事件のあらまし
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「南幌町家族殺害事件」の記事における「事件のあらまし」の解説
2014年10月1日深夜1時、地元の薬局に勤める長女が帰宅した際に、1階の寝室で母親が、2階の寝室で母方の祖母が寝間着姿のまま死亡しているのを発見した。母親は喉仏から頸動脈まで切り裂かれ、祖母は頭と胸を中心に7か所刺され、二人とも失血性ショック死だった。警察の事情聴取に対し、三女は「寝ていたのでわからない」と答えたが、のちに犯行を認めた。凶器は台所の包丁で、軍手や衣類とともに、自宅から5km離れた公園内の小川で発見された。この証拠隠滅には姉も関わっていた。 2015年1月、三女は札幌家庭裁判所で責任能力を認めた上で被害者による虐待が動機に影響しているとされて、医療少年院送致とする保護処分を決定した。 長女はのちに睡眠導入剤や手袋を用意して殺人の手助けをしたとして殺人幇助で在宅起訴された。
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事件のあらまし
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1929年8月15日、ユダヤ教の断食の儀式、ティシュアー・ベ=アーブの最中に、ベタルに所属する青年数百名が嘆きの壁に集まった。エレミア・ハルパーン (Jeremiah Halpern)の指揮のもと、彼らは「壁は我々のものだ!」と叫び、現在イスラエルの国旗となっているシオニスト運動の旗を掲げ、後にイスラエルの国歌となるシオニズムの賛美歌を歌った。イギリス植民地統治政府は、行進について事前に報告を受け、紛争が起きないよう警察に厳重な護衛をさせた。ベタルの青年達が地元のアラブ住民を攻撃したり預言者ムハンマドの名前を汚したという噂が広がった。 翌日8月16日の金曜日(ムスリムの集団礼拝日)、扇動的な説教を聞いた後、当時のイギリス統治下においてイスラム社会の最高監督機関であったイスラム最高評議会によってデモ隊が結成された。デモは嘆きの壁まで行進し、ユダヤ教の祈りの書や、壁の隙間にはさまれていた願いごとの紙を燃やした。 ユダヤ人の抗議に対して、総督代理であったイギリス人のハリー・ルーク (Harry Luke)は「ページが燃やされただけで祈りの書全部が燃やされたわけではない。」と答えるのみであった。暴動は続き、次の日にはブハラ・ユダヤ人の住む地域でユダヤ人のエイブラハム・ムズハリが殺され、その葬儀は政治的なデモにまでなった。 8月20日にハガナーのリーダー達がヘブロンに住む600人の古いイッシューブ達(シオニズム運動が始まる1882年以前から住んでいる者)に護衛やヘブロンからの退去支援を申し出た。しかし、ヘブロン・コミュニティーのリーダー達は、アラブの名士(A’yan)たちが保護してくれると信じているとして、ハガナの申し出を断った。次の金曜日の8月23日、2人のアラブ人が殺されたという噂に煽られたアラブ人達は、エルサレムの旧市街を攻撃し始めた。暴力はすぐにパレスチナの他地域にも広がっていった。ヘブロン虐殺(英語版)は最も被害が大きく、ユダヤ人約65人が殺害され、58人が怪我を負い、女性は強姦された。 パレスチナ全体で、イギリス植民地政府には、たった292人の警察官、100人に満たない兵士、6台の戦車と5機ないしは6機の飛行機しかなかった。8月24日までにエルサレムでは17人のユダヤ人が殺された。そのほかにツファット、モサ (Moza)、クファル・ウリア (Kfar Uriya)、テルアビブでも殺害された。暴動のあった一週間で、ユダヤ人は合計133人が殺害され339人が負傷した(大部分がアラブ人による殺傷)。アラブ人は合計116人が殺害され232人が負傷した(大部分はイギリス植民地警察・植民地兵による殺傷)。
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事件のあらまし
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慶応元年2月尊王派の同志を募るために作州路(現・山陽道の一部)を遊説中の岡元太郎 (岡山藩)、井原応輔 (土佐藩)、島浪間 (土佐藩)、千屋金策 (土佐藩)の勤皇の志士を大勢の村民がリンチにして惨殺した事件。 第一次長州征伐の後、 大阪城を攻略する目的で作州路において同志を募る旅に出た四人の志士が久米郡吉岡村(現・美咲町久木)の慈教院の住職の紹介状を持参して勝田郡百々村(現・久米郡美咲町百々)の造り酒屋の池上文左衛門を訪れた。井原はかつて池上家の若い者に剣術を教えたこともあり、文左衛門に勤王の志を説いて金策の協力を願い出ることにした。井原応輔、島浪間、千屋金策が文左衛門に活動資金の融資を求めるが文左衛門は金の無心のために勤王を口実にしているにすぎないと四士を強請り呼ばわりし侮辱した。激怒した四士は刀を抜いて文左衛門を追ったが逃げられ、代わりに文左衛門の妻と番頭が金銭を差し出して詫びたのでいったん事は納まったが、四士が立ち去った後、文左衛門と息子輝道は自らが謝罪として金銀を渡したのにも関わらず四士を役人に対して強盗として訴えた。これに対して猟銃や農具を手にした村人たちが四人の志士を強盗と見なし追い詰め、彼らの弁明に全く耳を貸さず、四士を死に追いやり、遺体を陵辱した事件である。当時浪人を捕えると報奨金がもらえたこともあり、執拗に襲撃したとも言われる。 四士は英田郡土居(現・美作市土居)の宿場の勤皇の庄屋・安東正虎宅に逃れようとしたが村民は竹槍でもって彼らを追撃した。四士は途中竹田神社(美作市竹田1826)に祈願したのち、土居に向かった。土居宿は幕府の天領であるため、追ってくる農民から逃げおおせたとしてもその関門を通らなければならない。強盗の浪人者が土居に向かっているという報を受けた関門の番卒は四士の話を聞かず捕えようとしたため、岡が斬り捨てたのち、岡はその責任をとって街道の松ノ木の根元で切腹、それを追って井原と島は刺し違えた、と彼らと同じ土佐勤王党側である田中光顕は記している。井原は急所を外れ半日もがき苦しみ介錯を懇願したが、土井村の医師福田静斎以外誰も介抱する者はなかったとされる。 千屋は宿場へ入り、土居村の町方総代武藤太平に対して自分たちへの誤解を晴らそうと試みたが適わず、旅宿の泉屋で遺書を認め自刃せざるを得なかった。彼らの死後、村民は鳶口で遺体を散々に切り刻み陵辱の限りを尽くし、彼らの遺骸は数日間捨て置かれた。その後、遺書などにより真相が明らかにされ、世間で住民の残虐性と無慈悲さへの批判が巻き起こった。当時「西に百々の酒屋がなけりゃ、若い侍殺しゃせぬ」との俗謡が流行ったとされる。 これに対し村民は塚を建てることで反省と犠牲者への哀悼を世間に示し、自分たちに向けられた批判を躱そうとした。
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1993年(平成5年)6月28日と7月2日の2回にわたって、亀戸の教団新東京総本部(宗教法人登記上の主たる事務所でもある)付近において、ヌカミソのような強烈な悪臭が漂った。 住民たちは異臭の発生源である教団新東京総本部に抗議した。教団は「儀式に使う薬品の調合に失敗した」と言い訳し、今後はこういうことはしないと約束した。
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事件のあらまし
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「宮崎県資産家拉致事件」の記事における「事件のあらまし」の解説
被害者の旅館経営者には五人の娘がいた(長女は入信せず、次女は乳児で死亡、三女・四女・五女がオウム真理教の信者であった。内五女はオウム真理教をいち早く脱会していた)。オウム真理教は、三女と四女が信者である小林市在住の旅館経営者の男性の資産に目を付け、財産収奪のために誘拐する計画を立てた。1994年3月6日に男性は所有する山林を小林市土地開発公社に9141万円で売却し、そのうち3月8日に2700万円が鹿児島銀行に振り込まれ、残る6441万円が3月28日に宮崎銀行に振り込まれる予定であった。 1994年3月27日夜、四女が父親である旅館経営者に睡眠薬サイレース1ミリリットル入りの茶を飲ませ、井上嘉浩の手引きで東京都中野区のオウム真理教附属医院に監禁した。オウム信者でない長女が異変に気づき、附属医院に急行したが、旅館経営者は山梨県西八代郡上九一色村(当時、現在は南都留郡富士河口湖町)のサティアンに移された。その間、四女は旅館経営者の銀行口座から山林の支払い代金を引き出そうとするが、旅館経営者が事前に支払い停止措置を講じていたため失敗した。 旅館経営者は約5ヶ月間監禁され、そのうちの3ヶ月間は第6サティアンで薬物を注入され続け、14キロ痩せて歩行困難になるほど衰えていた。教団は毒ガス攻撃を受けているので外は出られないと言われた。オウム真理教に帰依する振りをし、財産を布施する意向を示したことで8月21日にようやく解放された。 9月26日、旅館経営者は自分を拉致した娘たちや教団の顧問弁護士である青山吉伸を告訴した。会見には娘が乱入し「お父さーん、だまされないで!」「この人たちの説明は全部嘘です。」「オウムのおかげで病気は治ったじゃない!」と叫んでいた。
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1968年7月7日の第8回参議院議員通常選挙に全国区に自由民主党公認で立候補して初当選した石原慎太郎は、「本道を歩みたい」との理由から1972年に任期を2年残して辞任。その年の12月10日執行の第33回衆議院議員総選挙で、当時の自宅のある東京都大田区を地盤とする東京2区から立候補して、鞍替え初当選。1975年に東京都知事選挙に立候補するため辞職するが、落選。その後、1976年12月5日執行の第34回衆議院議員総選挙で復活当選し、以降3回連続でトップ当選。 このとき、石原慎太郎と同じ選挙区に同党公認で新井将敬が立候補したが落選した。そして、1983年の第37回衆議院議員総選挙が公示される前に何者かによって新井の政治広報版に掲載された選挙ポスターに「1966年に北朝鮮から帰化」というシールが貼られるという事件が起こった。それを石原の公設第一秘書が関与していたことが判明した。この公設第一秘書は大手ゼネコン鹿島建設の社員であったが、休職扱いで出向してきていた。第一公設秘書が指揮したとあれば、当然公職立候補者である石原の指示があったかどうかが疑われる。結果として、これは石原陣営が対立候補に対する刑事事件として、世間に知れ渡ることとなった。
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事件のあらまし
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「大杉栄遺骨奪取事件」の記事における「事件のあらまし」の解説
1923年9月16日に甘粕事件により殺害された大杉栄と伊藤野枝、橘宗一の遺体は、9月25日、陸軍衛戍病院(現国立国際医療研究センター)で検視された後、大杉の弟である勇と進、伊藤の叔父で育ての親でもあった代準介、友人の安成二郎、山崎今朝弥、服部浜次、村木源次郎の7名で身元確認がなされた。腐敗が進行していたため、先に火葬することになった。9月27日、落合火葬場で荼毘に付されて、大杉と伊藤の4人の遺児を含む遺族、友人らが骨を拾った。10月2日、遺児らが分骨された遺骨を伊藤の郷里(福岡県)に持って帰った。 虐殺からちょうど3カ月後となるこの日(12月16日)、3名の告別式が社会葬の形式で東京で行われることになっていた。前夜から本郷駒込片町の労働運動社で通夜が行われていた。 一方、大化会会長岩田富美夫によると、その3日前、牛込加賀町の大化会本部に憲兵隊の某氏が訪れ、「甘粕がせっかく殺った大杉栄の告別式が、こともあろうに警視庁の許可を得て公然と谷中斎場で行われるという。これじゃ、憲兵隊の面子丸つぶれだ」から潰してほしいとの依頼があったのだという。それが事実かは不明だが、ともかくそれを受けて岩田らは告別式に乗り込んで滅茶苦茶にするつもりでいた。しかし会場の谷中斎場には警察が大量に動員されていて物々しく警備されていたので、殴り込みは断念した。代わりに遺骨を奪えば葬儀は潰れるだろうということで、通夜会場を狙うことになった。 早朝、2台の自動車で労働運動社に乗り付けた大化会の一行は、黒紋付き羽織袴を着た下鳥繁造が労働者風の2人を連れて中に入った。応対した岩佐作太郎に「福岡県飯塚炭鉱 下鳥繁造」という名刺をさし出して、大杉先生を尊敬していた、焼香がしたいと言って奥畳に上り込む。通夜の客がいる横で、下鳥は位牌に黙礼をした後で、さっと白布で一つに包まれていた3つの骨壺を抱えて立ち上がり、ピストルを取り出すと「この骨はオレがもらったぞ」とドスの利いた声で言った。下鳥はピストルを構えて玄関に立ち塞がり、驚いて飛び出してきた近藤憲二、古田大次郎、和田久太郎、村木を威嚇しつつ、包みを仲間の2名に渡した。渡された2名は車で待つ寺田稲次郎のもとに走っていった。「寄ると撃つぞ」、「いや、空砲だ」と押し問答があって、下鳥は発砲して1発が近藤の耳をかすり板塀にあたった。さらに2発威嚇射撃をして弾は大杉栄の遺影にも当たった。実弾に驚いて人々が道を開けると、下鳥はすかさず逃走した。しかし通夜客らアナキストは怒って追いかけ、半町ほどで追いついた。約30名に包囲された下鳥は酒に酔っていたとも言われ、ピストルを取り上げられてかなり殴られるが、異変を聞きつけた私服警官が身柄を確保した。下鳥は逮捕されて駒込警察署に渡された。その頃、寺田は車を急発進させて現場を脱出。遺骨はさらに岩田に渡された。寺田は後に岐阜駅で逮捕された。 遺骨は奪われたが、もともと無宗教でやる予定であったので、告別式は続行されることになった。遺骨の代わりに3人の遺影を先頭に隊列を組んで、労働運動社から谷中斎場に出発。大杉を悼むために集まった参列者は約700名で、葬儀は盛大に行われたが、「無政府主義万歳」の大合唱が始まると警察が介入して中止解散を命じて幕切れとなった。他方、大阪と岡山でも同じ日にアナキストや社会主義者が集う追悼集会が催されることになっていて、事前に警察の許可も取り付け、たくさんの特高や制服警察官がいる中で行われた。大阪天王寺区善福寺での追悼集会は200名以上が参列した。しかし黒色戦線社の久保譲の弔辞の文言が過激だということで警察の妨害が入り、こちらも途中で中止となった。 警察が警備するなかで遺骨を堂々と盗まれたことは、例えアナキストのものであったとしても、警察の面子を潰した。事前に噂もあり、下鳥の逮捕で事件の大化会の関与は明らかであったので、本部の捜索が行われたが、遺骨は見つからなかった。内務省警保局長の岡田忠彦は、猶存社の北一輝を呼び、北に彼の高弟である岩田を説得して遺骨を返還させるように口利きを依頼した。 12月25日、岩田富美夫は警視庁に出頭して遣骨を湯浅倉平警視総監に返還した。しかし岩田は主犯と見なされず、犯行現場にもいなかったので、不起訴になった。2日後に遺族が警視庁を訪れるが、この12月27日に虎の門事件が起きてそれどころではなかったので、遺骨返還は先送りになり、虎の門の事件によって湯浅総監もほどなく罷免されたので、さらに順延になった。一方、下鳥は主犯として起訴され、年を越した1924年1月に懲役6力月を求刑された。 1924年5月17日、大杉勇がようやく3人の遺骨を警視庁より受け取った。(分骨されたものを除く)遺骨は、5月25日、大杉栄の妹・柴田菊が当時住んでいた静岡県の静岡市立沓谷霊園に葬られ、現在もそこに墓がある。 ところで、下鳥は大化会の客分の扱いであったというが、出所後、岩田は報酬として3万円もらっていながら下鳥にはたった7千円しかやらなかったことがわかって、二人は大ゲンカになったという。下鳥は大化会を脱会し、刑務所を出たり入ったりで後に(これとは別件で)自殺するのだが、和田久太郎は9月2日の福田大将狙撃事件で逮捕された後、刑務所で思いがけず下鳥繁造と再会することになった。
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事件のあらまし
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復興資金として復興金融金庫からの融資を得るために、大手化学工業会社・昭和電工の日野原節三社長が行った政府高官や政府金融機関幹部に対する贈収賄事件。1948年(昭和23年)6月に発覚したが、収賄側としてGHQの下で日本の民主化を進める民政局(GS)のチャールズ・ケーディス大佐ら高官の名前が取り沙汰され、ケーディスは失脚。裏にGSのライバルで反共工作を行っていたGHQ参謀第2部(G2)のチャールズ・ウィロビー少将と右翼の三浦義一の暗躍があった。 「アメリカ対日協議会」も参照 疑惑に先に手を付けたのは警察であった。当時、捜査2課長で後の警視総監を務めることになる秦野章らは、内偵を進めていくうちに政界がらみの大きな汚職事件になると確信し、政府がつぶれるという危機感すら抱いたが、それでも捜査を進めた。捜査の過程ではGHQ職員らも金を受け取っていたことが発覚。政財界だけなく、GHQも関わる三つ巴の構造汚職であることを掴む。このためこれを察知したGHQは圧力をかけ、捜査から警察を締め出し、GHQのいうがままに動く検察主導で行わせるよう工作した。警察は情報を漏らすというのがその理由であった。そこで秦野は一策を講じ、クリスチャン・サイエンス・モニターの記者であったゴードン・ウォーカーを呼び、GHQ関係者の名前がずらりと並んだ汚職容疑者リストをすべて渡した。ゴードン・ウォーカーはさっそくGHQを訪れ「GHQは、日本の警察の邪魔をするのか」といい、そのリストを見せた。直後からGHQの警察への干渉はぴたりと止まった。しかし、その後ゴードン・ウォーカーは突然朝鮮半島へ転任になった。また秦野と藤田刑事部長の2人は突如、転任となり、その後捜査は警察から検察へ移ることになる。検察の捜査ではGHQへの疑惑は全く出なかった。 大蔵官僚・福田赳夫(後の首相)や野党・民主自由党の重鎮・大野伴睦(後の自由民主党副総裁)の逮捕に始まり、やがて政府高官や閣僚の逮捕にまで及んだ。栗栖赳夫経済安定本部総務長官、西尾末広前副総理が検挙され芦田内閣は総辞職をもって崩壊し、民主自由党の吉田内閣の成立をもたらした。その後、前首相であった芦田均自身も逮捕されたが、裁判では栗栖以外の政治家は無罪となった。
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