限界説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 00:11 UTC 版)
憲法の根本原理を改正の限界とする。芦部信喜 は、学説は主に限界説と無限界説に分かれるが、法的な限界が存在するとする学説が通説であり、かつそれが妥当と主張する。 法実証主義的限界説は、憲法の改正権は憲法によって与えられる以上、制定権による根本的決断たる憲法を変更する能力を持たず、改正に限界があると説明する。 自然法論的限界説は、実定憲法には自然法が上位し、憲法をも含めての全実定法の効力の有無は自然法への適合・不適合によって決せられるとするならば、改正規定による憲法改正においても自然法上の制約があるとして、改正に限界があると説明する。かかる見解によれば、自然法に反するような憲法の変革は「あらわな事実力による破壊であって」憲法の制定としても認めることはできず、正当性を主張できないとする。芦部信喜は、「民主主義に基づく憲法は、国民の憲法制定権力(制憲権)によって制定される法」と説く。従って、憲法改正の権能は制憲権に由来するものであるから、「自己の存立の基盤とも言うべき制憲権の所在(国民主権)を変更することは、いわば自殺行為であって理論的に許されない」としている。憲法第96条は、「国民の制憲権の思想を端的に具体化したものであり、これを廃止することは国民主権の原理をゆるがす意味をもつので、改正は許されないと一般に考えられている」と言及している。 また、憲法改正の発議を委ねられている国会の構成員たる国会議員は、日本国憲法第99条によって「憲法尊重擁護義務」を負うところ、現憲法を否定するような改正を認めれば明らかな背理となり、よって憲法は現憲法を否定する変更を「改正」としては予定していないとする。浦部法穂は「そもそも平時に新憲法の制定をおこなう国はない」と主張している。 限界説を前提とした憲法第96条の改正限界について、清宮四郎は、「例えば、国会の発議について両議院対等の原則を変更して衆議院の優位を認め、または、発議について特別の憲法会議を設けたり、あるいは、国会の議決における「硬性」の度合いをいくぶん変更したりする程度」の改正は許容される、とする。 限界説に対しては、「改正に限界があるとすれば、天皇主権から国民主権への改正によって成立した日本国憲法は改正の限界を超えたものである」という批判(福田恆存)や、大日本帝国憲法発布の際の勅語にも「現在及将来の臣民は此の憲法に対し永遠に従順の義務を負ふへし」(原文旧字カタカナ)という文言があるため上記の憲法尊重擁護義務を根拠とした限界は認められないとする批判がある。これに対し限界説は、八月革命説を用いて反論している。すなわち、ポツダム宣言の受諾により法的には一種の革命があったものと捉え、大日本帝国憲法と日本国憲法との連続性を否定することで、上記の批判を失当とする。
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