事件の終結
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9月19日、テッリーニ将軍らの葬儀が行われ、ギリシャ政府は「ギリシャ軍最上層部の謝罪」「被害者の葬儀へのギリシャ政府閣僚の出席」「軍艦のイタリア国旗への敬礼」「軍葬の礼」の4条件を履行した。9月22日には第一回の捜査報告書が委員会に送られ、9月25日と9月26日に報告書を審査した委員会は「事件が純粋な政治的理由によって発生したこと」「ギリシャ政府の捜査に怠慢があったが、これは故意かは不明」「捜査困難のため犯人逮捕に至らない」と判定し、捜査に怠慢があったことを理由とし、罰金の性格を持つ賠償金5千万リラの支払いを全会一致で可決し、ギリシャ政府に伝達した。当初この裁定にイギリス代表が反対したため、イタリアの対英感情は悪化した。9月29日、ギリシャ政府は捜査に怠慢があったという認定を否定し、また賠償金が多額であるうえ先例がないとして抗議し、この事例を国際司法裁判所に提議することを申し入れた。イタリアの世論は賠償獲得を大きな戦果として受け止め、ケルキラ島占領を決定したムッソリーニを称えた 9月27日にはイタリア軍がケルキラ島をギリシャ政府官憲に引き渡した。9月29日にはスイス国立銀行から5千万リラがイタリア政府に引き渡された。イタリア政府は賠償獲得は利益目的ではないと声明し、賠償金のうち1千万リラをギリシャ国内に避難したアルメニア難民(アルメニア人のディアスポラ)救援のためにマルタ騎士団に寄贈し、さらに200万リラを砲撃で死傷したギリシャ人の家族に贈与するとした。
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事件の終結
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/02 14:27 UTC 版)
その後、翌慶応2年2月25日(1866年4月9日)、イギリス政府は間宮一の処刑について満足している旨の書簡がパークスより幕府に奉呈され、事件はイギリスによる賠償金などの要求を見ることなく落着した。 なお、元江戸南町奉行兼外国奉行の山口直毅の談話によれば、山口の南町奉行在任中(慶応元年11月~慶応2年8月)に清水清次を名乗る者が現れたため微罪で捕らえたところ、事件について先に処刑された清水が申し立てたのと細部に至るまで一致した内容の供述を行い、取り調べと審理を担当した公事方の留役を困惑させる出来事があったという。
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