1940 - 1950年代とは? わかりやすく解説

1940 - 1950年代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 16:17 UTC 版)

日本の原子力政策」の記事における「1940 - 1950年代」の解説

日本原子力開発着手したのは、1952年4月日本国との平和条約サンフランシスコ講和条約)の締結によって、終戦後実質的な日本自治回復したときからと言われ同年7月には日本学術会議において、茅誠司伏見康治の両教授中心とするメンバーによって「国際的に遅れを取った日本原子力研究まきかえし」をどうするかという議題提案されている。 この提案は、広島被爆した三村剛昂広島大学教授会員による、核兵器転用される懸念表明によって、全国研究者議論巻き起こし日本学術会議内に、理系文系法学などの各部門参加して原子力研究問題専門議論する、「第39委員会」が設置される契機となったこのような経緯原子力研究にかかわる体制が整うまでは、日本学術会議議論担っていた。 学者らの方針とは別に第二次世界大戦極東国際軍事裁判A級戦犯であった後藤文夫国務大臣ら、政官界有志による原子力政策推進動きがあり、1952年財団法人電力経済研究所設立された。 1953年12月国際連合総会の席で、原子力発電先んじており、軍事同盟国に原発プラント輸出進めていたソビエト連邦牽制するために、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領によって行われた平和のための原子力」の演説が行われる。演説骨子は、国際的な枠組み燃料保管監視し必要に応じて各国分け与えようという内容であった。この構想若干修正受けて国際原子力機関 (IAEA) として実現された。 この演説によって、政界だけでなく、産業界に「新し時代乗り遅れてはいけない」という気運広がり演説から3ヶ月自由党改進党日本自由党共同提案によって、原子力予算衆議院通過した当時与党衆議院過半数議席持たず予算案通過させたい自由党が、改進党からの原子力予算案を飲む形で成立した)。この突然の予算計上について、政治主導による原子力開発日本学術会議危機感示し、今の日本には原子炉の建設は早すぎると批判している。第39委員会は慎重意見相次いだ公聴会意見集約し原子力の利用日本国民による自主的民主的、かつ研究成果公開するという運営3方針決定した1954年5月に、内閣諮問機関として「原子力和利準備委員会」が設置され先に通過した原子力予算使い道検討し小型原子炉建設放射能障害研究二項目を原子力の平和利用への目標として設定した。そのころ国際的な関心事は、ソビエト連邦イギリス実用的な動力炉成果注目集まっていた。アメリカ合衆国は、日本にも期待示し燃料供給から炉の設計まで、一貫したコストパフォーマンス良い経営戦略注目していた。 1954年3月アメリカ軍ビキニ環礁での水素爆弾実験キャッスル作戦」で、第五福竜丸被爆した世論一気反原子ムードとなったが、そのような雰囲気の中、当時読売新聞社社主であった正力松太郎が、原子力推進一大キャンペーン行いアメリカ合衆国原子力和利使節団団長:ジョン・ホプキンスジェネラル・ダイナミクス社社長)を日本招いた。 この経緯については、アメリカ国立公文書記録管理局中央情報局関連機密文書公開進んだ結果正力自己の政治力拡大原子力利権確立のためCIA接触しコードネーム付与されるまでになっていたものの、結局CIA側の要求折り合わず読売新聞主体キャンペーン協力終わったことが、有馬哲夫原発正力CIA機密文書で読む昭和裏面史』により明らかにされている。 1955年12月自由民主党日本社会党の両党は協力して、「原子力基本法」、「原子力委員会設置法」、「原子力設置法といわれる原子力三法案をスピード可決させ、政府は「原子力和利準備委員会」を解消し、後に発足する原子力委員会」に役目預けた1956年1月正力松太郎国務大臣を長とする原子力委員会は、「原子力の平和利用」および「原子力国際協力」を確認し日本従来研究テーマであったアイソトープ利用実用化」に加えて5年以内原子力発電実現させる」という目標発表した。さらに正力委員長は、目標達成には産業界協力不可欠として、「原子力産業会議」を開催し2月首相官邸71名の財界の代表を招いた3月1日には、日本工業倶楽部に「日本原子力産業会」が発足初代会長は、電気事業連合会菅禮之助東京電力会長)が就任した湯川秀樹委員会委員招かれたが、基礎研究主張する湯川は、早期実用化目指す正力と相容れず、1年委員辞任した。これ以降学会原子力開発第一線から身を引き始めた一方動力として濃縮ウラン燃料アメリカ合衆国から貸与されることとなり、保管場所および研究所設置場所が必要となった受け入れ機関として、1954年7月財団法人日本原子力研究所急遽発足され、候補地選定された。当時国内世論原子力歓迎するムードであったため、誘致合戦の末、東海村選ばれと言われている。 1956年8月ウラン燃料調達する機関である、原子燃料公社発足し1956年10月日本国際原子力機関(IAEA)の憲章調印して国際的な枠組みへの参加果たした。また被爆研究するための放射線医学総合研究所スタートした当時原子力委員会の中では、学界主張する、まずは基礎研究優先すべきという意見と、財界主張する、まずは電力需要鑑みて動力炉建設をという意見対立したものの、最終的に二つプロジェクト独立として同時進行することとなった1957年12月に、原子力委員会1975年までに、700キロワット原子炉稼働する目標発表した導入は、アメリカ製イギリス製のふたつの選択があったが、1kW4円で発電可能なイギリス製を発注することが決定した日本最初動力炉について、河野一郎経済企画庁長官は、リスク大きいとして、国が管理すべきと考えていたが、委員長であった正力は、電力会社9社と電源開発中心に運用すべきと、対立したが、1957年8月27日東海村日本初実験炉JRR-1日本原子力研究所)が臨界達したことで、イギリスからの動力炉三菱商事納入により財界運用することにまとまった11月には日本原子力発電株式会社民間出資8割)が誕生したこのような経緯で、日本原子力発電株式会社日本原電東海原子力発電所日本初商用原子炉)には、イギリスコールダーホール改良型炉の建設決まった。 しかし、実際に導入してみるとコールダーホール改良型炉は耐震面から商用には問題点多くコストパフォーマンス悪く日本ウラン鉱開発容易ではないことが明らかになってきた。日本学術会議1960年1月3月会議で、原子力開発は、もっと基礎研究力を入れて段階的に応用研究進んだ方が良いという意見相次いでいた。 日本初め原子力による発電成功した東海村実験炉JPDRは、鹿島建設手掛けた鹿島建設を「原子力鹿島」と言わしめるほどに成長させた「鹿島中興の祖鹿島守之助自由党のち自民党参議院議員)は原発への参入に熱心であり、鹿島建設役員たちの反対押し切り社長として参入決定した鹿島守之助思想的行動的原理は、鹿島本人によると「EUの父」クーデンホーフ=カレルギー伯爵影響受けていたわけであり、鹿島が最も影響受けたクーデンホーフ=カレルギー伯爵思想1920年代発表された「貴族」「技術」「平和」に関する論である。「新しいエネルギー源」の予見などをする一連の論は鹿島守之助翻訳した実践的理想主義: 貴族 - 技術 - 平和主義』(1963年)にまとめられた。

※この「1940 - 1950年代」の解説は、「日本の原子力政策」の解説の一部です。
「1940 - 1950年代」を含む「日本の原子力政策」の記事については、「日本の原子力政策」の概要を参照ください。


1940 - 1950年代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 16:17 UTC 版)

日本の原子力政策」の記事における「1940 - 1950年代」の解説

原子力発電#歴史」も参照 1954年5月11日閣議によって わが国将来エネルギー供給その他のために原子力平和的な利用を行うものとする前項目的資するため,小型実験用原子炉築造することを目標として,これに関連する調査研究および技術確立等を行うものとする。 との方針定められる。翌1955年12月19日原子力研究開発、平和利用および将来エネルギー源確保などを目的として、原子力基本法制定1956年1月1日総理府原子力委員会設置された。(総理府2001年中央省庁再編により内閣府となる) 当時軍事的な意味もあって世界的にプルトニウム増殖」が期待されていた。アメリカでは1951年原子力発電開始されている。 1955年 - 人形峠ウラン鉱床が発見される1956年 - 国産ウラン燃料生産目的として特殊法人原子燃料公社発足 1956年 - 国産原子炉の開発目的として特殊法人日本原子力研究所発足 1957年 - 日本における商用原子炉の開発運営目的として、九電力会社および、政府電源開発出資で、特殊法人日本原子力発電発足

※この「1940 - 1950年代」の解説は、「日本の原子力政策」の解説の一部です。
「1940 - 1950年代」を含む「日本の原子力政策」の記事については、「日本の原子力政策」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「1940 - 1950年代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「1940 - 1950年代」の関連用語

1940 - 1950年代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



1940 - 1950年代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの日本の原子力政策 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS