勝海舟 人物

勝海舟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/18 02:38 UTC 版)

人物

逸話

トラウマ
9歳のころ、狂犬に睾丸を噛まれて70日間(50日間とも)生死の境をさまよっている(「夢酔独言」)。この時父の小吉は水垢離(みずごり)をして息子の回復を祈願した。
福沢諭吉との関係
木村喜毅の従者という肩書きにより自費で咸臨丸に乗ることができた福沢諭吉は、船酔いもせず病気もしなかった。一方、海舟は伝染病の疑いがあったため自室にこもりきり艦長らしさを発揮できなかった。諭吉はそれをただの船酔いだと考えていたようで、海舟を非難する格好の材料としている。また、海舟の方も福沢諭吉にあまりいい印象を抱いていなかったとされる[要出典]
福沢諭吉の海舟批判
慶應義塾を興した福沢諭吉だったが西南戦争が始まると薩摩出身の学生が大量に退学するなどして一時その経営が危ぶまれた。当時勝が経済的に困窮した旧幕臣に対して比較的分け隔てなく大金を無担保無期限で融通していたので諭吉は借金を勝に申し入れてたが勝は福沢が三田に1万5000坪にも及ぶ広大な敷地を持っていたことを知っていた為土地を売却しても尚苦しいようであれば貸すと断った。だが福沢は三田の土地を気に入っていたので遂に売却することをしなかった[要出典]
明治34(1901)年になって諭吉が主宰していた「時事新報」に<痩我慢の説>という諭吉の勝海舟批判のコラムが掲載された。敵に対して勝算がない場合でも、力の限り抵抗することが武士のやせ我慢であり、佐幕派の諸藩と連携して徹底抗戦、討ち死にするべきだったのに降伏して江戸城を明け渡してしまった。こんなことは世界でも類をみないことで外国人は冷笑したであろう、と海舟の講和を厳しく非難した。「殺人散財は一時の禍にして士風の維持(痩我慢)は万世の要なり」と説いている。また勝が維新後に枢密院顧問を務め伯爵に叙されたことなどを指し、薩長人と並び立って得々名利の地位に居る、明治政府に仕えて名利を貪(むさぼ)っていると強く弾劾した[要出典]
海舟批判書状の『瘠我慢の説』への勝の回答
「自分は古今一世の人物でなく、皆に批評されるほどのものでもないが、先年の我が行為にいろいろ御議論していただき忝ない」として、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候(世に出るも出ないも自分がすること、それを誉める貶すは他人がすること、自分はあずかり知らぬことと考えています)」として、特に弁明も批判もしなかった。
尚、福沢諭吉は後の自伝で「人に借用すれば必ず返済せねばならぬ。当然のことでわかり切っている。返済する金が出来るくらいならば出来る時節まで待っていて借金はしないと覚悟を決めてきた。過去一度も借りたことが無い」と綴っている[要出典]
咸臨丸の実情
和船出身の水夫が60人。士分にはベッドが与えられていたが水夫は大部屋に雑魚寝。着物も布団もずぶ濡れになり、航海中晴れた日はわずかで乾かす間もなかった。そのため艦内に伝染病が流行し、常時14、5人の病人が出た(今でいう悪性のインフルエンザか)。サンフランシスコ到着後には3人が死亡、現地で埋葬された。ほかにも7人が帰りの出港までに完治せず、現地の病院に置き去りにせざるを得なかった。病身の7人だけを残すのが忍びなかったのか、水夫の兄貴分だった吉松と惣八という2名が自ら看病のため居残りを申し出た。計9人の世話を艦長の海舟は現地の貿易商チャールズ・ウォルコット・ブルックスに託し、充分な金も置いていった。ブルックスは初代駐日公使ハリスの友人で、親日家だった。
受爵の時
受爵の時の話を海舟が亡くなった際に宮島誠一郎がこう話している。
「授爵の時は、伊藤サンから手紙が来た。勝が、御受けせぬであろうが、ドウゾ、君の尽力で、ススメてくれという事で。固より好まない事は知れているが、また固より受けても相当の事と思うから、行った。スルト、運動に出たという事でおばあさんが出てきて、断ったが、是非会って申さなければならぬことだからと言って、待っていたが、ドウしても還って来ぬ。ヤット十二時頃になって、今帰りましたということであった。それから、話すとイツモの調子ではなく、厳然として、その受けられぬ訳を答えた。真に、功もなく、恐れ多いというのだ。なかなかむつかしい。それで、これではイカヌと思って、コッチモ勝流をキメテ、ソウ言った。「勝サン、それはソウダガ、私は伊藤サンの使いだ。これが西郷ナラ、私も使いにはならんし、また自分で来るだろう。何しろ相手が伊藤サンだから、ソウイジメないでもイイではないか、モウこれで二時だが、ドウか受けてくれ」と言ったら、ソレデようやくマトマッタ。」[52]
なお、この明くる日の受爵に本人は行かず代理で済ませたようである。
亡くなった時の様子について
海舟が亡くなる直前の様子について、長年女中を務めていた増田糸子がこう話している。
「あの日は、お湯からお上りなすって、大久保の帰るのは(大久保一翁の子供の帰朝)昨日だか、今日だっけと、仰しゃっただけで、それからハバカリからお出になって、モウ褥の方へいらっしゃらず、ココの所へ倒れていらっしゃいますから、ドウなすったかとビックリしました。死ぬかも知れないよと仰しゃって、ショウガ湯を持って来いと仰しゃいましたが、間に合いませんから、ブランデーをもって参りました。油あせが出るからと仰しゃいますので、お湯はその時モウ落としてしまいましたから、あちらで取って参りましたから、それで一度おふきなすったのです。それで、奥さまに申し上げまして、コチラにお出でになりました時には、モウ何とも仰しゃらず、極く静かにお眠りでした。」[53]
徳富蘇峰との関係
徳富蘇峰は明治20年代に赤坂氷川の海舟の邸内の借家(名義は勝の長女の嫁ぎ先の内田氏)に住み勝の教えを受け、海舟を生涯の師の一人と仰いでいる。蘇峰は「勝先生と相見たのは先生の六十歳以後であり、立てば小兵で別段偉丈夫らしく見えぬが、ただ五尺の短身すべてエネルギーというべきもので、手を触れれば花火を飛ばすごとき心地がした。先生が正面から人を叱りつけたことは見たこともなく、聞いたこともなかったが、その上げたり下げたり、人をひやかすことの辛辣手段に至っては、いかなる傑僧の毒話も及ぶところではない。誰でも先生に面会すれば、一度は度肝を抜かれた。先生は何人に対しても、出会い頭に真拳毒手を無遠慮に下した。それを辛抱して先生の訓えを聴かんとする者には必ず親切、丁寧に、手を取らんばかりに教え導いてくれた。」と書き残している[54]
上記のように海舟の人となりを最大限に讃えている蘇峰だが、晩年の勝の放言には閉口することもあったようで、「惜しむらくはあまりにも多弁」とも書き残している。
高橋敏は、著書で福澤諭吉が蘇峰の書いた文章を読んで驚き、『瘠我慢の説』を執筆したとしている[55]
岡田以蔵の護衛
龍馬の推薦で以蔵が勝の護衛をしていた。京の夜道で刺客に襲われた時、以蔵が救っている。[56]
その他
  • 新谷道太郎 によれば、「殿様に呼ばれて出ると、『小僧オレの所に何しに来たか』と問われました。『日本一の知恵者の顔を見たいので』と言いますと『だれがオレを日本一の知恵者と言ったか』と言われます。『世間の人が皆申します』と言うと、勝様は嘆息して『それなら、オレは、日本一の知恵者ではない。日本一の知恵者なら、世間の者には分からぬはずじャ、我が知恵を人の前に隠すことが出来ぬようでは、オレは、二流の人物じャ』と言われた」とのこと[57]

語録

  • 勝ちを望めば逆上し措置を誤り、進退を失う。防御に尽くせば退縮の気が生じ乗ぜられる。だから俺はいつも、先ず勝敗の念を度外に置き虚心坦懐事変に対応した。[要出典]
  • 自分の価値は自分で決めることさ。つらくて貧乏でも自分で自分を殺すことだけはしちゃいけねぇよ。[要出典]
  • オレは、(幕府)瓦解の際、日本国のことを思って徳川三百年の歴史も振り返らなかった。[要出典]
  • どうも、大抵の物事は(外部からではなく)内より破れますよ。[要出典]
  • 行政改革というものは、余程注意してやらないと弱い物いじめになるよ。肝心なのは、改革者自身が己を改革する事だ。[要出典]
  • やるだけのことはやって、後のことは心の中でそっと心配しておれば良いではないか。どうせなるようにしかならないよ。(日本の行く末等を心配している人たちに)[要出典]
  • いつ松を植えたか、杉を植えたか、目立たないように百年の大計を立てることが必要さ。[要出典]
  • 文明、文明、というが、お前ら自分の子供に西欧の学問をやらせて、それでそいつらが、親の言うことを聞くかぇ?ほら、聞かないだろう。親父はがんこで困るなどと言ってるよ。[要出典]
  • 敵は多ければ多いほど面白い。(勝自身も、生きている間は無論、亡くなってからも批判者が多いことは、十分に理解していた)
  • 我が国と違い、アメリカで高い地位にある者はみなその地位相応に賢うございます。(訪米使節から帰還し、将軍家茂に拝謁した際、幕閣の老中からアメリカと日本の違いは何か、と問われての答弁)[要出典]
  • ドウダイ、鉱毒はドウダイ。山を掘ることは旧幕時代からやって居たが、手の先でチョイチョイ掘って居れば毒は流れやしまい。海へ小便したって海の水は小便になるまい。今日は文明だそうだ。元が間違っているんだ。(足尾鉱毒事件が明白になってもなお採掘を止めない政府に対して)[要出典]
  • 世の中に無神経ほど強いものはない。[要出典]
  • 今までは人並みなりと思ひしに五尺に足りぬ四尺(子爵)なりとは[注釈 24][要出典]
  • 世間では(日清戦争を)百戦百勝などと喜んで居れど、支那では何とも感じはしないのだ。そこになると、あの国はなかなかに大きなところがある。支那人は、帝王が代らうが、敵国が来り国を取らうが、殆ど馬耳東風で、はあ帝王が代つたのか、はあ日本が来て、我国を取つたのか、などいつて平気でゐる。風の吹いた程も感ぜぬ。感ぜぬも道理だ。一つの帝室が亡んで、他の帝室が代らうが、誰が来て国を取らうが、一体の社会は、依然として旧態を損して居るのだからノー。国家の一興一亡は、象の身体(からだ)を蚊(か)か虻(あぶ)が刺すくらゐにしか感じないのだ。ともあれ、日本人もあまり戦争に勝つたなどと威張つて居ると、後で大変な目にあふヨ。剣や鉄砲の戦争には勝つても、経済上の戦争に負けると、国は仕方がなくなるヨ。そして、この経済上の戦争にかけては、日本人はとても支那人には及ばないだらうと思ふと、俺は密かに心配するヨ。[要出典]
  • 日清戦争には、おれは大反対だつたよ。なぜかつて、兄弟喧嘩だもの犬も喰はないじゃないか。たとえ日本が勝つてもドーなる。支那はやはりスフインクスとして外国の奴らが分らぬに限る。支那の実力が分つたら最後、欧米からドシドシ押し掛けて来る。ツマリ欧米人が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。一体支那五億の民衆は日本にとつては最大の顧客サ。[要出典]
  • 世間は生きている。理屈は死んでいる。(氷川清話)[要出典]

注釈

  1. ^ 現在の東京都墨田区両国の一部。当時の本所亀沢町と現在の墨田区亀沢とは町域が重なっていない。
  2. ^ 墨田区立両国公園(両国4-25)内に「勝海舟生誕之地」碑が建っている。また、墨田区役所敷地(吾妻橋1-23)内には勝海舟像が建つ。
  3. ^ 現在の新潟県柏崎市の一部。
  4. ^ 男谷家は平蔵が継ぎ旗本となり、次男で小吉の兄彦四郎思孝、その次は思孝の従甥で男谷忠之丞の子信友(下総守、剣聖・精一郎)が継いだ[6]
  5. ^ 浅草新堀。現在の台東区元浅草、三筋付近。
  6. ^ 後に妹の順子は象山に嫁いでいる。
  7. ^ 富田鉄之助作成の年譜で開塾が海舟の父が死んだ同年9月と一緒に記録されているため、年は特定出来ても月日が分からない。また、杉と佐藤の入門時期は佐藤が安政元年10月28日と記録に書かれているが、杉は諸説ありはっきりしない[10]
  8. ^ 第一期から三期まで在籍したことを「勝は成績が悪く、三度落第した」とする文献もある。航海術に必要な数学(算数)が苦手だったようである。ただし、これは反勝派の旧幕臣から出たものであり、事実とは言いがたいという反論もある。オランダ教官からは非常に評価されているとのことである。
  9. ^ 妻には「ちょっと品川へ船を見に行ってくる」とだけ言って出かけたらしい[17]
  10. ^ この時の海舟の船酔いについては、実は海舟が何らかの伝染病に罹っており、自らを隔離するために船室に引き籠もっていたとする説もある。
  11. ^ 帰路もアメリカ人が乗船したとの説もある。
  12. ^ この会議での対応は木村の面目を潰す行為だったが、海舟はなんら気にせずに開陳、11月に再度開かれた会議では無言で通した。以後も木村の対応はぞんざいで、日記では同じ船に乗ったこと、木村と会ったことなどが書かれていない[20]
  13. ^ 神戸は平安時代末の平清盛以来の国際貿易港であったが、それは朝鮮・中国を相手にしたものである。その神戸を西欧諸国との貿易のために活かそうとした点で海舟の提案は斬新だった。
  14. ^ この塾頭が坂本龍馬だった。また、塾生には後の外務大臣陸奥宗光や海軍元帥伊東祐亨、元老院議官湯地定基らがいた。
  15. ^ 海舟が主張する攘夷は、外国と戦えば負けることを前提に、戦争よりも寧ろ戦後処理を重視している。戦争に負けて天下に攘夷が不可能なことを知らしめ人心を一新、加えて外国と攘夷論者に怯えて消極的な対応しか出来ない幕臣も追放、武備を充実させて世論を統一させた上で改めて外国との条約締結を論じている。これは既に春嶽や小楠が公議政体論と重ねて言っていることで、彼らと同志である海舟もこの種の大開国論者になっていた[22]
  16. ^ 逆にそうでない期間には本など読まなかったとも述べている。
  17. ^ 後に軍事総裁として全権を委任され、旧幕府方を代表する役割を担うという説明があるが、松浦はこの説を否定、若年寄に任命された旗本集団(浅野氏祐川勝広運ら)が事実上幕府の全権を担い(後に一翁も若年寄に就任)、海舟は若年寄を辞退し彼らの下に置かれている事実を強調している。一方、不平分子を退散させるため、新選組近藤勇土方歳三らに甲陽鎮撫隊と改称させ甲府城へ向かわせ、古屋佐久左衛門率いる衝鋒隊を別方面に出発させている[28]
  18. ^ 例えば高橋敏の『清水次郎長と幕末維新』(岩波書店、2003年)などで清水次郎長とその配下に護衛を依頼したとする説を一次資料を提示しない「通説」としてとりあげているが、高橋自身も賛同はしておらず『清水次郎長とその周辺』の増田知哉や藤田五郎、村本喜代作、長谷川昇、戸羽山翰も同様である旨を明記しておく。また海舟と次郎長について交際のあった一次資料はない。同じ3月に街道警護役を伏谷如水から押し付けられた件と混同している向きもある。
  19. ^ 海舟自身は日記・座談で明言していないが、津本陽・檜山良昭ら多くの作家が調査のうえ、海舟が知識としては持っており参考にした可能性が高いと論じている。
  20. ^ 海舟の政治構想はなるべく400万石を保った徳川の存続を図り、徳川を含めた諸侯から一律の割合で費用を徴収、政治体制は公議政体論の実現を目指した物だったが、上野戦争を経て新政府が旧幕府に妥協する必要がなくなると海舟の構想も頓挫してしまった。失敗の原因である彰義隊について海舟は暴発を防ごうと説得に当たったが失敗、彼らを扇動したとして寛永寺執当の覚王院義観を激しく非難している[36]
  21. ^ 勝海舟は、慶応4年6月3日(1868年7月22日)の日記(『海舟日記』)に以下のように記し、人材不足と時勢への乗り遅れを指摘し、会津藩を非難した。 「榎本和泉白戸石介仙臺米澤の議論を助けて衆評せむと云 見る所別にあり 此大意を挙て答ふ 當大事を成すはの大にあらすの多きにあらす唯人才に在り 今哉東國人才あるを聞かす 唯大國と人衆を頼みて策略なり 且小是を守て別に大是あるを知らす 又を詳察せすらす如何そ全勝を算せん哉 誠に鎖国陋習泰平名分を頼みて天下の形勢を洞察せす 會藩あるにて其なり 徳川氏今日の事、の爲に誤らるる者十にして八九 是を知らすして干戈を起さむとす 亦からすや 我如何そまむ云々」 国立国会図書館デジタルコレクション『海舟全集 第九巻 (海舟日記其他)』153頁 「海舟日記」 慶応4年6月3日 (著者:勝安芳 出版者:改造社 発行:昭和3年(1928年)11月5日) (2018年10月10日閲覧。)
  22. ^ 当時、明治天皇の侍従を務めていた山岡鉄舟を介して西郷の赦免、西郷の遺児を江戸に呼ぶことを明治天皇に提案している。その後、西郷の嫡男・寅太郎は明治政府に採用されてポツダム陸軍士官学校留学を命ぜられ、庶長子菊次郎は外務書記生としてアメリカ公使館勤務となった。また、西郷の甥で弟・吉二郎の長男の隆準も寅太郎と同行し留学を希望したので、海舟は徳川家から借金をして寅太郎と隆準の留学の際の餞別金350円を手渡している。
  23. ^ 作家の山田風太郎は、自身の著書『人間臨終図巻』の中で、海舟のこの言葉を「臨終の際の言葉としては最高傑作」と評している。
  24. ^ 当初は子爵の内示だったが、左記の感想を述べ辞退、のちに伯爵を授爵したという説と伯爵叙爵の祝いの席に子爵叙爵と勘違いして来た客をからかって詠んだ歌という説がある。だが、宮島誠一郎が語った上記の逸話を踏まえれば「伯爵叙爵の祝いの席に子爵叙爵と勘違いして来た客をからかって詠んだ歌」という説の方が自然とも言える。勝の身長は実際に五尺ちょっとで、当時の人の中にあっては実際人並みであるが、西郷など長身だった者も維新で活躍した中には多く、その自身の身長に掛けている。事実、勝は自分のことをよく「小男」などと表現している。
  25. ^ 新政府への遠慮、旧時代との決別などではなく、7月8日(8月15日)に新政府が「百官受領」を廃止すると布告したため、勝安房(守)が使用できなくなったからである。この布告により名を改めた同様の例として、大目付箱館奉行などを歴任した織田泉之(旧名は信重。官途名は和泉守)がいる。
  26. ^ 数学が必須の海軍伝習で、幕臣関係同期生39人中留年者は勝ほか4人であった[67]
  27. ^ この騒動の結末は書かれていないため不明だが、翌9月に海舟が順動丸に老中酒井忠績を乗せて江戸から大坂へ向かったため、ストライキはうやむやに終わったのではないかと推測されている[77]
  28. ^ 海舟没後、勝家は男子の後継者を法的に定めておらず、女戸主となり一旦爵位を返上している。なお精の代に3回家宝の売立てを行っている[82]

出典

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