1940 - 1960年代
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「東映アニメーション」の記事における「1940 - 1960年代」の解説
東映動画(東映アニメーション)は、東映の長年に亘る教育映画活動から生み出されたものである。同社の教育映画事業は1947年(昭和22年)1月に東映の前身である東横映画に開発部が設置されたことに始まる。開発部は16mmで製作した教育映画を農山漁村での巡回上映を行う「十六ミリ映写隊」等の活動を行い、常時120班ほどの上映班が全国を巡回し、「東横16ミリ」と呼ばれ親しまれていたという。終戦直後には講堂や映写機材も多くが戦災で不足していたことから、1940年代後半を中心に映画館への引率観覧が積極的に行われ、それは「映画教室」として全国的に波及していった。当時、この映画教育運動に最も積極的に取り込んでいたのは、後に東映動画に買収される日動映画社の前身、日本動画社と関係していた東宝教育映画部だった。そこで主要なプログラムとして盛んに上映されていたのは、『捨て猫トラちゃん』や『ムクの木の話』といった短編アニメーションであった。教育映画と映画会社の関係は、東映のみならず、1910年代後半の国産アニメーションの登場直後から密接に関わり、日本製アニメーションも「教育映画のサブジャンル」という位置付けを強く担っていた。東映でも社長の大川博が教育映画に強い関心を寄せ、1954年(昭和29年)に教育映画祭が開始されるなど、教育映画が社会的脚光を浴び始めたこともあり、同年9月、東映でも教育映画の自主製作を始めた。「十六ミリ映写隊」は「営業部十六ミリ映画課」と名称を変えていたが、1954年9月に設置された教育映画自主製作配給委員会での検討を経て「営業部十六ミリ映画課」は「十六ミリ映画部」として独立し、1955年(昭和30年)6月に「教育映画部」と格上げされた。教育映画製作は興行映画に比して事業規模も低く製作費も安く抑えられていた。また劇映画が常設館での上映に対して、教育映画は学校や公民館などでの不定期な上映に依存していた。しかし当時は映画自体を教育上好ましくないとみなし、学童、学生の映画館入場に厳しい視線を向ける地域も少なくなく、特に当時の東映が得意としていた剣戟主体の時代劇は俗悪と見られがちで、これと対照的な教育映画を製作・配給することは、東映にとって社会的地位や評価の向上をもたらすもので、こうした背景から教育映画が劇場の上映プログラムに組み込まれるようになった。このような歴史を経て「教育映画部」の中でアニメーション映画が注目され、1955年3月31日に東映内で「漫画映画自主製作委員会」が開かれ、「十六ミリ映画部」による教育用のアニメーション映画『うかれバイオリン』の制作が決まり、日動映画へ製作が委託された。 日本動画株式会社は、1948年(昭和23年)1月、政岡憲三、山本善次郎らにより設立され、設立当初は成城高校の空き教室約100坪を使って制作が行われた。1952年(昭和27年)8月、日動映画株式会社に商号変更していた。 1955年(昭和30年)、日動映画の藪下泰司と山本善次郎が東映の今田智憲営業課長を訪ね、「自分たちは日動というアニメの会社を24、5人でやっているんだが、どうも難しい。協力してもらえないか」と相談があり、国際的な映像の仕事としての大きな可能性を感じた今田が大川博東映社長に「東洋のウォルト・ディズニーになりましょう」と進言し日動映画の買収を決めた。今田は東映の新規事業拡大に多く関わった重役だった。大川は映画はズブの素人で、映画にはあまり関心がなかったとされるが、教育事業には強い関心を寄せており、1955年10月完成の『うかれバイオリン』を大川が気に入り、日動映画の買収を決めたという。 1956年(昭和31年)1月、東映は東映動画の設立に向け「漫画映画製作研究委員会」を立ち上げ、委員長は大川社長で、副委員長・山崎季四郎、設立準備の実務担当委員として赤川孝一管理課長や、今田智憲らが任命された。ところが、事業計画案を巡り赤川と今田の意見が対立した。今田は「カラー長編制作に加え、ディズニー社を始めとするアメリカの長編アニメ制作会社と提携し、その制作技術を導入すること」「作品制作事業だけでなく、関連商品販売やテーマパーク運営など、広範囲にわたる事業展開を図るべし」「絶対に天然色で、長編漫画でなければ収入はあがらない」などと提案。今田は今日のキャラクター・ビジネスやマーチャンダイズに近い発想を既に持っていたが、結局赤川の教育映画部の意見が優先され、今田の意見は却下された。 同年8月、東映が日動映画を買収。日動映画は機材も少しで人員も30人で企業価値も低く、買収額は100万円と、東映にしては同社の買収は大したエポックでもなかった。東映動画の公式サイトの同社沿革でも日動映画の設立から歴史が始まっているが、東映動画にとっては日動映画が前身ということではなく、日動映画を買収したことにより、大川博や今田智憲、山崎季四郎、赤川孝一らが、教育映画のラインナップとバリエーションを充実化する手段としてアニメーション映画に注目する切っ掛けの一つになっただけに過ぎない。1956年(昭和31年)8月1日、東映動画株式会社が発足した。設立に森康二、藪下泰司らも参加した。これ以前にも商業アニメーションは細々と存在したが、東映が買収したことで初めて日本のアニメーションに光が当たった。発足当時の35名の社員はほとんどが旧日動の社員で、会社住所も日動と同じ新宿区原町であった。東映動画の発足にあたっては短編・中編制作の事業計画のみが記載され、長編の記載はなかったが、もとは香港からの持ち込み企画であった『白蛇伝』の制作をスタートさせた。当時、日本国内にアニメーション制作会社はごく少なく、長編制作の経験もほとんどなかった中で、東映は日動映画を買収することによりアニメーション制作のノウハウを得ようとしたのである。 発足から4ヵ月後の1956年(昭和31年)12月、まだ武蔵野の面影が残る閑静な東京都練馬区の東映東京撮影所南側に隣接してスタジオが完成。東映動画は1957年(昭和32年)1月9日、この新スタジオに移転。日本に於ける本格的アニメーションの製作が開始された。スタジオ完成とともに新たに採用された東映動画第一期生の中には大塚康生、楠部大吉郎らがいた。スタジオ竣工時就業人員80人。また1958年から手塚治虫が『西遊記』の製作のために嘱託として参加している。この時のノウハウが旧虫プロダクションで活かされることとなる。東映動画の遺伝子は後の日本のアニメーションの歴史に大きな影響力を持った。岡田茂は「東映が日本のアニメーターを養成したようなもの」と述べている。 新スタジオでは『白蛇伝』制作のためのスタッフ急増とCMフィルムの需要の増加に対応して同年末に第1次増設工事に着工して同年4月10日に竣工し、その2年後の1959年(昭和34年)6月15日には第2次増設工事竣工した。さらに『狼少年ケン』などのテレビアニメーション(テレビ漫画)の制作に対応するため1964年(昭和39年)6月2日には第3次増設工事が竣工して現在のスタジオに成長した。 スタジオの完成によって長編アニメーション制作の体制が整い、まず手慣らしとして旧日動映画スタッフの指導の下で、1957年(昭和32年)5月に初の短編作品『こねこのらくがき』を制作した。続いて1958年(昭和33年)10月には『白蛇伝』を完成した。日本でテレビ放送が始まって5年8ヵ月後のことで、当時としては破格の製作費4000万円、製作期間9ヶ月を費やした。東映動画は「日本でもここまでできる」と後進を刺激し、家内制手工業の動画制作を近代産業に発展させ、同時に日本アニメーションの戦後を終わらせた。その後、『わんぱく王子の大蛇退治』、そうして宮崎駿などの『白蛇伝』に影響を受けたスタッフらも制作に参加した『太陽の王子 ホルスの大冒険』、『長靴をはいた猫』などの長編作品を発表し、1960年代における東映動画の長編時代が築かれた。輸出向けに日本人の顔や言語のデメリットを克服する漫画映画は、子供向けの壁を超えて、家族映画のマーケットを確保していく。社員総数は1959年(昭和34年)には250名にまで増えたが、そのうちCMアニメの制作に100名が従事しており、東映動画の主たる仕事は常にCMアニメの制作であった。 1961年(昭和36年)虫プロダクションが設立されると、手塚治虫にアニメ制作の才能を請われたアニメーターたちが虫プロに移動したり、両方の作業をするという混乱期があった。虫プロは設立に当たり、人材の大半を東映動画からの引き抜きに依存した。東映動画という先行者がなしでは、虫プロも手際よく発足し、設立から一年半の間にテレビ漫画シリーズをスタートさせることはできなかった。一時期の虫プロは、東映動画のスタジオが一部分そのままそっくり移転したかのような様相を呈した。東映動画は作画関係者だけに限らず、演出家、美術家、カラープランナー、カメラマン、プロデューサーに至るまで抱えて育んでいたため、東映動画はアニメーション業界に、人材をつぎつぎと送り込む供給源になっていった。手塚も『西遊記』『シンドバッドの冒険』『わんわん忠臣蔵』の東映動画の製作に誘われ、実際の作業の現場を経験したことにより、アニメーション制作の意を強くした。東映動画に残ったクリエーターの多くは劇場公開アニメーションの制作など、東映動画の従来のアニメ制作の方針に拘った者であった。 当時、連続テレビ漫画番組は、制作に占める人件費の割合が多く、テレビ劇映画に比べて三倍の制作費がかかるといわれ、毎週テレビ放送されるアニメシリーズの制作を企画したプロダクションやテレビ局はなかった。手塚は破格の安値で明治製菓に「鉄腕アトム」のスポンサーになってもらい、低い放映権料で番組制作を請け負った。赤字分は自分の漫画の収入で補填した。手塚は「漫画は本妻、アニメは愛人」と冗談半分に言った。このしわ寄せで「鉄腕アトム」の作業者(アニメーター)は徹夜に近い作業の連続。「アニメーターは低賃金で長時間労働、好きでなければやっていられない」という産業構造を生み、手塚アニメの安値受注が業界の水準となったため、後々までアニメ業界は受注金額が低く抑えられる状態が続くことになった。また「鉄腕アトム」の例から、漫画雑誌に掲載された漫画作品を元にすれば知名度の点から人気が取れることが分かり、動画の技術としては手抜きな作品であっても視聴率が取れるとされ、東映が劇場用で目指したのとは異なる種類のマーケットが確立し、拡大していくことになった。 1959年(昭和34年)3月25日、1961年(昭和36年)秋には東映動画に労働組合が結成され、1962年10月、東映東京撮影所の敷地内に置く東映動画、東映テレビ・プロダクションなどの組合員を糾合して全東映労連が結成される。過密労働と低賃金の改善という一般的な労組の目的の他、作品本数や出来高で賃金を払う契約者と呼ばれる個人請負の労働者の待遇改善、東映本社が企画権を握り、漫画映画らしい作品の企画とその制作が制限されている状況を打開したい等の要求が増していく。1959年(昭和34年)就業人員270人。1964年(昭和39年)就業人員575人、売上約5億円。同年の東映は、就業人員2149人で売上約120億円。1963年(昭和38年)頃から赤字を出し始めた。アニメーションの制作は、実写作品より多くの人員と長期の期間を必要とするため能率が低い。不採算要因は他にもあるが、やはり人件費の問題は重く捉えられ、その後様々な対策が図られ、それは動画の職員たちに有形無形に波及した。時には様々な工夫を生み出し、或いは未解決のまま引き継がれ、場合によっては重大な破綻をもたらした。 1960年代はテレビの普及に伴い、劇場用アニメーションからテレビ用アニメーションへ主流が交代していった時代であったが、この時代に『狼少年ケン』や『魔法使いサリー』『ゲゲゲの鬼太郎』『ひみつのアッコちゃん』『タイガーマスク』などを手掛け、テレビ用アニメーションの市民権獲得に貢献した。東映動画がテレビシリーズ制作を開始した具体的な切っ掛けは、代理店業務の強化を図っていた東映商事が森永製菓のスポンサードを取り付け、東映動画に持ち込んだことにあった。東映動画が主体的に関わった「東映まんがまつり」で育った親たちが、自分の子供たちを安心して連れて来れる「まんがまつり」に連れて行ったという評価もある。 『ガリバーの宇宙旅行』が製作された1965年(昭和41年)2月から毎週テレビ番組『狼少年ケン』『少年忍者風のフジ丸』『宇宙パトロールホッパ』の三本製作態勢に入ったため、業界関係者からは長編動画の製作は事実上終了だろうと見られた。時間も手間もかかる長編動画は群小プロには製作は不可能で、東映動画一社だけが長編動画の製作を続けていた。1965年に親会社である東映が定期採用を止めたことに倣い、東映動画も1965年を最後に正社員の定期採用を中止し、以降1991年まで26年間採用をしなかった。これに伴い、1965年から長編動画製作は、原則として正社員の作画職が従事し、テレビアニメ製作は、作業量に基づいて個人別に業務委託契約を結ぶ契約者が行うことが定められた。これはスポンサー動向からの影響を受けるテレビアニメ製作と違い、東映本社を発注元とする長編動画製作は、東映動画の経営能力を証明しなければならないという特徴を持つものだったからである。 東映本体は邦画市場の縮小に対し、1964年(昭和39年)に東映娯楽版の制作を停止し、1965年から製作本数削減への対策として一本立て大作の強化を宣言した。しかしその第一弾『冷飯とおさんとちゃん』など数本の芸術映画が不入りに終り、館主会から「もっと娯楽作品に重点を」という意見が出たことから、従来の二本立て路線へ回帰した。東映動画の長編製作は、この方針のもとで再編を余儀なくされた。当時の東映動画の長編は8000万から9000万円の受注額で制作されていたが、これは劇映画の高い方の額に比肩する規模だった。こうして東映本体に本数削減と予算の引き締めが実施されたのに対し、東映動画の制作体制については、増産の実現と生産効率を上げることでコストを抑圧するという判断が下された。1966年(昭和41年)内に完成予定だった長編は『ふしぎな世界の大冒険』(『少年ジャックと魔法使い』)、『太陽の王子 ホルスの大冒険』と60分程度の中編「B作」だったが、長編2本は年内に完成しなかった。 この「B作」は白川大作の提言で、夏休みのまんがまつりから、長編動画の呼び名「A作」に対して、「A作」とTVアニメの中間に位置する「B作」と呼んだ60分前後の中編『サイボーグ009』がプログラムに加えられた。これが他作品と合わせて大ヒットことで、テレビアニメや人気漫画原作の低予算映画に観客のニーズが高いと判断され、長編動画の存在意義が激しく揺らいだ。長編動画の製作がなお続けられたのは、長編動画が日本の映画文化に果たした業績も極めて大きく、長編動画を楽しみにしている子供たちもいる、長編製作の火を消してはならない、長編動画は東映の良心、という考えが大川社長にあり、大塚康生は「大川社長は脚本もよく読んでなかったんじゃないかでしょうか。『君たち、任せたよ』という感じでね。これは作り手にとって一番いいタイプの経営者であり、一番怖い経営者でもある」などと話しているが、長編動画を含めた東映動画の赤字は大川が黙認することで不問に付されていたといわれる。1969年売上高約9億円、営業利益が約500万円。1970年から制作赤字が発生しはじめ、1971年からは連続して売上高の10%程度の赤字を発生させた。 東映動画の外部導入は1966年(昭和41年)から始まる石ノ森章太郎とのコラボレーション『サイボーグ009』から漫画家との企画段階からの共同作業に至り、『仮面ライダー』の変身ブームや、永井豪とのコラボ『マジンガーZ』はロボットアニメの興隆を生み出した。 東映アニメーションのマスコットキャラクターは、『長靴をはいた猫』・『ながぐつ三銃士』・『長靴をはいた猫 80日間世界一周』の主人公ペロである。
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1940~1960年代
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「吉田牧場 (北海道)」の記事における「1940~1960年代」の解説
1940年、権太郎が死去し、息子の吉田一太郎が経営を継いだ。翌1941年末より太平洋戦争が勃発、その戦況悪化に伴い競馬の開催規模は縮小され、やがて休止となった。他の多くの牧場では、維持費がかさむサラブレッドは次々と処分されていったが、一太郎は1頭として処分せず、逆にこの機を利用して下総御料牧場の良血馬・嶋城(父ダイオライト、母月城)を破格の値段で手に入れるなど生産への意欲を失わなかった。終戦を経た1946年7月、日本へ進駐したアメリカ軍(進駐軍)の兵士と家族を慰安するための進駐軍競馬が再開された。良質の競走馬が不足していた中にあって吉田牧場の生産馬は高値で購買されていった。一方、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が発令した農地解放政策に伴い、当時500ヘクタールあった牧場用地は接収されて半減した。 本格的に競馬が再開されると、吉田牧場生産馬は目立った成績を挙げ始めた。1948年産のヒロホマレは鳴尾記念など20勝を挙げ、その全妹・ヒロイチは1955年の優駿牝馬(オークス)に優勝、生産馬初のクラシック制覇を果たした。1959年にはオーカンがオークスに優勝、1967年にはその産駒・リュウズキが皐月賞に優勝し、史上3組目の母子によるクラシック制覇を達成した。その前年には「クモワカ伝貧事件」(後述)に巻き込まれたクモワカの子・ワカクモが桜花賞に優勝している。輸入外国牝馬が礼賛された当時にあって、一太郎は「国が豊かだった時代に買ってきた、日本に古くからいるサラブレッドの方が優れている」との考えから、戦前から日本に根付く血統からこれらの馬を生産した。種牡馬についても全く流行を追わず、地方競馬出身のトシハヤ(オーカンなどの父)や、アメリカ産馬ながら下級条件馬に終わっていたカバーラップ二世(リュウズキ、ワカクモなどの父)を牧場に導入して重用した。血統に造詣の深い作家の山野浩一は、一太郎の生産手法を次のように解説している。 吉田一太郎が最も重視したのは幼駒のトレーニングである。それもただはげしいトレーニングを強要するだけでは何の効果もないことを知っていた。トレーニングに耐えるだけの栄養を馬にとらせるために、牧草を育て、牧草を育てるために土壌を豊かにしなければならない。早来という場所は日高とくらべて良い土地とはいえない。そこを日高以上の牧草地にしなければならなかった。そして、そうした牧場でトレーニングに耐えていく馬を作るためには、馬自身の血統も弱々しいものであってはならなかったのだ。吉田一太郎が重視したのはアウトブリーディングである。極力特定の血を強く持たない異系血脈を集めた馬を求めた。しかも弱い馬ではだめで、それ相応の能力を持っていなければならない。そうした条件にかなった種牡馬がトシハヤであり、カバーラップ二世であり、オーシャチだったのだ。そして、これらの種牡馬には名血が弱いだけに、配合牝馬には名牝を選んだ。小岩井や御料牧場の良血牝馬である。 — 山野浩一『栄光の名馬』246-247頁
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