日仏関係 日仏関係の概要

日仏関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/13 22:05 UTC 版)

日仏関係

日本

フランス

概説

日仏関係の歴史は17世紀初頭にまで遡り、スペインから海路ローマに向かっていた日本の慶長遣欧使節1615年に南フランスに上陸したことに始まる。

およそ2世紀に渡る鎖国政策が解かれ、両国は19世紀後半以降軍事経済法律芸術分野において重要な関係を築いていった。江戸幕府ジュール・ブリュネ軍事顧問団を通じて軍備の近代化を進め、明治政府も陸軍兵制にフランス式を導入した。またその後も日本はさまざまな分野で特にルイ=エミール・ベルタン大日本帝国海軍の創設期において造船産業の発展に寄与し、また法令の整備などについてもギュスターヴ・エミール・ボアソナードなどフランスの支援を受けていた。ただし、明治政府(大日本帝国)は戊辰戦争普仏戦争の結果を受け、イギリス(イギリス帝国)やドイツ帝国の方が近代化モデルに好適と考え、フランスの影響は両国と比較すると相対的に小さくなった。

その後の日仏関係は他国との関係に左右され、第二次世界大戦では両国軍が交戦し、戦後はフランス政府による日本占領への間接的関与も起こったが、外交関係の回復後は概ね良好な関係を維持している。ただし時として経済・文化面での不満が特にフランス側から提起される事象もある。

フランスは近代芸術において日本の美術すなわちジャポニスムに感化されている点があり、また印象派などに影響を与えた。またフランスで繁栄した絹織物産業は日本の支援を受けていた。一方で日本でもフランス文化は幅広く受容され、特に絵画や彫刻を顕著に、日本の美術は若手から大家まで数多くの芸術家が現地渡航や知識の摂取などで強烈な影響をフランスから受け、これは映画やファッションなど芸術分野の全般に及んだ。また、国際法や国際組織ではフランス語英語と並んで主流となっている側面もあり、大学での第2外国語などではフランス語が幅広く学ばれている。

両国の比較

日本 フランス
人口 1億2614万6000人(2020年10月[1] 6706万人(2020年1月[2]
国土面積 37万7975平方キロメートル[3] 54万4000平方キロメートル[2]
首都 東京 パリ
最大都市 東京都区部 パリ
政体 議院内閣制、立憲君主国[注釈 1] 半大統領制共和国
公用語 日本語 フランス語
国教 無し 無し
GDP(名目) 5兆648億7300万米ドル(2020年[4] 2兆6030億400万米ドル(2020年[4]
防衛費 491億米ドル(2020年[5] 527億米ドル(2020年[5]

日仏関係史

18世紀以前

家康からオランダへ贈られた甲冑であるが、ルイ14世がオランダを侵攻した際の戦利品としてフランスに持ち帰り、東国を知る象徴としてベルサイユ宮殿の天井画にこの甲冑が描かれている
17世紀にフランスを訪れた支倉常長
  • 1600年代から1610年代 - 同年代作製の日本甲冑がフランスに4領現存する。形式から徳川家康が贈ったものと見られる。ただし、そのうちの最も知られているヴェルサイユ宮殿の鏡の廊下に描かれている甲冑は、ルイ14世がゲント(当時オランダ戦争を繰り広げていた)からの戦利品であることが天井画に記されており、甲冑の現物はパリのアンヴァリッド廃兵院(軍事博物館)にあることから、フランスとの直接的関係があるものではないが、当時の為政者であるルイ14世が日本を意識していたことを示す史料と考えることができる。ちなみにこれらの鎧は徳川家康と秀忠についていた甲冑師・岩井与左衛門の作品であることがわかるが、施された蒔絵の鶴丸紋から、森家、蒲生家あたりの由来が推察される。
  • 1615年 - 仙台藩伊達政宗がローマに派遣した慶長遣欧使節の支倉常長サントロペに上陸、この出来事がフランスと日本の初めての接触とされる。
  • 1619年 - フランスのユグノーの家に生まれたフランソワ・カロンオランダ東インド会社社員として日本に着任。フランス出身の人物が日本を訪れたのはこれが最初である。カロンは20年間日本に滞在し商館長にまで出世し、帰国後の1664年フランス東インド会社の設立時の社長となる。カロンは日本との交易も計画したが、これは実現しなかった[6]
  • 1636年 - フランス・ドミニコ会の宣教師ギヨーム・クルテフランス語版が日本に上陸する。クルテは江戸幕府が発した1613年禁教令に反し、秘密裏に布教活動を行っていた。その後拘束、拷問を受け、1637年9月29日薩摩藩鹿児島で死亡した。
  • 1640年から1780年までフランス人が日本を訪れたという記録は残っていない。
  • 1787年 - ラ・ペルーズが日本の海域を航海する。ラ・ペルーズは琉球を訪れ、また蝦夷地樺太の間にある海峡にその名がつけられた(宗谷海峡のこと。国際的な正式名称はラ・ペルーズ海峡である)。
  • 1794年 - 1789年開始のフランス革命に関する情報が、長崎出島オランダ商館が提出したオランダ風説書によって幕府に伝えられる。

19世紀

セントヘレナで囚われの身のナポレオン(当時の日本の挿絵)
第1回遣欧使節(1862年)
1867年、第1回遣日フランス軍使節団が送られる。前列右から2人目がジュール・ブリュネ。
在フランス日本公使館の印(明治時代初期)
1898年、日本で初めて自動車パナール・ルヴァッソールが走る。

20世紀前半(1945年以前)

20世紀後半(1945年以降)

1959年6月、読売ホールで第2回「フランス映画祭」が開催された。歓迎パーティーで日本の女優たちに囲まれるミレーヌ・ドモンジョ[7]

21世紀


注釈

  1. ^ 解釈が異なる見解については、立憲君主制の項にある注釈の中の記載を参照。

出典

  1. ^ 令和2年国勢調査 人口等基本集計 結果の要約』(PDF)(プレスリリース)総務省、2021年11月30日。 オリジナルの2021年12月1日時点におけるアーカイブhttps://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11969009/www.stat.go.jp/data/kokusei/2020/kekka/pdf/summary_01.pdf2022年3月9日閲覧 
  2. ^ a b フランス共和国基礎データ”. 国・地域. 外務省 (2021年3月17日). 2021年10月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年3月11日閲覧。
  3. ^ “第1章 国土・気象” (PDF). 日本の統計2022. 総務省統計局. (2022年3月). p. 2. オリジナルの2022年3月9日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220309042516/https://www.stat.go.jp/data/nihon/pdf/22nihon.pdf 2022年3月9日閲覧。 
  4. ^ a b Gross domestic product 2020” (PDF) (英語). 世界銀行 (2021年10月29日). 2022年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年3月9日閲覧。
  5. ^ a b “Trends in World Military Expenditure, 2020” (英語) (PDF). SIPRI Fact Sheet (ストックホルム国際平和研究所). (April 2021). オリジナルの2022年3月8日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220308094719/https://www.sipri.org/sites/default/files/2021-04/fs_2104_milex_0.pdf 2022年3月9日閲覧。. 
  6. ^ 日本は鎖国中でありカソリック国との交流は禁じられていたが、当時のフランス経済とくに海上交易においては、プロテスタントに分類されるユグノーの役割が大きかった(ユグノー#ユグノーとフランス経済史)。
  7. ^ a b キネマ旬報』1959年7月夏の特別号。
  8. ^ 難波ちづる, 国立公文書館所蔵の「サイゴン裁判」関係資料について, 北の丸:第41号 (平成20年12月)
  9. ^ また、志賀は当用漢字現代仮名遣いには嫌悪感を示していた。阿川弘之「志賀直哉」下巻P196~、新潮文庫
  10. ^ 「フランス協会復活」『朝日新聞』昭和26年10月21日
  11. ^ フランス共和国の戦犯特赦に対する感謝決議”. 参議院 (1953年2月6日). 2013年4月30日閲覧。
  12. ^ 調印当時の仮称は「フランス美術館」。
  13. ^ a b c 台東区公式サイト、「国立西洋美術館を世界遺産に」ページ内、「国立西洋美術館の生い立ち」。2017年1月8日閲覧。
  14. ^ 『スタア』1954年1月号。
  15. ^ ル・コルビュジエはスイス出身だが、長くパリで活動していた。
  16. ^ フィンセント・ファン・ゴッホの『ファンゴッホの寝室』などの一部コレクション作品は戦時賠償の結果としてフランス政府の所有権が確定。
  17. ^ 映画評論』1959年7月号。
  18. ^ 『映画ストーリー』1963年6月号、雄鶏社。
  19. ^ 「座談会 フィルムの幻影に憑かれて―アンリ・ラングロワ氏に聞く」 『映画評論』1966年5月号、82-87頁。
  20. ^ 柴田駿白井佳夫「ゴダール監督の日本の10日間」 『キネマ旬報』1966年6月上旬号、50-54頁。
  21. ^ 稲賀繁美 (2004年3月20日). “ロラン・バルト あるいは「虚構」としての日本”. 放送大学. 2023年8月22日閲覧。
  22. ^ 朝吹亮二 (2016年1月1日). “サルトル、ボーヴォワール:義塾を訪れた外国人”. 三田評論. 2023年8月22日閲覧。
  23. ^ 『映画情報』1966年12月号、国際情報社、「フランス映画祭華やかに開幕」。
  24. ^ 『映画評論』1966年12月号、81-94頁、「フランス映画は衰退したか」。
  25. ^ 東日本大震災に対するヨーロッパ諸国の対応」も参照。
  26. ^ 日本サッカー協会での登録名はフランス語読みの「ヴァイッド・ハリルホジッチ」。
  27. ^ https://iwj.co.jp/wj/open/archives/433472
  28. ^ https://the-criterion.jp/mail-magazine/m20180924/
  29. ^ 文氏「北朝鮮制裁緩和」要請2日後…仏大統領、安倍氏と「制裁強化」で一致”. 中央日報 (2018年10月18日). 2018年10月19日閲覧。
  30. ^ a b 山崎あき (2020年7月7日). “日本を含む域外13カ国からの入国規制を解除、14日間の隔離を求めず”. ジェトロ. 2024年5月14日閲覧。
  31. ^ ただし、ロワイヤルが日本の社民党福島瑞穂党首との会談(両者とも女性)で「日本の女性は大変でしょう」と語り、クレッソンの人種差別主義とは一線を画した。
  32. ^ 留学例としては東京大学の助手からパリ大学の助手となり、フランスの政治・外交を研究した舛添要一が挙げられる。舛添はフランス人女性と結婚したが離婚し、帰国後に大蔵省からフランス国立行政学院(ENA)へ派遣留学の経験を持っていた片山さつきと再婚するも、その後再び離婚している。またJR東日本会長となった山之内秀一郎も1969年に国鉄から国際鉄道連合(UIC)へ出向し、パリに在住した経験を持つ。
  33. ^ 竹下(2006)
  34. ^ これがロワイヤルの日本アニメ批判にもつながっている。なお、スクリーンクオータはアメリカ合衆国の映画ハリウッド映画)の上映を制限する保護主義政策。
  35. ^ 日本貿易振興機構(JETRO)市場開拓部輸出促進課 2005年3月 「フランスにおける日本アニメを中心とするコンテンツの浸透状況」
  36. ^ 日仏航空機産業による超音速旅客機に関する共同研究について 経済産業省 2005年6月14日(PDF形式)
  37. ^ 一例として、ベトナムにおける原子力発電所や高速鉄道計画での競争が挙げられる。出典:朝日新聞2010年1月17日付 ベトナム、原発導入急ぐ 東南アジア初、受注狙う日仏
  38. ^ 2000年に当時のシラク大統領が「フランス共和国大統領杯」として創設したもの。
  39. ^ 横綱白鳳に日仏友好杯を贈呈 - 在日フランス大使館


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