特筆されるもしくは物議を醸したグランプリ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 06:32 UTC 版)
「リカルド・パトレーゼ」の記事における「特筆されるもしくは物議を醸したグランプリ」の解説
1978年第14戦イタリアグランプリ スタート直後に多重クラッシュが発生し、当時のスタードライバーだったロニー・ピーターソンが死亡した。血気盛んだったパトレーゼの進路変更がクラッシュの原因だったとしてパトレーゼは大きな批判を浴びた。このためパトレーゼはイタリアグランプリの次戦・アメリカ東グランプリの出場停止処分を受けている。 実際には全車が停止する前にスターターがスタートランプを点灯させたため、勢いがついたままスタートした後方集団がパトレーゼを押し出す形になったのが事故の原因と確認されたことや、雑誌に掲載された写真を分析した結果、パトレーゼが進路変更しようとしているときにはすでに完全にジェームス・ハントの前に出ており、十分なスペースがそこにあったことが判明したことで、後日パトレーゼの名誉は回復されている。 ピーターソンのマシンに直接接触したハントは、引退後BBCのテレビ解説の席においてパトレーゼを酷評し続けた。奇しくもハントが死去した1993年はパトレーゼにとって現役最後の年でもあった。 1981年第5戦ベルギーグランプリ 金曜日予選前のプラクティスにて、オゼッラのメカニックがカルロス・ロイテマンのマシンに撥ねられる事故が発生(メカニックは翌週に死亡)。また、予備予選の実施を訴えていたグランプリ・ドライバーズ・アソシエーション (GPDA) の訴えが認められなかったため、ドライバーがグリッド上で抗議を行い、スタート時間が遅れる結果となった。 その後、フォーメーション・ラップも終了し、ようやくスタートという際、4番グリッドにいたパトレーゼのマシンがエンジンストール。すぐに手を挙げ周囲に知らせ、メカニックもマシンに駆け寄ったが、シグナルはそのまま青に変わりレースは開始された。後方のドライバーの多くは、ぎりぎりで避けていったが、チームメイトのジークフリート・ストールは避けきれず、マシン後方部にいたメカニックもろとも巻き込む形で接触してしまった。 結果的に高速で追突されたうえに、マシン間に挟まれる形で衝撃を受け止めたメカニックは、一命は取り留めたものの、両足複雑骨折の重傷を負った。この事故でレースは中断され、後に再スタートとなったが、それも雨により全周消化前に打ち切られている。 1982年第6戦モナコグランプリ 初優勝となったこのレースは、F1史の中でも有数のサバイバルレースと言われている。まず残り3周までトップを独走していたアラン・プロストが、周回遅れのマシンを追い抜こうとして体勢を乱してクラッシュしリタイア。さらに、それによりトップとなったパトレーゼ自身も、残り2周のロウズ・ヘアピンでスピンし順位を下げることとなった。 そしてファイナルラップでは、ディディエ・ピローニのフェラーリとアンドレア・デ・チェザリスのアルファロメオがガス欠で止まり、最終的にはパトレーゼが再び首位に立ち優勝となった。 このように状況が錯綜したため、レース終了直後は誰が勝者なのかが確認しにくくなった。パトレーゼ本人もチェッカーフラッグを受けた後にピローニを拾ってピットに戻って来るまで、自分が勝利したことを知らなかったと語っている。 1982年第13戦オーストリアグランプリ 予選ではピケがPP、パトレーゼが2番とブラバム勢がフロントローを独占した。決勝でも、途中での燃料補給を前提に、ハーフタンクでスタートした2台は、序盤から3位以下を大きく引き離し1-2体制を維持した。2周目にトップに浮上したパトレーゼは、ハイペースで飛ばし続け、8位のニキ・ラウダまでを周回遅れとし、先にピット作業を行ったピケに代わり2位となったプロストを30秒以上突き離した状態で、22周目にピット・イン。燃料補給・タイヤ交換を終え、トップのままレースに復帰した。 しかし28周目、エンジントラブルからマシンがオイルを吹き、そのオイルに乗ってスピン。激しくコースアウトしリタイヤ、シーズン2勝目はならなかった。 1983年第4戦サンマリノグランプリ 6周目からトップを守っていたパトレーゼだが、ピットインの際に通常のラインを越えて停止してしまいタイムロス、この間にフェラーリのパトリック・タンベイが先行した。その後は猛追を見せ、残り6周となった55周目には再び首位を奪い返したが、その周のうちにクラッシュを喫しストップ、優勝を逃す結果となった。 パトレーゼにとっては母国GPであったが、クラッシュの際にあがったのは、フランス人のタンベイがドライブするフェラーリがトップに立った事への大歓声だった。この出来事はパトレーゼに大きなショックを与え、後に「イタリア人には地元GPはない(国民はイタリア人ではなく、何人が乗っていようとフェラーリを応援するため)」との発言も残している。 1983年最終戦南アフリカグランプリ チームのエースである、ピケの逆転チャンプが掛かる状況の中、ピケが2位グリッド、パトレーゼは3位グリッドからのスタート。決勝ではPPのタンベイを2人ともがスタートで1-2体制を序盤から構成し、逆転チャンプ獲得に有利な状況を作り出した。燃料を多く積み2位を走るパトレーゼは、3位以下を完全に抑え込み、少ない燃料で逃げるトップのピケを、セカンドドライバーとして援護した。その後、ランキング首位のプロストがトラブルによりリタイヤ、無理をする必要の無くなったピケから首位を譲られ、自身2勝目を挙げた。 1989年第10戦ハンガリーグランプリ 予選で1983年第13戦イタリアグランプリ以来、92戦・6年ぶりとなるPPを獲得。決勝でもスタートからトップを走り、終盤まで2位以下を抑えていたが、水漏れトラブルにより53周目のホームストレートで、急激にペースが落ち次々後退。結局リタイヤに終わり、久々の優勝はならなかった。 1990年第3戦サンマリノグランプリ PPから逃げトップを走っていたセナが、4周目にホイールトラブルで早くもリタイヤ。その後トップに立った同僚のティエリー・ブーツェンは、ピットイン時のミスで後退、その後はマクラーレンのゲルハルト・ベルガーが終盤までトップを走行していた。しかしマシンバランスの悪さから次第にペースが上がらなくなり、パトレーゼが差を詰めていく。51周目、最終シケインでベルガーを差しそのままトップでチェッカーを受け、99戦・7年ぶりの勝利を地元で手にした。 7年前の同じサンマリノグランプリでの経験から、この際に観客が自分を応援し、大歓声を送ってくれたことが非常に嬉しかったという。 1991年第3戦サンマリノグランプリ 予選でセナに続く2番グリッドを獲得。決勝日はレース直前に土砂降りの雨が降り出したが、この際にセナは晴れ用セッティング、パトレーゼは雨用セッティングを採用した。迎えた決勝レースでは、パトレーゼは完璧なスタートを見せセナに先行、一時は5秒以上のマージンを築いたが、徐々に雨脚が止むと、晴れ用セッティングを採用したセナが有利な状況となった。 また、パトレーゼのマシンにエンジンのミスファイアが発生し、9周目にはセナがすぐ背後にまで迫っていた。状況を打破する為、セナに先立ってピットへ入るが、前述のミスファイアにより大きく後退、一度は復帰するも電気系トラブルにより、17周目にリタイヤ。イモラ2連覇はならなかった。 1991年第6戦メキシコグランプリ 現地で酷い食中毒に見舞われ、体力を消耗したパトレーゼは、金曜・土曜のセッションでの走行を減らし、日曜の決勝に備えた。そのような状態ながらも、予選でPPを獲得するが、決勝ではスタートに失敗し、一旦4位にまで後退する。しかしアレジ、セナを抜き2位までポジションを回復すると、14周目にはトップであり、チームのファーストドライバーであるマンセルのすぐ背後にまで迫った。 セカンドドライバーではあるものの、チームオーダーのない状況であった為、パトレーゼは15周目にマンセルに仕掛け、ホイールをぶつけ合う激しいバトルの末、トップを奪取。その後はトップを維持し、終盤にはマンセルに猛追されたものの、そのまま自身初のポール・トゥー・ウィンを達成した。 1991年第13戦ポルトガルグランプリ 予選で7戦ぶりにPPを獲得。決勝でもスタートを決めてトップを維持するが、タイトル争いの最中だったマンセルに協力し、18周目には先行させた。しかしマンセルは30周目のピットイン時、ホイール・ナットを締め忘れたまま発進させるという、クルーのミスにより大きく後退した(その後、ピットレーン上でタイヤ交換を行ったことを理由に失格)。 再びトップに戻ったパトレーゼは、その後独走でレースを進め、2位のセナに20秒差をつけシーズン2勝目を記録。チームの混乱を最低限に留めた。 1992年第8戦フランスグランプリ 予選2位からスタートを決めマンセルに先行、その後はペースで勝るマンセルが再三仕掛けるが、パトレーゼも譲らない。2人が激しいバトルを続ける中、突然の雨を理由に18周目に赤旗が提示され、一旦レースは中断された。 その後、2ヒート制とし再スタートしたが、中断前までバトルを行っていたウィリアムズ勢は、パトレーゼがあっさりマンセルを先行させ、以後そのままの順位でレースが終了した。 中断前と再開後であまりにパトレーゼの反応が違っていた為、レース終了後に「マンセル優先のチームオーダーが出されたのではないか」との推測が飛び交った。当時のパトレーゼは「ノーコメント」を貫いたが、後年「マンセルを先行させるように指示があった」と明かしている。 1992年第10戦ドイツグランプリ 2位を走行していたパトレーゼだが、タイヤ交換により一旦4位まで後退。その後3位のシューマッハを、激しいバトルの末32周目に攻略し、残り5周となった42周目には2位セナの背後に迫る。しかし、セナを抜こうと再三仕掛けるものの抜くことは出来ず、ファイナルラップで高速セッションの終わりでラインを外してまたも仕掛けるが、オーバースピードでスピンアウト。ホイールスピン状態でコースに戻れず、8位完走扱いとなった。 1992年第14戦ポルトガルグランプリ 2位を走行しながら、ピットでタイヤ交換中にリアジャッキが折れるアクシデントで大きくタイムロスし4位に後退したパトレーゼは、3位のベルガーを追走していた。 43周目、最終コーナーを立ち上がったところで、ベルガーはタイヤ交換のためピットに向かおうとしてスピードを緩めた。しかし、パトレーゼはそれに気付かずスリップストリームに入っていたため、回避する間もなくベルガー車の左リアタイアに追突、マシンはノーズを上にして宙に浮かび上がり、ホームストレートに落下するとピットウォールを擦りながら滑走した。 パトレーゼはただちにマシンから脱出したが、仮にマシンが逆さまに落下していれば生命が危ぶまれ、或いはマシンがピットウォールを飛び越えてピットレーンへ突っ込んでいれば大惨事に至りかねなかったほどの衝撃的なクラッシュであった。 リタイア後、レース終盤にパドックに姿を見せたパトレーゼは、報道陣に対してベルガーを手厳しく批判、声を荒らげながら「殺人行為だ」と言い切った。 1992年第15戦日本グランプリ 2番グリッドからスタートし、決勝でもマンセルに次ぐ2位を走行していたが、35周目にマンセルに譲られ首位に浮上。その後、マンセルがエンジントラブルでリタイヤしたが、パトレーゼはトラブルに見舞われることなく、そのままトップでチェッカーを受けた。 マンセルが当時の年間最多勝利数を更新するなど、シーズンを通し圧倒的な強さを見せる一方、マシンの開発に貢献しながらも、ここまで勝ち星のなかったパトレーゼにとっては、ようやくのシーズン初勝利となり、またこの優勝が、結果的に自身最後のF1優勝ともなった。
※この「特筆されるもしくは物議を醸したグランプリ」の解説は、「リカルド・パトレーゼ」の解説の一部です。
「特筆されるもしくは物議を醸したグランプリ」を含む「リカルド・パトレーゼ」の記事については、「リカルド・パトレーゼ」の概要を参照ください。
- 特筆されるもしくは物議を醸したグランプリのページへのリンク