クモワカ伝貧事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 06:18 UTC 版)
クモワカは1952年の夏に体調を崩し発熱した。クモワカを診察した京都競馬場の獣医師は馬伝染性貧血(伝貧)と診断し、それを受けて京都府知事の蜷川虎三は家畜伝染病予防法第17条により同年12月に同月末までに殺処分を行う旨の通告を出した。しかし伝貧に感染しているという決定的な証拠は現れず、さらに隔離用の厩舎にいたクモワカの健康状態は日を追うごとに回復を見せていたことから厩舎関係者は感染していないのではないかと疑うようになった。馬主の山本谷五郎はクモワカを試験治療用の学術研究馬にしてほしいと京都府に要望し、その結果殺処分は延期され引き続き隔離厩舎に置かれることとなった。 1955年9月、クモワカ陣営は京都府から隔離厩舎改築のため同馬を移動させるよう要請され、北海道早来町の吉田牧場へ移送した。通常競走馬の移送には移動証明書が必要であるにもかかわらずクモワカは証明書なしに移送されたことから行政の目を盗んで密かに移送されたともいわれたが、山本によると実際には京都府がクモワカは競走馬ではなく一般の馬であるから獣医師の証明書のみで移送可能と解釈上の便宜を図ったことで移送が実現した。吉田牧場はクモワカを繁殖牝馬として使役することにし、1956年春から種牡馬との交配を開始。同時に同年8月には丘高という繁殖名で軽種馬登録協会に登録申請を出し、5か月後の1957年1月に申請が受理された。しかし1958年に協会は丘高がクモワカであることを察知し、殺処分の通告が出されている馬の登録はできないと登録の取り消しを通告した。山本はこの処分に反発し、知事による殺処分通告を取り消すよう京都府に働きかけ、1959年3月に蜷川は「再検査の結果陰性と認められた」として取り消し通知を出した。 山本は取り消し通知が出たことを根拠に協会に対し再登録を申請したが、協会は「現在は陰性でも1952年夏の時点では陽性だった可能性があり、再発の可能性もある」として申請を拒否した。これを受けて山本はクモワカと1957年に生まれた産駒「天佑」の登録を請求する民事訴訟を起こした。東京地方裁判所で行われた一審は山本の敗訴に終わったが二審の審理中の1963年に複数の馬主および競走馬生産者が協会に対しクモワカとその産駒の登録を拒否するのは不都合であるとする内容の臨時総会請求趣意書を提出したことで協会は態度を軟化させ、7月に「クモワカの健康診断を行い陰性であると診断された場合には登録を認める」と議決した。診断の結果クモワカは陰性とされ、9月にクモワカとすでに生まれていた産駒の登録が認められた。それに伴い民事訴訟は係争事由が無くなり、終結した。 この一連の騒動・紛争は「クモワカ伝貧事件」といわれる。寺山修司は自身の競馬随筆において「競馬界の岩窟王事件」と表現している。 事件の終結を受け、すでに生まれていた産駒のうち3頭は競走馬としてデビューした。1963年の時点で7歳と高齢だった天佑(競走馬名ツキサクラ)こそ未勝利に終わったものの、ワカクモは桜花賞を優勝するなど11勝を挙げ、ヤマサクラは7勝を挙げた。また事件終結後に生まれたオカクモは4勝、タチクモオーは13勝を挙げた。
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クモワカ伝貧事件
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「吉田牧場 (北海道)」の記事における「クモワカ伝貧事件」の解説
詳細は「クモワカ」を参照 1951年桜花賞2着などの実績を残したクモワカが、1952年夏に流行した家畜伝染病・馬伝染性貧血(伝貧)に罹患したとされ、殺処分命令が下されたことに端を発し、馬主・牧場と行政との間で起こった一連の紛争・騒動を指す。伝貧は非常に感染力が強く、家畜伝染病予防法に基づいて罹患馬の殺処分が義務づけられていたが、クモワカの関係者は様子から見て誤診であると主張し、処分を行わなかった。その後吉田牧場へ送られ、「丘高」と改名して繁殖生活に入ったが、産駒は「殺処分命令を下された馬の仔」であるとして登録を拒否され、これを不服とした馬主側が訴訟を起こすに至った。一審では馬主側が敗訴したが、二審の係争中に登録協会から「健康診断を行い陰性ならば登録を受け付ける」という旨の通告が出され、1963年7月に北海道庁の検診で陰性と認められ、伝貧の診断から12年の歳月を経て3頭の産駒登録が受理された。 丘高はすでに15歳と繁殖牝馬としては高齢となっていたが、同年4月に産んだワカクモが桜花賞に優勝、さらにワカクモの仔であるテンポイント、キングスポイントが活躍し、クモワカの系統は吉田牧場の基礎牝系のひとつとなった。フジヤマケンザン、地方競馬でリーディングサイアーとなったワカオライデン、その兄ワカテンザン、他場の生産であるが1984年の桜花賞優勝馬ダイアナソロンなど、いずれも丘高の子孫である。
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