「ストックホルムの血浴」
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「ストックホルムの血浴」の記事における「「ストックホルムの血浴」」の解説
同年11月4日にクリスチャン2世はストックホルムの大聖堂で復権したトーレ大司教によって油を塗って清められ、スウェーデンの法律に沿って国を統治すると宣言した。その後3日間にわたって晩餐会を開催し、11月7日、ついに虐殺は引き起こされた。クリスチャン2世は反乱の罪を赦すという声明を発し、スウェーデン側の貴族、僧侶、都市の自由市民の有力者たちを晩餐会に招いた。彼等はクリスチャン2世の言葉を信じて投降したものの、全員がストックホルムの王宮に入城すると、大扉は閉じられ、招かれた客は総て捕らえられた。クリスチャンは最初から独立派の罪を許すつもりなどなく、これを機に独立派を根絶やしにする事でスウェーデン独立運動の息の根を止めようと画策していたのだ。 翌11月8日、形ばかりの裁判によって、彼等は死刑の判決を下され、その日の内に、スウェーデンの有力者たちは次々に処刑された。その犠牲者の数は、100名を超えた。ストックホルムの大広場は大量の血の海に染まることになった。これが後に「ストックホルムの血浴」として知られる事件のあらましである。最後までクリスチャン2世の軍勢に抵抗したクリスティーナは裏切り者の売国奴として糾弾され、クリスチャン2世によって「生き埋めか火炙りか」の2択を迫られたが気絶。領地の大半をクリスチャン2世に譲る事を条件に死刑は免れたが息子2人と共にデンマークに連れ去られ幽閉された。クリスティーナの母も罪を問われ、こちらは溺死を宣告されたがこちらも領地の大半を譲る事を条件に命だけは助けられた。彼女もまた娘と一緒にデンマークに連れ去られ幽閉される事となった。
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