勝海舟
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栄典・授章・授賞
- 位階
- 明治5年6月15日 - 従四位[56]
- 1874年(明治7年)2月18日 - 正四位[57]
- 1887年(明治20年)12月26日 - 従三位[58]
- 1888年(明治21年)10月20日 - 正三位
- 1894年(明治27年)6月30日 - 従二位[59]
- 1899年(明治32年)1月20日 - 正二位
- 勲章等
- 1887年(明治20年)5月9日 - 伯爵[60]
- 1889年(明治22年)
- 1892年(明治25年)3月5日 - 御紋付御盃
- 1896年(明治29年)3月28日 - 金盃一個
- 1898年(明治31年)12月28日 - 旭日大綬章[63]
記念館や記念碑、銅像

(墨田区役所うるおい広場)
- 洗足池(東京都大田区)のほとりに海舟の晩年の邸宅「千束軒(洗足軒)」があったが戦災で焼失した。隣の鳳凰閣(旧・清明文庫)は大田区が取得し、「勝海舟記念館」として整備した[64]。千束軒跡の傍らには海舟夫妻の墓があるほか、その隣には海舟が自費で建設した「西郷南洲留魂碑」が、その隣には海舟と西郷隆盛の江戸城無血開城の偉業をたたえた徳富蘇峰の詩碑が建立されている。
- 「勝海舟生誕地碑」:海舟は父小吉の実家である男谷家で生まれた。現在、跡地は両国公園となっており、公園内に碑が立っている。
- 「西郷南洲勝海舟会見之地」碑(東京都港区芝):江戸城無血開城を取り決めた勝・西郷会談が行われた薩摩藩邸跡地に建っている。
- 「勝海舟銅像」(東京都墨田区吾妻橋):墨田区役所(リバーピア吾妻橋)に隣接する「うるおい広場」に2003年7月21日(海の日)、今日の東京の発展の基礎を作った海舟の功績を顕彰するために、有志(勝海舟の銅像を建てる会)一般からの寄付金などで建てられた。
- 「勝海舟寓居地」(和歌山県和歌山市船大工町):文久3年(1863年)、幕府より紀州の海岸防衛工事の監督として赴任した際に暮らしていた居宅跡を顕彰する石碑。
評価
- 日本史上稀代の外交手腕と慧眼を備えた政治家・戦略家・実務家と評し心酔するファンがいる一方、理科系の教養に暗く[注釈 26][66]、大言壮語する成り上がりとして非常に毛嫌いする人も旧幕時代からいた。
- 西郷隆盛 「勝氏へ初めて面会し候ところ実に驚き入り候人物にて、どれだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候、英雄肌で、佐久間象山よりもより一層、有能であり、ひどく惚れ申し候」
- 坂本龍馬 「日ノ本第一の人物」
- 栗本鋤雲 「羞恥心を知らない者」[67]
- 小栗忠順 「勝は有害な人間である。我は彼を除かんと欲す」[68]
- 大村益次郎 「どうも勝安房と云う人は大家である。幕府の人には、珍しい人じゃ。どうもあの一人は違っている」[69]
- 福澤諭吉 「やせ我慢をせぬもの」[70]
- 三浦梧楼 「勝海舟、機智の人であったろうが、俺は好かぬ人であった」[71]
- 伊藤痴遊
- 「先生に会ってみると、その態度は余りに無造作であり、十年も馴染んだ人の如く少しの隔たりも置かずに、叱り付けもすれば、教えてもくれる。毒舌、風刺は言うも更なり、縦横無尽に説き立てる。その調子には少なからず驚かされた。ちょいちょいお訪ねしてみたが、難しい事をやさしく話す談論の骨は実に絶妙と言うべく、大いに得る所があった。時にはその経歴を聞かされ、幕末時代の人物や大きい出来事について、軽妙な比喩を交えながら話されるうちには、種々の教訓が含まれていた」[72]
- 「『(自分の先祖は)わしの想像では十五か六歳で僅かの銭を持って国を離れたのであるし、それに生まれつきの盲目ということぢゃから、まァ乞食のようなものぢゃったろう。元来、小千谷という所が瞽女の本場という事で、冬を越してから雪が解ける頃になると、破れ三味線を背負って、道中を稼ぎながら江戸へ出てくるという事を聞いているから、要するにその仲間ぢゃったろう。ハッハッハッ...』偉くなった人は先祖の事を自慢らしく話もすれば、また話すほどの先祖がなければ、わざわざ先祖を拵えて吹き立てるものである。然るに海舟はそんな事に頓着なく、先祖は瞽女と一緒に出て来た乞食のようなものだろうと平気で哄笑されたのだから、わたしも意外の思いをした」[72]
- 蘭学への素養を活かして、洋書翻訳で得た知見を国内に紹介することで洋式砲術家としての名声を得ていたが、上記のように理数系の素養に暗かったこともあって海軍の実務には暗く、また知己を得ていた豪商たちからの影響もあって、その海軍論は海軍と海運の区別が不明瞭であるなど、西洋海軍の実態にそぐわない観念的な部分が多かった[73]。ただし長崎海軍伝習を通じて頻繁に練習航海を経験していたことから、内海・沿岸航海についてはある程度の水準に達しており、咸臨丸に便乗していたブルック大尉は、外洋航行中の指揮には不足な点が多かったとする一方、浦賀入港の際の操艦については「非常に巧みに船を操った」と評価している[74]。
- このためもあって海軍からも嫌われており、文久3年8月16日に軍艦組の頭取以下全員が辞職を楯にストライキを敢行、海舟が説得に当たる騒ぎに発展した[注釈 27]。また、文久3年12月28日から翌4年1月8日にかけて家茂を順動丸に乗せて、海路で2度目の上洛を敢行した際、途中滞在した下田で乗組員と対立して出発延期を押し切られたり、随行した他の船が下田へ戻ったこと、日記で盛んに家茂を褒め称えながら他人や他の船などは書かないなど海軍指揮官として問題が多々見られる[76]。
- 死の3日後、氷川邸に勅使がきて勅語を賜っている。
幕府ノ末造ニ方リ体勢ヲ審ニシテ振武ノ術ヲ講シ皇運ノ中興ニ際シ旧主ヲ輔ケテ解職ノ実ヲ挙ク爾後顕官ニ歴任シテ勲績愈々彰ル今ヤ溘亡ヲ聞ク曷ソ軫悼ニ勝ヘン茲ニ侍臣ヲ遣シ賻賵ヲ齎シテ以テ弔慰セシム
注釈
- ^ 現在の東京都墨田区両国の一部。当時の本所亀沢町と現在の墨田区亀沢とは町域が重なっていない。
- ^ 墨田区立両国公園(両国4-25)内に「勝海舟生誕之地」碑が建っている。また、墨田区役所敷地(吾妻橋1-23)内には勝海舟像が建つ。
- ^ 現在の新潟県柏崎市の一部。
- ^ 男谷家は平蔵が継ぎ旗本となり、次男で小吉の兄彦四郎思孝、その次は思孝の従甥で男谷忠之丞の子信友(下総守、剣聖・精一郎)が継いだ[6]。
- ^ 浅草新堀。現在の台東区元浅草、三筋付近。
- ^ 後に妹の順子は象山に嫁いでいる。
- ^ 富田鉄之助作成の年譜で開塾が海舟の父が死んだ同年9月と一緒に記録されているため、年は特定出来ても月日が分からない。また、杉と佐藤の入門時期は佐藤が安政元年10月28日と記録に書かれているが、杉は諸説ありはっきりしない[10]。
- ^ 第一期から三期まで在籍したことを「勝は成績が悪く、三度落第した」とする文献もある。航海術に必要な数学(算数)が苦手だったようである。ただし、これは反勝派の旧幕臣から出たものであり、事実とは言いがたいという反論もある。オランダ教官からは非常に評価されているとのことである。
- ^ 妻には「ちょっと品川へ船を見に行ってくる」とだけ言って出かけたらしい[17]。
- ^ この時の海舟の船酔いについては、実は海舟が何らかの伝染病に罹っており、自らを隔離するために船室に引き籠もっていたとする説もある。
- ^ 帰路もアメリカ人が乗船したとの説もある。
- ^ この会議での対応は木村の面目を潰す行為だったが、海舟はなんら気にせずに開陳、11月に再度開かれた会議では無言で通した。以後も木村の対応はぞんざいで、日記では同じ船に乗ったこと、木村と会ったことなどが書かれていない[20]。
- ^ 神戸は平安時代末の平清盛以来の国際貿易港であったが、それは朝鮮・中国を相手にしたものである。その神戸を西欧諸国との貿易のために活かそうとした点で海舟の提案は斬新だった。
- ^ この塾頭が坂本龍馬だった。また、塾生には後の外務大臣陸奥宗光や海軍元帥伊東祐亨、元老院議官湯地定基らがいた。
- ^ 海舟が主張する攘夷は、外国と戦えば負けることを前提に、戦争よりも寧ろ戦後処理を重視している。戦争に負けて天下に攘夷が不可能なことを知らしめ人心を一新、加えて外国と攘夷論者に怯えて消極的な対応しか出来ない幕臣も追放、武備を充実させて世論を統一させた上で改めて外国との条約締結を論じている。これは既に春嶽や小楠が公議政体論と重ねて言っていることで、彼らと同志である海舟もこの種の大開国論者になっていた[22]。
- ^ 逆にそうでない期間には本など読まなかったとも述べている。
- ^ 後に軍事総裁として全権を委任され、旧幕府方を代表する役割を担うという説明があるが、松浦はこの説を否定、若年寄に任命された旗本集団(浅野氏祐・川勝広運ら)が事実上幕府の全権を担い(後に一翁も若年寄に就任)、海舟は若年寄を辞退し彼らの下に置かれている事実を強調している。一方、不平分子を退散させるため、新選組の近藤勇・土方歳三らに甲陽鎮撫隊と改称させ甲府城へ向かわせ、古屋佐久左衛門率いる衝鋒隊を別方面に出発させている[28]。
- ^ 例えば高橋敏の『清水次郎長と幕末維新』(岩波書店、2003年)などで清水次郎長とその配下に護衛を依頼したとする説を一次資料を提示しない「通説」としてとりあげているが、高橋自身も賛同はしておらず『清水次郎長とその周辺』の増田知哉や藤田五郎、村本喜代作、長谷川昇、戸羽山翰も同様である旨を明記しておく。また海舟と次郎長について交際のあった一次資料はない。同じ3月に街道警護役を伏谷如水から押し付けられた件と混同している向きもある。
- ^ 海舟自身は日記・座談で明言していないが、津本陽・檜山良昭ら多くの作家が調査のうえ、海舟が知識としては持っており参考にした可能性が高いと論じている。
- ^ 海舟の政治構想はなるべく400万石を保った徳川の存続を図り、徳川を含めた諸侯から一律の割合で費用を徴収、政治体制は公議政体論の実現を目指した物だったが、上野戦争を経て新政府が旧幕府に妥協する必要がなくなると海舟の構想も頓挫してしまった。失敗の原因である彰義隊について海舟は暴発を防ごうと説得に当たったが失敗、彼らを扇動したとして寛永寺執当の覚王院義観を激しく非難している[36]。
- ^ 勝海舟は、慶応4年6月3日(1868年7月22日)の日記(『海舟日記』)に以下のように記し、人材不足と時勢への乗り遅れを指摘し、会津藩を非難した。 「榎本和泉白戸石介仙臺米澤の議論を助けて衆評せむと云 我見る所別にあり 此大意を挙て答ふ 當今大事を成すは國の大にあらす人の多きにあらす唯人才に在り 今哉東國人才あるを聞かす 唯大國と人衆を頼みて策略甚疎なり 且小是を守て別に大是あるを知らす 又彼を詳察せす己を斗らす如何そ全勝を算せん哉 誠に鎖国の陋習と泰平の名分を頼みて天下の形勢を洞察せす 會藩忠あるに似て其實は非なり 徳川氏今日の事、會の爲に誤らるる者十にして八九 是を知らすして慢に干戈を起さむとす 亦危からすや 我如何そ是を頼まむ云々」 国立国会図書館デジタルコレクション『海舟全集 第九巻 (海舟日記其他)』153頁 「海舟日記」 慶応4年6月3日 (著者:勝安芳 出版者:改造社 発行:昭和3年(1928年)11月5日) (2018年10月10日閲覧。)
- ^ 当時、明治天皇の侍従を務めていた山岡鉄舟を介して西郷の赦免、西郷の遺児を江戸に呼ぶことを明治天皇に提案している。その後、西郷の嫡男・寅太郎は明治政府に採用されてポツダム陸軍士官学校留学を命ぜられ、庶長子菊次郎は外務書記生としてアメリカ公使館勤務となった。また、西郷の甥で弟・吉二郎の長男の隆準も寅太郎と同行し留学を希望したので、海舟は徳川家から借金をして寅太郎と隆準の留学の際の餞別金350円を手渡している。
- ^ 作家の山田風太郎は、自身の著書『人間臨終図巻』の中で、海舟のこの言葉を「臨終の際の言葉としては最高傑作」と評している。
- ^ 当初は子爵の内示だったが、左記の感想を述べ辞退、のちに伯爵を授爵したという説と伯爵叙爵の祝いの席に子爵叙爵と勘違いして来た客をからかって詠んだ歌という説がある。だが、宮島誠一郎が語った上記の逸話を踏まえれば「伯爵叙爵の祝いの席に子爵叙爵と勘違いして来た客をからかって詠んだ歌」という説の方が自然とも言える。勝の身長は実際に五尺ちょっとで、当時の人の中にあっては実際人並みであるが、西郷など長身だった者も維新で活躍した中には多く、その自身の身長に掛けている。事実、勝は自分のことをよく「小男」などと表現している。
- ^ 新政府への遠慮、旧時代との決別などではなく、7月8日(8月15日)に新政府が「百官受領」を廃止すると布告したため、勝安房(守)が使用できなくなったからである。この布告により名を改めた同様の例として、大目付や箱館奉行などを歴任した織田泉之(旧名は信重。官途名は和泉守)がいる。
- ^ 数学が必須の海軍伝習で、幕臣関係同期生39人中留年者は勝ほか4人であった[65]。
- ^ この騒動の結末は書かれていないため不明だが、翌9月に海舟が順動丸に老中酒井忠績を乗せて江戸から大坂へ向かったため、ストライキはうやむやに終わったのではないかと推測されている[75]。
- ^ 海舟没後、勝家は男子の後継者を法的に定めておらず、女戸主となり一旦爵位を返上している。なお精の代に3回家宝の売立てを行っている[80]。
出典
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