1940 - 1950年代
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「日本の原子力政策」の記事における「1940 - 1950年代」の解説
日本が原子力開発に着手したのは、1952年4月の日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の締結によって、終戦後、実質的な日本の自治が回復したときからと言われ、同年の7月には日本学術会議において、茅誠司、伏見康治の両教授を中心とするメンバーによって「国際的に遅れを取った日本の原子力研究のまきかえし」をどうするかという議題が提案されている。 この提案は、広島で被爆した三村剛昂広島大学教授ら会員による、核兵器に転用される懸念の表明によって、全国の研究者に議論を巻き起こし、日本学術会議内に、理系、文系、法学などの各部門が参加して、原子力研究問題を専門に議論する、「第39委員会」が設置される契機となった。このような経緯で原子力研究にかかわる体制が整うまでは、日本学術会議が議論を担っていた。 学者らの方針とは別に、第二次世界大戦の極東国際軍事裁判でA級戦犯であった後藤文夫元国務大臣ら、政官界有志による原子力政策推進の動きがあり、1952年財団法人電力経済研究所が設立された。 1953年12月、国際連合総会の席で、原子力発電で先んじており、軍事同盟国に原発プラント輸出を進めていたソビエト連邦を牽制するために、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領によって行われた「平和のための原子力」の演説が行われる。演説の骨子は、国際的な枠組みで核の燃料を保管・監視し、必要に応じて各国に分け与えようという内容であった。この構想は若干の修正を受けて、国際原子力機関 (IAEA) として実現された。 この演説によって、政界だけでなく、産業界に「新しい時代に乗り遅れてはいけない」という気運が広がり、演説から3ヶ月後自由党・改進党・日本自由党の共同提案によって、原子力予算が衆議院を通過した(当時、与党は衆議院で過半数の議席を持たず、予算案を通過させたい自由党が、改進党からの原子力予算案を飲む形で成立した)。この突然の予算計上について、政治主導による原子力開発に日本学術会議は危機感を示し、今の日本には原子炉の建設は早すぎると批判している。第39委員会は慎重意見が相次いだ公聴会の意見を集約し、原子力の利用は日本国民による自主的で民主的、かつ研究成果を公開するという運営3方針を決定した。 1954年5月に、内閣の諮問機関として「原子力平和利用準備委員会」が設置され、先に通過した原子力予算の使い道を検討し、小型原子炉の建設と放射能障害の研究の二項目を原子力の平和利用への目標として設定した。そのころ国際的な関心事は、ソビエト連邦、イギリスの実用的な動力炉の成果に注目が集まっていた。アメリカ合衆国は、日本にも期待を示し、燃料供給から炉の設計まで、一貫したコストパフォーマンスの良い経営戦略に注目していた。 1954年3月、アメリカ軍がビキニ環礁での水素爆弾実験「キャッスル作戦」で、第五福竜丸が被爆した。世論は一気に反原子力ムードとなったが、そのような雰囲気の中、当時読売新聞社社主であった正力松太郎が、原子力推進の一大キャンペーンを行い、アメリカ合衆国の原子力平和利用使節団(団長:ジョン・ホプキンスジェネラル・ダイナミクス社社長)を日本に招いた。 この経緯については、アメリカ国立公文書記録管理局で中央情報局関連の機密文書公開が進んだ結果、正力が自己の政治力拡大と原子力利権の確立のためCIAに接触し、コードネームを付与されるまでになっていたものの、結局CIA側の要求と折り合わず、読売新聞主体のキャンペーン協力に終わったことが、有馬哲夫『原発・正力・CIA―機密文書で読む昭和裏面史』により明らかにされている。 1955年12月、自由民主党・日本社会党の両党は協力して、「原子力基本法」、「原子力委員会設置法」、「原子力局設置法」といわれる、原子力三法案をスピード可決させ、政府は「原子力平和利用準備委員会」を解消し、後に発足する「原子力委員会」に役目を預けた。 1956年1月、正力松太郎国務大臣を長とする原子力委員会は、「原子力の平和利用」および「原子力の国際協力」を確認し、日本の従来の研究テーマであった「アイソトープ利用の実用化」に加えて「5年以内に原子力発電を実現させる」という目標を発表した。さらに正力委員長は、目標達成には産業界の協力が不可欠として、「原子力産業会議」を開催し、2月に首相官邸に71名の財界の代表を招いた。3月1日には、日本工業倶楽部に「日本原子力産業会」が発足。初代会長は、電気事業連合会の菅禮之助(東京電力会長)が就任した。湯川秀樹も委員会委員に招かれたが、基礎研究を主張する湯川は、早期実用化を目指す正力と相容れず、1年で委員を辞任した。これ以降、学会は原子力開発の第一線から身を引き始めた。 一方、動力として濃縮ウラン燃料がアメリカ合衆国から貸与されることとなり、保管場所および研究所の設置場所が必要となった。受け入れ機関として、1954年7月に財団法人日本原子力研究所が急遽発足され、候補地が選定された。当時の国内世論は原子力を歓迎するムードであったため、誘致合戦の末、東海村が選ばれたと言われている。 1956年8月、ウラン燃料を調達する機関である、原子燃料公社も発足し、1956年10月、日本は国際原子力機関(IAEA)の憲章に調印して、国際的な枠組みへの参加を果たした。また被爆を研究するための放射線医学総合研究所もスタートした。 当時の原子力委員会の中では、学界の主張する、まずは基礎研究を優先すべきという意見と、財界の主張する、まずは電力需要を鑑みて動力炉建設をという意見が対立したものの、最終的には二つのプロジェクトを独立として同時進行することとなった。1957年12月に、原子力委員会は1975年までに、700万キロワットの原子炉を稼働する目標を発表した。 導入は、アメリカ製とイギリス製のふたつの選択があったが、1kW4円で発電可能なイギリス製を発注することが決定した。日本で最初の動力炉について、河野一郎経済企画庁長官は、リスクが大きいとして、国が管理すべきと考えていたが、委員長であった正力は、電力会社9社と電源開発を中心に運用すべきと、対立したが、1957年8月27日、東海村で日本初の実験炉JRR-1(日本原子力研究所)が臨界に達したことで、イギリスからの動力炉は三菱商事の納入により財界が運用することにまとまった。11月には日本原子力発電株式会社(民間出資8割)が誕生した。このような経緯で、日本原子力発電株式会社の日本原電東海原子力発電所(日本初商用原子炉)には、イギリス製コールダーホール改良型炉の建設が決まった。 しかし、実際に導入してみるとコールダーホール改良型炉は耐震面から商用には問題点が多く、コストパフォーマンスも悪く、日本のウラン鉱脈開発も容易ではないことが明らかになってきた。日本学術会議は1960年1月と3月の会議で、原子力開発は、もっと基礎研究に力を入れて段階的に応用研究へ進んだ方が良いという意見が相次いでいた。 日本で初めて原子力による発電に成功した東海村の実験炉JPDRは、鹿島建設が手掛けた。鹿島建設を「原子力の鹿島」と言わしめるほどに成長させた「鹿島中興の祖」鹿島守之助(自由党のち自民党参議院議員)は原発への参入に熱心であり、鹿島建設役員たちの反対を押し切り社長として参入を決定した。鹿島守之助の思想的・行動的原理は、鹿島本人によると「EUの父」クーデンホーフ=カレルギー伯爵に影響を受けていたわけであり、鹿島が最も影響を受けたクーデンホーフ=カレルギー伯爵の思想は1920年代に発表された「貴族」「技術」「平和」に関する論である。「新しいエネルギー源」の予見などをする一連の論は鹿島守之助が翻訳した『実践的理想主義: 貴族 - 技術 - 平和主義』(1963年)にまとめられた。
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「 原子力発電#歴史」も参照 1954年5月11日の閣議によって わが国将来のエネルギー供給その他のために原子力の平和的な利用を行うものとする。 前項の目的に資するため,小型実験用原子炉を築造することを目標として,これに関連する調査研究および技術の確立等を行うものとする。 との方針が定められる。翌1955年12月19日、原子力の研究、開発、平和利用および将来のエネルギー源の確保などを目的として、原子力基本法が制定。1956年1月1日、総理府原子力委員会が設置された。(総理府は2001年の中央省庁再編により内閣府となる) 当時は軍事的な意味もあって世界的に「プルトニウムの増殖」が期待されていた。アメリカでは1951年に原子力発電が開始されている。 1955年 - 人形峠でウラン鉱床が発見される。 1956年 - 国産のウラン燃料生産を目的として特殊法人原子燃料公社発足 1956年 - 国産原子炉の開発を目的として特殊法人日本原子力研究所発足 1957年 - 日本における商用原子炉の開発・運営を目的として、九電力会社および、政府電源開発の出資で、特殊法人日本原子力発電が発足
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