピットアウトフィジケラスリップストリームアレジイン入り、レムスコーナでパスしようとしたが、アレジも譲らず接触し両者リタイアした1998年ベルギーGP スパ・フランコルシャン特有の大雨大波乱となったが、アレジ最後まで生き残り3位表彰台獲得1999年フランスGP 2位走行中にスピンしてグラベルつかまりリタイア。このレース後不満が爆発したアレジチーム離れることを決意した2000年ベルギーGP ウェットレースでスタート後、17番であったポジション路面徐々に乾いていったときに一番初めに4周目ドライタイヤへの交換行なった。そこから6,7周とファステストラップ連発で、他マシンタイヤ交換行なっている間に一挙に4位まで上がったその後10周の間、ポジションキープする走りをみせたが、32周目に燃圧低下でその年、13戦目で9回目リタイア見舞われた。

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特筆されるレース

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 06:25 UTC 版)

ネルソン・ピケ」の記事における「特筆されるレース」の解説

1981年最終戦ラスベガスグランプリ ランキングトップのロイテマンと1ポイント差で迎え予選では4位グリッドPP獲得したロイテマンに後塵拝す結果となった決勝ではロイテマンがハンドリング不調から次々と後続抜かれピケ酷暑の中精細を欠くが、失神寸前まで体力消耗しながら5位でゴールし、2ポイント獲得。8位でノーポイントに終わったロイテマンを逆転し、初のチャンピオン獲得した同様に失格処分となった1982年ブラジルグランプリでも、表彰台上で失神するという場面があった。 1982年第8戦カナダグランプリ デトロイトGP予選落ち喫した1週間後のこのGPで、予選4位を獲得決勝リカルド・パレッティ死亡事故により赤旗中断となるが、再スタート後は順位上げていき、9周目にトップ立った以後は、最後までトップ守りシーズン勝利結果的に唯一)を挙げたBMWターボ・エンジンにとっては、F1初の勝利でもあった。 1982年第12戦ドイツグランプリ 2周目からトップ走行していたが、19周目に周回遅れエリセオ・サラザールラインブロックされ両者接触リタイヤとなったこの際ピケマシン降りるやいなやサラザール殴り、さらに蹴り試みる(実際に外れている)。この一部始終は、映像として残っており、今なお話題となることも多い。ピケここまで怒り見せた背景には、シーズン2勝目フイにされたこと以外に、サラザール面倒を見たことがあったため、「恩を仇で返された」と感じたこともあると言われている。 しかしリタイヤ後にピケマシンエンジン調べたところ、あるピストンスカート壊れかかっていた。エンジンサプライヤーであるBMW地元ドイツグランプリでマシントラブルによってリタイヤする事態免れたことはBMWにとって幸運であった1983年第12戦オランダグランプリ 開幕戦以来優勝のないピケは、堅実に入賞重ねつつも、ランキングトップのプロスト対し14ポイントビハインド抱えこのグランプリ迎えた予選ではシーズン初(結果的に唯一)のPP獲得し決勝でもスタートからトップ走行するが、マシントラブル発生し次第ペース落ちてゆく一方プロスト予選4位から追い上げ42周目のタルザンコーナーでついにピケイン突いた。既にトラブル抱えていたピケは無理なブロックはせず、十分なスペース空けていたが、ブレーキング遅らせすぎたプロスト減速しきれず、ピケ追突しタイヤバリア押し出す結果となったその場リタイヤとなったピケ対しプロストフロントウイング破損しつつも暫くそのまま走り続けたが、結局その周のうちにスピン喫しリタイヤとなった結果だけを見れば両者リタイヤであったが、既にトラブル抱え長く持たない状態だったピケと、好調な流れの中で無用のリタイヤ喫したプロスト失ったものの差が大きく、このグランプリを境にシーズンの流れ大きく変わることになった1983年第最終戦南アフリカグランプリ オランダGP後の2戦を連勝し、ランキングトップのプロストに2ポイント差で迎えたこのグランプリで、ピケは軽い燃料スタートからトップ走行。重い燃料3位以下を抑え込んだチームメイト・パトレーゼの援護もあり、優位なかたちでレース進んだ。パトレーゼのピットインで前が空いた後、プロスト一気ペース挙げるが、急なペースアップはターボトラブルを発生させ、36周目にリタイヤライバル消えたピケは、その後極端にペース落とし後続車に対して無抵抗で抜かさせるなど徹底的に守り走り見せ3位ゴール。4ポイント加算し2年前同様最終戦での逆転チャンピオン決めた1986年第11戦ハンガリーグランプリ 予選2位からスタートしたピケは、12周目にトップセナ抜きトップに立つが、タイヤ交換の際に再び先行を許す。しかしセナハイペース祟ってタイヤフラットスポット作ってしまい、ピケ再度背後まで迫った55周目、ピケインからセナを差すが、大きくはらんでしまい、セナ抜き返された。57周目、今度アウトから仕掛けカウンター当てドリフトしながらセナ抜いたレースは、そのままセナ突き放したピケ優勝した1986年第13戦イタリアグランプリ マンセル先行しピケピットイン時にタイムロスしたこともあって、一時大きく差をつけられることとなる。しかし、マンセルは無理なペースからタイヤ厳しくなり、一方で余裕持ち走行していたピケが差を詰めていく。38周目、ピケマンセル抜き優勝レース全体考えたペース配分勝敗分けるかたちとなった。 このGPにおいて、ピケロングホイールベース車のほうが合うことに予選時点気づいていたが、あえてマンセル側には何も情報伝えず自身使用したという。 1987年第2戦サンマリノグランプリ 予選中、タイヤトラブルにより、高速タンブレロ・コーナーで大クラッシュ起こす激し事故ながら、ピケ決勝への出場意欲見せたが、脳震盪診断されドクターストップがかかり、決勝欠場決勝日には、母国中継解説務めたが、マンセル優勝がほぼ決定的になると、露骨に不機嫌な様子見せていた。 この事故により、ピケ長期わたって不眠頭痛などに悩まされ万全ではない状態でシーズンを戦うこととなった。その体調不良もあり、速さ見せ場面減った一方で、より堅実な走りポイント稼いでいくこととなった1987年第9戦ドイツグランプリ 決勝レース中、コクピット内の機器類の表示全て消えてしまうトラブル発生メーター燃料表示などが、一切見られない態となったが、無線自身感覚マシン最後まで持たせシーズン勝利を記録ランキングでもトップとなり、チャンピオン獲得へと近づいていくこととなった1990年第15戦日本グランプリ ピケ予選6位スタートであったが、スタート決めて5番スタートティエリー・ブーツェン前に出る。ドライバーズタイトル争いをしていたセナプロストスタート直後の1コーナー接触して両者リタイヤ替わってトップ立ったゲルハルト・ベルガーも2周目でスピンオフ。これでピケマンセルに次ぐ2位となる。そして、26周目にマンセルピットアウト時にドライブシャフトトラブル発生リタイヤすると、ピケトップに立ちそのまま優勝ピケにとっては1987年イタリアグランプリ以来、実に3年51レースぶりの優勝であった1990年最終戦オーストラリアグランプリ ピケ予選7番手からのスタートであったが、タイヤ交換作戦当たって、マクラーレン・フェラーリ勢のタイヤ交換間隙を縫う形でトップに立つ。終盤にはマンセル激しバトル演じるが、トップ守り切って優勝したレース後に、ピケ犬猿の仲であるマンセル健闘讃える握手交わしたほどの、互いの力を出し尽くした攻防であった1991年第5戦カナダグランプリ ニューマシン・FW14熟成進んだウィリアムズ勢がフロントロー独占レーススタートから予選2位マンセル一貫してリードピケ予選7位からじわじわ順位上げてマンセルに次ぐ2位浮上マンセルとは1分近い差があったが、ファイナルラップマンセルマシン突如ストップし労せずしてピケトップに立ち優勝。なお、ピケストップしたマンセルマシンの横を通過する際、マンセル手の甲向けてピースサインをした(マンセル母国イギリスにおいては侮辱を表すサインであり、タブーとされている)。

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特筆されるレース

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 06:17 UTC 版)

ミハエル・シューマッハ」の記事における「特筆されるレース」の解説

以下、しばしば特筆されるレースを挙げるシューマッハ自身F1デビュー20周年2011年)のインタビューにおいて2000年日本GPをベストレースに挙げその他のランキングには1994年ブラジルGP1994年スペインGP1995年ベルギーGP1998年ハンガリーGP2006年ブラジルGP挙げている。 1991年全日本F3000選手権第6戦 シューマッハ国際F3000には参戦しなかったが、1991年全日本F3000第6戦・菅生チーム・ルマン3台目としてスポット参戦している。イギリス行われたラルトテスト時にラルト開発ドライバーデビッド・ブラバムと共にシューマッハ走らせたところ、初めてのF3000マシンにも関わらずシューマッハの方がブラバムより速かったため起用された。レイナードローラに対してハンディのあるラルト乗りチームメイトジョニー・ハーバート予選21位に沈む中、予選で4位を獲得決勝でも2位に入る活躍見せた。 このレースシューマッハから0秒4差の3位入った中谷明彦は「後ろから見ていて、シューマッハ大した奴だと思ったミスをしないんだよ。とてもF3000初めてだとは思えないね」と語り当時エディ・アーバイン擁して全日本F3000戦っていたセルモ佐藤正幸は「優れたドライバーというのは、あらゆる点で優れている」とシューマッハ印象語った当時国際F3000下の下フォーミュラバイアスタイヤ使用していたのに対し全日本F3000はF1と同じラジアルタイヤ使っており、来日した外国人ドライバー今まで経験異な感覚に、タイヤ使い方習得苦労強いられていた。後にF1でともに仕事をすることになるブリヂストン浜島裕英は、タイヤ特性詳細に質問する彼の姿勢と、それを元に実際に短時間練習走行タイヤ使いこなしてしまったその才能に強い印象受けたという。 シューマッハ全日本F3000への参戦理由について「フォーミュラでの経験欲しかったからなんだ。特に日本選んだ理由は、予選タイヤ存在だ。そのフィーリング自分身体覚えておきたかったからなんだ。将来への経験としてね」と語っており、実際にF1デビューとなった1991ベルギーGP終了後には「予選でのタイムアタックでは日本でのQタイヤ経験役立った」と述べている。弟のラルフ1996年日本レース行っていたとき、フォーミュラ・ニッポンでは同じチーム・ルマン所属していた。 1992年第12戦ベルギーGP F1デビュー果たした地での2回目レース濡れた路面乾きつつある時点コースアウト喫しチームメイトマーティン・ブランドル先行された。そこでブランドルリアタイヤ観察しレインタイヤブリスター発生している状況見て取ると、すかさずピットインしてスリックタイヤ履き替えた判断が功を喫し自身初優勝遂げた1994年第5戦スペインGP レース前半、ギアトラブルにより5速以外は使用不能となる。首位の座こそウィリアムズデイモン・ヒル讓ったものの、残り40周以上あったレース5速ギアだけで走りきり2位入賞した通常は1速を使うピットストップからの再発進も5速ストールさせることなく行っており、ドライビングテクニック集中力体力その実力をあらため評価された。シューマッハは「Cカーでの経験役立った異なライン取ってスムーズに走ることを心がけた」と語りロス・ブラウン冗談交じりに「彼に6つギア必要なのか考えてしまうよ」とコメントした1995年14ヨーロッパGP この年チャンピオン争い実質的な最終局面で、ウエットな路面始まったレース残り10周を切った時点タイトル争っていたヒルリタイアしていたため、チャンピオン争い帰趨はすでに見えていたが、地元レースニュルブルクリンク)において勝つことをあきらめず残り3周というところで1ストップ勝負したジャン・アレジ最終コーナー手前シケインアウト側から抜き去り優勝をもぎ取った1996年第7戦スペインGP 豪雨の中でコースアウト続出完走6台という荒れたレースとなったシューマッハスタートで6位と出遅れたが、他のマシンよりも4秒速ペーストップ浮上し最後に2位アレジ45秒差をつけてフェラーリ移籍後初優勝遂げたこの年の両タイトル獲ったウィリアムズパトリック・ヘッドは、シーズン後に「我々のチーム今年全てのレース勝てる車を用意した自負している」と述べた上で「ただ、スペインGPミハエルだけは止めようがなかったと思う」と語った1998年第13戦ハンガリーGP シューマッハロス・ブラウンコンビネーション象徴するレースオーバーテイク難しハンガロリンクマクラーレンの2台に前を塞がれ状況打開するため、ピットストップ回数予定の2回から3回変更2回目給油時間短くしてマクラーレン勢の前に出ると、燃料の軽い状態で自己ベストペースを維持し、「19周で25秒のマージンを稼ぐ」というミッション遂行して3回目給油後もトップ守り切り、逆転優勝した。 1999年15マレーシアGP 第8戦イギリスGPで脚を骨折して以来7戦ぶり、3か月ぶりのレースであったが、予選ポールポジション獲得決勝では3周目にポイントリーダーでチームメイトエディ・アーバイン先行させ、自身2位に下がり、マクラーレン3位クルサードと4位ハッキネンの前を走行。すでにタイトル争いから脱落していたクルサードには抜かれたが、アーバイン争っていたハッキネンに対して高速コーナーで突然アクセルを戻すことをしながらブロックし続けたアーバインそのまま逃げ切り優勝しシューマッハ2位ハッキネン3位であった。この活躍により、最終戦残してアーバインはドライバーズタイトルに、フェラーリはコンストラクターズタイトルにそれぞれ王手をかけることとなった2000年第16戦日本GP シーズン通して続けられハッキネンとの対決最終戦予選から僅差争いとなり、決勝ではスタートハッキネン先行されたが、小雨降り出した状況2回目ピットイン遅らせて逆転優勝フェラーリ移籍5年目念願チャンピオン獲得果たしたシューマッハはのちに「ピット戦略含めて最初から最後までものすご勝負だった。他のレースとは一線を画していた」と振り返った2003年第6戦オーストリアGP ピットでの給油作業中、給油口付近ガソリン引火ピットクルー慌てて消火剤をかけたが、シューマッハコクピット内で動じることなくバックミラー消火作業確認してから再発進して優勝したインタビューでなぜ動揺しなかったのかと尋ねられると、「メカニックたちは普通に作業をしてくれた。コックピットから出ろという指示がないかぎり、私は走るべき立場だから」と答えた2004年第10戦フランスGP ルノーフェルナンド・アロンソとのトップ争いになったが、常に先手ピットストップ行い当時常識的な作戦とされた3回上回る4回のピットストップ行いながらも、レースペースで圧倒して優勝飾った上述1998年ハンガリーGPと並ぶ、シューマッハブラウンコンビによる戦略的勝利位置づけられるレースとなった2006年18ブラジルGP ルノーアロンソ10ポイントビハインド迎えた最終戦アロンソチームメイトであるジャンカルロ・フィジケラ接触してパンクし最後尾転落したが、最後まで諦めず4位まで挽回マクラーレンキミ・ライコネンサイド・バイ・サイドバトル展開し、力の衰えという限界説一蹴し1度目の引退レース締めくくった2011年第12戦ベルギーGP デビュー20周年迎えたメモリアルレース。予選Q1ピットアウトタイヤ脱落してしまいバリア激突最後尾24位からスタートしたが、ピット戦略上手くいったこともあり、19抜きという驚異的な走りで5位フィニッシュした。数々バトルがあったためシューマッハ自身も「追い抜き心から楽しんだ」とコメントした

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特筆されるレース

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 10:02 UTC 版)

ルイス・ハミルトン」の記事における「特筆されるレース」の解説

2007年カナダGP チームメイトフェルナンド・アロンソ退けて自身初のポールポジション獲得決勝4度わたってセーフティカーが入る荒れた展開となったが、ハミルトンセーフティカーにより2位以下とのギャップ縮まっても、すぐにセーフティーマージンを築く安定したペースコントロールをみせ、デビュー6戦目の自身初優勝危なげない形で飾った2008年イギリスGP 予選ミス影響もあり4番手に終わった。しかし、ハーフウェットで始まった決勝スタート2番手に上がると、5周目のストウコーナーでヘイキ・コバライネンかわしてトップ立ったその後目まぐるしく変わるコンディション対応しきれずスピン・クラッシュするマシン続出したが、ハミルトン大したミスなく60周のレースをまとめ、2位に1分差・4位以下を周回遅れにする圧倒的な速さ母国グランプリ制覇果たした2008年ブラジルGP 2008年最終戦予選4番手で、ハーフウェットで始まった決勝レースでも順当にポジションキープ路面乾いてきてドライタイヤ交換7番手でコース復帰する。そこからヤルノ・トゥルーリジャンカルロ・フィジケラかわして自力チャンピオン決められる5位まで挽回するその後最後ルーティンピットイン終えて4位に浮上したが、レース終盤に再び降り始めてウェットタイヤに交換5番手でコース復帰する残り3周というところでセバスチャン・ベッテルパスされて6番手後退しワールドチャンピオン権利失ったかに見えた。しかし、最終ラップ最終コーナードライタイヤステイアウトしていたグロックパス。再び5位に浮上し当時史上最年少ワールドチャンピオン輝いた2010年中国GP 予選6番手から決勝スタート1周目セーフティカー入り予想してピットイン。しかし、大して降ることなく再度ドライタイヤ交換し、ほぼ最後尾まで順位落とした。しかし、そこからファステストラップ出しながらベッテルエイドリアン・スーティルをダブルパッシング、さらにミハエル・シューマッハとの抜きつ抜かれつ激しバトル制するなどして徐々にポジション回復。さらに、レース中盤セーフティカー入ってからも勢い止まらず最終的にトップジェンソン・バトンに1秒差の2位チェッカー受けた2012年アメリカGP フリー走行からベッテル圧倒的な速さ見せハミルトンに対して約1秒の差をつけていた。予選では逆転は叶わなかったが、コンマ1秒差にまで迫る2番タイム叩き出していた。スタートではウェバー抜かれ3番手にポジションを落とすが、すぐに抜き返して2番手を取り戻す。その後トップベッテルと共にファステストラップ出し合いながらも、ハミルトンベッテルに対して1秒差を切るところまで近づきオーバーテイクチャンスを伺う。レース終盤になると周回遅れマシン絡み始めベッテル引っかかったタイミングを見逃さずオーバーテイクその後僅差で続くベッテル抜き返すチャンス与えずシーズン4勝目飾った2018年現在マクラーレン在籍時の最後優勝である。 2014年バーレーンGP 予選ロズベルグに続く2番手。しかしスタートチームメイトロズベルグをかわすと、ターン4までの攻防制してトップに立つ。レースペースで勝るロズベルグ再三プレッシャーをかけてくるが、トップ守り19周目にピットイン。ソフトタイヤで復帰するその後は、ロズベルグ突き放してこのまま勝負あったか思われた。しかし、40周目にパストール・マルドナードエステバン・グティエレス接触セーフティカー出動ロズベルグに対しての9秒のリード帳消しとなったレース47周目から再開されると、ミディアムタイヤのハミルトンに対して、ソフトタイヤのロズベルグ襲いかかる。数周にわたって1コーナーからターン6までにかけてサイドバイサイドテールトゥーノーズ抜きつ抜かれつ激しバトル繰り広げながらも、ロズベルグ抑えきってバーレーン初優勝シーズン2勝目飾った2014年アブダビGP 予選ロズベルグ逆転され2番手。決勝スタートではキャリアベストと語るスタートロズベルグかわしてトップに立つ。その後ロズベルグはマシントラブルにより後退し、代わって2番手に上がってきたウィリアムズフェリペ・マッサハミルトン猛追。しかし、ハミルトン正確なペースコントロールで寄せ付けずシーズン11勝目飾り自身2度目ワールドチャンピオン達成した

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