勝海舟と神戸海軍操練所とは? わかりやすく解説

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勝海舟と神戸海軍操練所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 05:55 UTC 版)

坂本龍馬」の記事における「勝海舟と神戸海軍操練所」の解説

龍馬文久2年1862年8月江戸到着して千葉道場寄宿した。この期間、龍馬土佐藩同志のほか長州藩久坂玄瑞高杉晋作らと交流している。12月5日龍馬間崎哲馬近藤長次郎とともに幕府政事総裁職にあった福井藩主・松平春嶽拝謁した12月9日、春嶽から幕府軍奉行並・勝海舟への紹介状受けた龍馬門田為之助近藤長次郎は海舟の屋敷訪問して門人となった龍馬千葉重太郎開国論者の海舟を斬るために訪れたが、逆に世界情勢海軍必要性説かれ龍馬大い感服し、己の固陋恥じてその場で海舟の弟子になったという話が広く知られており、この話は海舟本人明治23年に『追賛一話』で語ったものが出典である。だが、春嶽から正式な紹介状受けて訪問であること、また海舟の日記記載されている12月29日千葉重太郎訪問時にはすでに龍馬弟子であった可能性があることから、近年では前述龍馬と海舟との劇的な出会いの話は海舟の誇張、または記憶違いであるとする見方が強い。いずれにせよ龍馬が海舟に心服していたことは姉・乙女の手紙で海舟を「日本第一人物」と称賛していることによく現れている。 勝海舟山内容堂取りなして、文久3年1863年2月25日龍馬脱藩の罪は赦免され、さらに土佐藩士が海舟の私塾入門することを追認した。龍馬は海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走し土佐藩出身者千屋寅之助、新宮馬之助望月亀弥太近藤長次郎沢村惣之丞高松太郎安岡金馬らが海舟の門人加わっている。また、龍馬土佐勤王党岡田以蔵を海舟の京都での護衛役にし、海舟が路上で3人の浪士襲われた際に以蔵がこれを一刀のもとに斬り捨てた事件この頃のことである。 幕府要人各藩藩主海軍設立必要性説得するため、海舟は彼らを軍艦便乗させて実地経験させた。4月23日14代将軍・徳川家茂軍艦順動丸」に乗艦のあと、「神戸海軍操練所設立許可を受け同時に海舟の私塾神戸海軍塾)開設認められた。幕府から年三千両経費支給承諾されたが、この程度の資金では海軍操練所運営賄えず、そのため5月龍馬福井藩出向して松平春嶽から千両借入れした。5月17日付の姉・乙女の手紙で「この頃軍学者勝麟太郎大先生門人になり、ことの外かわいがられ候…すこしエヘンに顔をし、ひそかにおり申し候。エヘンエヘン」 と近況知らせている。 龍馬神戸海軍操練所設立のために方々奔走していた最中同年4月土佐藩情勢変わり下士階層武市半平太藩論主導していることに不満を持っていた山内容堂再度実権取り戻すべく、吉田東洋暗殺下手人探索命じ土佐勤王党粛清乗り出した6月勤王党間崎哲馬平井収二郎弘瀬健太切腹させられた。平井の妹・加尾龍馬恋人とされる女性で、龍馬6月29日の手紙で姉・乙女へ「平井収二郎のことは誠にむごい、妹の加尾嘆きいかばかりかと書き送っている。また、同じ手紙攘夷決行して米仏軍艦と交戦して苦杯喫した長州藩情勢と(下関戦争)、その際幕府姦吏異人内通し外国艦船修理をしていることについて強い危機感抱き「右申所の姦吏一事に軍いたし打ち殺、日本今一度洗濯いたし申し候」 と述べている。 8月18日倒幕勢力最有力であった長州藩京都における勢力一網打尽にすべく、薩摩藩会津藩手を組み八月十八日の政変」が起きた。これにより京都政情一変し佐幕派が再び実権握った8月天誅組大和国挙兵したが、翌9月壊滅して吉村虎太郎那須信吾多く土佐脱藩志士討ち死にしている(天誅組の変)。土佐では9月武市半平太投獄され土佐勤王党壊滅状態に陥っていた(武市1年半入牢後の慶応元年5月切腹となっている)。 10月龍馬神戸海軍塾頭に任ぜられた。翌元治元年1864年2月前年申請した帰国延期申請拒否されると、龍馬海軍操練所設立仕事続けるために再び藩に拘束されることを好まず藩命無視して帰国拒絶して再度脱藩をする。2月9日、海舟は前年5月から続いている長州藩による関門海峡封鎖調停のために長崎出張命令を受け、龍馬もこれに同行した熊本龍馬横井小楠訪ねて会合し、小はその返書として海舟に『海軍問答』を贈り海軍建設に関する提案をした。 5月龍馬生涯伴侶となる楢崎龍お龍)と出会い、のちに彼女を懇意にしていた寺田屋女将お登勢預けている。5月14日、海舟が正規軍艦奉行昇進して神戸海軍操練所発足した6月17日龍馬下田で海舟と会合し、京摂の過激の輩数十人(あるいは200人ほど)を蝦夷地開拓通商送り込む構想話し老中水野忠精承知し資金三、四千両集めていると述べている。 この時点では龍馬と海舟は知らなかったが、6月5日池田屋事件起きており京都情勢大きく動いていた。池田屋事件肥後藩宮部鼎蔵長州藩吉田稔麿多く尊攘派志士落命または捕縛され死者中には土佐北添佶摩望月亀弥太もいた。北添は龍馬開拓構想していた蝦夷地周遊した経験のある人物で、望月神戸海軍塾の塾生であった八月十八日の政変池田屋事件のあと、長州藩薩摩会津勢力によって一掃された。7月19日京都政治の舞台に戻ることを目標とした長州軍約3,000御所目指し進軍したが、一日戦闘幕府勢力敗れた禁門の変)。それから少しあとの8月5日長州英米四カ国艦隊による下関砲撃受けて大打撃を蒙った(下関戦争)。禁門の変長州兵が御所発砲したことで長州藩朝敵宣告を受け、幕府この機に長州征伐発令した二度敗戦により長州藩には抗する戦力はなく、11月責任者三家老が切腹し降伏恭順した(長州征討)。 お龍後年回想によると、これらの動乱最中8月1日龍馬お龍内祝言挙げている。8月中旬頃に龍馬は海舟の紹介受けて薩摩西郷隆盛面会し龍馬は海舟に対して西郷印象を「少し叩けば少し響き大きく叩けば大きく響く」と評している。 望月の件に続き塾生安岡金馬が禁門の変長州軍に参加していたことが幕府から問題視され、さらに海舟が老中阿部正外不興買ったこともあり、10月22日に海舟は江戸召還を命ぜられ、11月10日には軍艦奉行罷免されてしまった。これに至って神戸海軍操練所廃止避けられなくなり龍馬塾生後事を心配した海舟は江戸へ出立する前に薩摩藩城代家老小松帯刀に彼らを託して薩摩藩庇護依頼した慶応元年1865年3月12日神戸海軍操練所廃止になった

※この「勝海舟と神戸海軍操練所」の解説は、「坂本龍馬」の解説の一部です。
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