1940 - 1960年代とは? わかりやすく解説

1940 - 1960年代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 12:27 UTC 版)

東映アニメーション」の記事における「1940 - 1960年代」の解説

東映動画東映アニメーション)は、東映長年亘る教育映画活動から生み出されたものである同社教育映画事業1947年昭和22年1月東映前身である東横映画開発部設置されたことに始まる。開発部16mm製作した教育映画を農山漁村での巡回上映を行う「十六ミリ映写隊」等の活動行い常時120班ほどの上映班が全国巡回し、「東横16ミリ」と呼ばれ親しまれていたという。終戦直後には講堂映写機材も多く戦災不足していたことから、1940年代後半中心に映画館への引率観覧積極的に行われ、それは「映画教室」として全国的に波及していった。当時、この映画教育運動に最も積極的に取り込んでいたのは、後に東映動画買収される日動映画社の前身日本動画社と関係していた東宝教育映画部だった。そこで主要なプログラムとして盛んに上映されていたのは、『捨て猫トラちゃん』や『ムクの木の話』といった短編アニメーションであった教育映画映画会社の関係は、東映のみならず1910年代後半国産アニメーション登場直後から密接に関わり日本製アニメーションも「教育映画サブジャンル」という位置付け強く担っていた。東映でも社長大川博教育映画強い関心寄せ1954年昭和29年)に教育映画祭が開始されるなど、教育映画社会的脚光を浴び始めたこともあり、同年9月東映でも教育映画自主製作始めた。「十六ミリ映写隊」は「営業部十六ミリ映画課」と名称を変えていたが、1954年9月設置され教育映画自主製作配給委員会での検討経て営業部十六ミリ映画課」は「十六ミリ映画部」として独立し1955年昭和30年6月に「教育映画部」と格上げされた。教育映画製作は興行映画比して事業規模低く製作費も安く抑えられていた。また劇映画常設館の上に対して教育映画学校公民館などでの不定期な上映依存していた。しかし当時映画自体教育好ましくないとみなし、学童学生映画館入場厳し視線を向ける地域少なくなく、特に当時東映が得意としていた剣戟主体時代劇俗悪見られがちで、これと対照的な教育映画製作・配給することは、東映にとって社会的地位評価の向上をもたらすもので、こうした背景から教育映画劇場の上プログラム組み込まれるようになったこのような歴史経て教育映画部」の中でアニメーション映画注目され1955年3月31日東映内で「漫画映画自主製作委員会」が開かれ、「十六ミリ映画部」による教育用アニメーション映画『うかれバイオリン』の制作決まり日動映画へ製作が委託された。 日本動画株式会社は、1948年昭和23年1月政岡憲三山本善次郎らにより設立され設立当初成城高校空き教室100坪を使って制作が行われた。1952年昭和27年8月日動映画株式会社商号変更していた。 1955年昭和30年)、日動映画藪下泰司山本善次郎東映今田智憲営業課長を訪ね、「自分たちは日動というアニメ会社24、5人でやっているんだが、どうも難しい。協力してもらえないか」と相談があり、国際的な映像の仕事としての大きな可能性感じた今田大川博東映社長に東洋ウォルト・ディズニーになりましょう」と進言日動映画買収決めた今田東映新規事業拡大多く関わった重役だった。大川映画ズブの素人で、映画にはあまり関心がなかったとされるが、教育事業には強い関心寄せており、1955年10月完成の『うかれバイオリン』を大川気に入り日動映画買収決めたという。 1956年昭和31年1月東映東映動画設立に向け「漫画映画製作研究委員会」を立ち上げ委員長大川社長で、副委員長山崎四郎設立準備実務担当委員として赤川孝一管理課長や、今田智憲らが任命された。ところが、事業計画案を巡り赤川今田意見対立した今田は「カラー長編制作加えディズニー社始めとするアメリカ長編アニメ制作会社提携し、その制作技術導入すること」「作品制作事業だけでなく、関連商品販売テーマパーク運営など、広範囲にわたる事業展開を図るべし」「絶対に天然色で、長編漫画なければ収入あがらない」などと提案今田今日キャラクター・ビジネスマーチャンダイズに近い発想を既に持っていたが、結局赤川教育映画部の意見優先され今田意見却下された。 同年8月東映日動映画買収日動映画機材も少し人員30人企業価値低く買収額は100万円と、東映にしては同社買収大したエポックでもなかった。東映動画公式サイト同社沿革でも日動映画設立から歴史始まっているが、東映動画にとっては日動映画前身ということではなく日動映画買収したことにより、大川博今田智憲山崎四郎赤川孝一らが、教育映画ラインナップバリエーション充実化する手段としてアニメーション映画注目する切っ掛け一つになっただけに過ぎない1956年昭和31年8月1日東映動画株式会社発足した設立森康二藪下泰司らも参加した。これ以前にも商業アニメーション細々存在したが、東映買収したことで初め日本のアニメーションに光が当たった発足当時35名の社員はほとんどが旧日動の社員で、会社住所も日動と同じ新宿区原町であった東映動画発足にあたって短編中編制作事業計画のみが記載され長編記載はなかったが、もとは香港からの持ち込み企画であった白蛇伝』の制作スタートさせた。当時日本国内アニメーション制作会社はごく少なく長編制作経験もほとんどなかった中で、東映日動映画買収することによりアニメーション制作ノウハウ得ようとしたのである発足から4ヵ月後の1956年昭和31年12月、まだ武蔵野面影が残る閑静な東京都練馬区東映東京撮影所南側隣接してスタジオ完成東映動画1957年昭和32年1月9日、この新スタジオ移転日本に於ける本格的アニメーションの製作が開始された。スタジオ完成とともに新たに採用され東映動画第一期生の中には大塚康生楠部大吉郎らがいた。スタジオ竣工就業人員80人。また1958年から手塚治虫『西遊記』の製作のために嘱託として参加している。この時のノウハウが旧虫プロダクション活かされることとなる。東映動画遺伝子は後の日本のアニメーションの歴史大きな影響力持った岡田茂は「東映日本アニメーター養成したようなもの」と述べている。 新スタジオでは『白蛇伝制作のためのスタッフ急増CMフィルム需要の増加対応して同年末に第1次増設工事着工し同年4月10日竣工しその2年後の1959年昭和34年6月15日には第2次増設工事竣工した。さらに『狼少年ケン』などのテレビアニメーションテレビ漫画)の制作対応するため1964年昭和39年6月2日には第3次増設工事竣工し現在のスタジオ成長したスタジオ完成によって長編アニメーション制作体制整い、まず手慣らしとして旧日映画スタッフ指導の下で、1957年昭和32年5月に初の短編作品こねこのらくがき』を制作した続いて1958年昭和33年10月には『白蛇伝』を完成した日本テレビ放送始まって5年8ヵ月後のことで、当時としては破格の製作費4000万円製作期間9ヶ月費やした東映動画は「日本でもここまでできる」と後進刺激し家内制手工業動画制作近代産業発展させ、同時に日本アニメーション戦後を終わらせた。その後、『わんぱく王子の大蛇退治』、そうして宮崎駿などの『白蛇伝』に影響受けたスタッフらも制作参加した太陽の王子 ホルスの大冒険』、『長靴をはいた猫』などの長編作品発表し1960年代における東映動画長編時代築かれた。輸出向け日本人の顔や言語デメリット克服する漫画映画は、子供向けの壁を超えて家族映画マーケット確保していく。社員総数1959年昭和34年)には250名にまで増えたが、そのうちCMアニメ制作100名が従事しており、東映動画主たる仕事は常にCMアニメ制作であった1961年昭和36年虫プロダクション設立されると、手塚治虫アニメ制作才能請われアニメーターたちが虫プロ移動したり、両方作業をするという混乱期があった。虫プロ設立に当たり、人材大半東映動画からの引き抜き依存した東映動画という先行者がなしでは、虫プロ手際よく発足し設立から一年半の間にテレビ漫画シリーズスタートさせることはできなかった。一時期虫プロは、東映動画スタジオ一部分そのままそっくり移転したのような様相呈した東映動画作画関係者だけに限らず演出家美術家、カラープランナー、カメラマンプロデューサーに至るまで抱えて育んでいたため、東映動画アニメーション業界に、人材つぎつぎと送り込む供給源になっていった。手塚『西遊記』シンドバッドの冒険』『わんわん忠臣蔵』の東映動画の製作に誘われ実際の作業現場経験したことにより、アニメーション制作の意を強くした。東映動画残ったクリエーター多く劇場公開アニメーション制作など、東映動画従来アニメ制作方針に拘った者であった当時連続テレビ漫画番組は、制作占め人件費割合多くテレビ劇映画比べて三倍制作費がかかるといわれ、毎週テレビ放送されるアニメシリーズ制作企画したプロダクションテレビ局はなかった。手塚破格安値明治製菓に「鉄腕アトム」のスポンサーになってもらい、低い放映権料番組制作請け負った赤字分は自分漫画収入補填した。手塚は「漫画本妻アニメ愛人」と冗談半分言った。このしわ寄せで「鉄腕アトム」の作業者(アニメーター)は徹夜に近い作業連続。「アニメーター低賃金長時間労働、好きでなければやっていられない」という産業構造を生み、手塚アニメ安値受注業界水準となったため、後々までアニメ業界受注金額低く抑えられる状態が続くことになった。また「鉄腕アトム」の例から、漫画雑誌掲載され漫画作品元にすれば知名度の点から人気取れることが分かり動画技術としては手抜き作品であっても視聴率取れるとされ、東映劇場用で目指したのとは異な種類マーケット確立し拡大していくことになった1959年昭和34年3月25日1961年昭和36年秋に東映動画労働組合結成され1962年10月東映東京撮影所敷地内に置く東映動画東映テレビ・プロダクションなどの組合員糾合して全東映労連結成される過密労働低賃金改善という一般的な労組目的の他、作品本数出来高賃金を払う契約者呼ばれる個人請負労働者の待遇改善東映本社企画握り漫画映画らしい作品企画とその制作制限されている状況打開したい等の要求増していく。1959年昭和34年就業人員270人。1964年昭和39年就業人員575人、売上約5億円。同年東映は、就業人員2149人で売上120億円。1963年昭和38年)頃から赤字出し始めたアニメーション制作は、実写作品より多く人員長期の期間を必要とするため能率が低い。不採算要因は他にもあるが、やはり人件費問題重く捉えられその後様々な対策図られ、それは動画職員たち有形無形波及した時には様々な工夫生み出し或いは未解決のまま引き継がれ場合によっては重大な破綻もたらした1960年代テレビの普及に伴い劇場用アニメーションからテレビ用アニメーション主流交代していった時代であったが、この時代に『狼少年ケン』や『魔法使いサリー『ゲゲゲの鬼太郎』ひみつのアッコちゃん』『タイガーマスク』などを手掛けテレビ用アニメーション市民権獲得貢献した東映動画テレビシリーズ制作開始した具体的な切っ掛けは、代理店業務強化図っていた東映商事森永製菓スポンサード取り付け東映動画持ち込んだことにあった東映動画主体的に関わった「東映まんがまつり」で育った親たちが、自分の子供たちを安心して連れて来れる「まんがまつり」に連れて行ったという評価もある。 『ガリバーの宇宙旅行』が製作され1965年昭和41年2月から毎週テレビ番組狼少年ケン』『少年忍者風のフジ丸』『宇宙パトロールホッパ』の三本製作態勢入ったため、業界関係者からは長編動画の製作は事実上終了だろうと見られた。時間手間もかかる長編動画群小プロには製作は不可能で、東映動画一社だけが長編動画の製作を続けていた。1965年親会社である東映定期採用止めたことに倣い東映動画1965年最後に正社員定期採用中止し以降1991年まで26年採用をしなかった。これに伴い1965年から長編動画製作は、原則として正社員作画職が従事しテレビアニメ製作は、作業量に基づいて個人別業務委託契約を結ぶ契約者が行うことが定められた。これはスポンサー動向からの影響を受けるテレビアニメ製作違い東映本社発注元とする長編動画製作は、東映動画経営能力証明しなければならないという特徴を持つものだったからである。 東映本体邦画市場の縮小対し1964年昭和39年)に東映娯楽版の制作停止し1965年から製作本数削減への対策として一本立て大作強化宣言した。しかしその第一弾冷飯とおさんとちゃん』など数本芸術映画不入り終り館主会から「もっと娯楽作品重点を」という意見出たことから、従来二本立て路線回帰した。東映動画長編製作は、この方針のもとで再編余儀なくされた。当時東映動画長編8000から9000万円受注額で制作されていたが、これは劇映画の高い方の額に比肩する規模だった。こうして東映本体本数削減予算引き締め実施されたのに対し東映動画制作体制については、増産実現生産効率上げることでコスト抑圧するという判断下された1966年昭和41年)内に完成予定だった長編は『ふしぎな世界大冒険』(『少年ジャックと魔法使い』)、『太陽の王子 ホルスの大冒険』と60程度中編B作」だったが、長編2本は年内完成しなかった。 この「B作」は白川大作提言で、夏休みのまんがまつりから、長編動画呼び名A作に対して、「A作」とTVアニメ中間位置するB作」と呼んだ60前後中編『サイボーグ009』プログラム加えられた。これが他作品合わせて大ヒットことで、テレビアニメ人気漫画原作低予算映画観客ニーズが高いと判断され長編動画存在意義激しく揺らいだ長編動画の製作がなお続けられたのは、長編動画日本の映画文化果たした業績極めて大きく長編動画楽しみにしている子供たちもいる、長編製作の火を消してならない長編動画東映良心、という考え大川社長にあり、大塚康生は「大川社長脚本もよく読んでかったんじゃないかでしょうか。『君たち任せたよ』という感じでね。これは作り手にとって一番いタイプ経営者であり、一番怖い経営者でもある」などと話しているが、長編動画含めた東映動画赤字大川黙認することで不問付されていたといわれる1969年売上高約9億円、営業利益が約500万円1970年から制作赤字発生しはじめ、1971年からは連続して売上高10%程度赤字発生させた。 東映動画外部導入1966年昭和41年)から始まる石ノ森章太郎とのコラボレーション『サイボーグ009』から漫画家との企画段階からの共同作業至り『仮面ライダー』変身ブームや、永井豪とのコラボ『マジンガーZ』ロボットアニメ興隆生み出した東映アニメーションマスコットキャラクターは、『長靴をはいた猫』『ながぐつ三銃士』『長靴をはいた猫 80日間世界一周』主人公ペロである。

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1940~1960年代

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吉田牧場 (北海道)」の記事における「1940~1960年代」の解説

1940年権太郎死去し息子吉田一太郎経営継いだ。翌1941年末より太平洋戦争勃発、その戦況悪化に伴い競馬の開催規模縮小され、やがて休止となった。他の多く牧場では、維持費がかさむサラブレッド次々と処分されていったが、一太郎は1頭として処分せず、逆にこの機を利用して下総御料牧場の良血馬・嶋城(父ダイオライト、母月城)を破格値段手に入れるなど生産への意欲を失わなかった。終戦経た1946年7月日本進駐したアメリカ軍進駐軍)の兵士家族慰安するための進駐軍競馬再開された。良質競走馬不足していた中にあって吉田牧場生産馬高値購買されていった一方連合国軍最高司令官総司令部GHQ)が発令した農地解放政策に伴い当時500ヘクタールあった牧場用地接収され半減した本格的に競馬再開されると、吉田牧場生産馬目立った成績挙げ始めた1948年産のヒロホマレは鳴尾記念など20勝を挙げ、その全妹・ヒロイチ1955年優駿牝馬オークス)に優勝生産馬初のクラシック制覇果たした1959年にはオーカンオークス優勝1967年にはその産駒リュウズキ皐月賞優勝し史上3組目の母子によるクラシック制覇達成した。その前年には「クモワカ伝貧事件」(後述)に巻き込まれクモワカの子ワカクモ桜花賞優勝している。輸入外国牝馬礼賛された当時にあって一太郎は「国が豊かだった時代買ってきた、日本古くからいるサラブレッドの方が優れている」との考えから、戦前から日本根付く血統からこれらの馬を生産した種牡馬についても全く流行追わず地方競馬出身のトシハヤ(オーカンなどの父)や、アメリカ産馬ながら下級条件馬終わっていたカバーラップ二世リュウズキワカクモなどの父)を牧場導入して重用した血統造詣の深い作家山野浩一は、一太郎生産手法次のように解説している。 吉田一太郎が最も重視したのは幼駒のトレーニングである。それもただはげしいトレーニング強要するだけでは何の効果もないことを知っていた。トレーニング耐えるだけの栄養を馬にとらせるために、牧草育て牧草育てるために土壌豊かになければならない早来という場所は日高くらべて良い土地とはいえない。そこを日高上の牧草地にしなければならなかった。そして、そうした牧場トレーニングに耐えていく馬を作るためには、馬自身血統弱々しいものであってはならなかったのだ。吉田一太郎重視したのはアウトブリーディングである。極力特定の血を強く持たない異系血脈集めた馬を求めた。しかも弱い馬ではだめで、それ相応能力持ってなければならないそうした条件かなった種牡馬がトシハヤであり、カバーラップ二世であり、オーシャチだったのだ。そして、これらの種牡馬には名血が弱いだけに、配合牝馬には名牝を選んだ小岩井御料牧場の良血牝馬である。 — 山野浩一栄光名馬』246-247頁

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