更迭
「更迭」とは、組織の要職・重職の地位にある人を解任して他の者を登用する(入れ替え人事を行う)ことを意味する表現である。とりわけ「政府が大臣や政党幹部を解任する」ことを指す意味で用いられることが多い。大臣に限らず、行政機関の要職、大企業の重役などが解任される場合にも、しばしば「更迭」の表現が用いられる。
「更迭」の「更」も「迭」も、どちらも「入れ替える」「入れ替えて新しいものにする」という意味の字である。「迭(てつ)」の字が用いられる表現は、一応「迭立(てつりつ)」のような言葉も挙げられるが、一般的な文脈の中ではもっぱら「更迭」の語でのみ用いられる字といえる。
「更迭」と「クビ」「左遷」「罷免」の違い
「更迭」は、肩書を外す、そのポストから解任する、という人事を指す語として主に用いられる。要職の地位を失うことにはなるが、辞職させられるわけではない。ヒラに戻るだけである。「罷免」は主に公務員について、「職務をやめさせる」ことを指す意味で用いられるが、こちらは要職のポストから解任するだけでなく、解雇・辞職まで含む処遇を指す意味で用いられることが多い。
「左遷」は、今より低い地位・役職に落とす処遇を指す意味で用いられる表現。要職から閑職へ異動させられること。今までの肩書は解かれる場合が多く、その意味で「更迭」の意味を含む。「罷免」の意味は含まないといえる。
「クビ」は一般的に職を解くこと、解雇すること、辞職させることを指す表現である。カタカナ表記されることが多く、多分に通俗的なニュアンスを含む。「馘(くび)」および「馘首(かくしゅ)」ともいう。
更迭(こうてつ)
ある地位に就いている人の役職を解き、そこに別の人を充てることを指す。通常は任命権者の意向に沿って、辞表を提出することによって行われる。
内閣総理大臣(首相)には、内閣を構成する国務大臣(閣僚)を任命するとともに、閣僚を罷免する権限が与えられている。内閣の統一性を維持するため、首相は任意に閣僚を辞めさせることができる。
しかし、罷免という強硬な手段を発動すると、罷免された者の肩書きに大きな傷が残ってしまう。そこで、辞めさせたい閣僚に対して辞表の提出を促し、その辞表を受理するという手続きで閣僚の人事異動を実現させている。
過去の例を見ても、「一身上の都合」や人事異動の結果として辞任するケースが目立つ。任命権者に罷免の意向があっても、形式的には辞意の表明に留まることから、マスコミ用語として「事実上の更迭」という言葉が使われるわけだ。
小泉純一郎首相に更迭された田中真紀子大臣の場合、この人事異動が「更迭」であることを明言した。田中大臣は辞表への署名を留保しているが、口頭で辞意を表明したことから、政府は田中大臣が辞表に署名しなくても法的な問題なく免官したという立場をとっている。
(2002.01.31更新)
更迭
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更迭(こうてつ)とは、人事処置の一つ。
- ^ 鳩山大臣更迭 バランス欠いた首相の判断 琉球日報 2009年6月13日
- ^ 宮路厚労副大臣を更迭へ 帝京大医学部入試口利き 共同通信 2002年7月12日
- ^ 駐ロシア大使更迭へ 北方領土対応で情報収集不十分 朝日新聞 2010年12月23日
- ^ 西山審議官を更迭 保安院、週刊誌で女性問題報道「報道業務に支障」 産経新聞 2011年6月29日
- ^ 組合活動「ヤミ専従」隠しで秘書課長ら更迭…農水省 ZAKZAK 2009年3月26日
- ^ 「浜渦副知事を事実上更迭 石原都政、特別職一新へ 共同通信 2005年5月30日
- ^ 「政治活動関わった」 橋下氏が市幹部6人更迭へ 読売新聞 2011年12月16日
- ^ 民主が衆院で造反7委員長更迭 安保委員長に笹木氏 産経新聞 2012年7月5日
- ^ 空自トップを更迭 懸賞論文で「日本の侵略ぬれぎぬ」 朝日新聞 2008年10月31日
- ^ 足利署長を更迭 部下を激しく叱責 産経新聞 2011年10月26日
- ^ 運行妨害の最高検公判部長を更迭 電車ドアにかばん挟む 共同通信 2012年10月16日
- ^ 混乱収まらぬ自民=幹事長更迭論も 時事通信 2010年3月14日
- ^ 米ヤフー、CEO更迭は電話一本で 産経新聞 2011年9月8日
- ^ ルセイ監督を更迭…松井のサンテティエンヌ ZAKZAK 2008年11月11日
更迭
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「チャールズ・A・パウナル」の記事における「更迭」の解説
南鳥島攻撃からクェゼリン攻撃までの間、パウナルの指揮ぶりには一定の不満と擁護の声があがっていた。不満の焚きつけ役は、「ヨークタウン」艦長で「ジョッコー」ことジョゼフ・J・クラーク大佐(アナポリス1918年組)だった。チェロキーの血を引くクラークの目には、パウナルの指揮ぶりは消極的に映り、実際に航空出身者からはそのように思われても仕方ない行動が目立った。以下はその一例である。 南鳥島攻撃の際、対空砲火で撃墜された機のクルーが漂流しているとの報告を受けたクラークは、パウナルにその救助を進言するも、パウナルは一定の捜索を終えると潜水艦に捜索任務を丸投げし、攻撃隊の収容を全て終えて即座に南鳥島近海から離れた。 パウナルは操艦や艦隊運動に口やかましく、また計画針路は断固として修正させなかった。それがために事故を起こしかけた艦があった。 パウナルは空母任務部隊の指揮を引き受けたことを後悔する発言を繰り返した。 タラワ攻撃最終日、パウナルは自分が戦死した際の覚書を、以前からの不文律があるにもかかわらず作成させた。 クェゼリン攻撃で、第一撃をかけて攻撃隊を収容し終わるや否や、パウナルは「部隊を敵の真っ只中にとどめておくのは危険」とばかりにさっさと東方へ引き上げさせた。しかし、攻撃隊の報告ではロイ=ナムル島の航空基地に無傷の日本機がいることを確認していた。 クラークは一連の不満をパウナル自身やスプルーアンス以外に対して片っ端から訴えに出た。具体的には、不満の届け先はタワーズ、ニミッツ、キング、そしてフランクリン・ルーズベルト大統領であった。クェゼリン攻撃での事項に関してはタワーズも不満を感じており、ニミッツにパウナルを更迭してはどうかと進言していた。上述のようにニミッツはタワーズを煙たがっていたものの、タワーズの参謀長だったフォレスト・シャーマン(アナポリス1918年組)を自身の航空参謀として融通してもらい、航空関係者の評価についてタワーズの助言を求めるなど、関係に微妙な変化が起きていた。 一方、パウナルの直接の上官であるスプルーアンスは全く逆の評価だった。また、リーもパウナルの指揮ぶりに一定の評価を与えており、スプルーアンスへの手紙の中でパウナルが指揮する航空作戦を見るのが楽しみなこと、戦闘機の運用が巧みであることを伝えていた。しかし、パウナルの処遇をめぐる話はパウナル本人やスプルーアンス抜きで進み、12月末にいたってニミッツ、タワーズ、太平洋艦隊参謀長の「ソック」ことチャールズ・マクモリス少将(アナポリス1912年組)、そしてシャーマンによる四者会談がもたれ、この会談でついにパウナルの更迭が決まり、その後任にはパウナルの後任として西海岸艦隊航空団指揮官を務めていたミッチャーに決まった。相談なく一方的に人事を決められたスプルーアンスは怒りを見せ、タワーズが言うところの、パウナルは「パイロットたちの信頼を失っている」という非難はナンセンスであるとし、「タワーズは野心的な動機からパウナル更迭のような人事をニミッツに提案した」と思い込んで、のちの会談で意見が真っ向から対立して妥協の余地もなかったこともあって、スプルーアンスはタワーズを敵とみなして憎み、「野心家」と決めつけて嫌うようになった。 パウナルの指揮ぶりが本当に批判の対象になりえたのかは見方はさまざまである。真偽のほどはともかく、「パウナルはクエーカーだから強引な戦闘を好まなかった」と主張する者もいる。少なくとも、「レキシントン」と「インディペンデンス」が反撃で損傷したことと、「攻撃が不徹底」と指摘されながらも第50任務部隊の艦艇の損害がその程度に収まったことは確定しており、また潜水艦によるパイロット救助任務が本格的に行われ始めたのも、第50任務部隊の作戦を通じてのことだった。潜水艦によるパイロット救助任務は以後の海軍の作戦はもとよりアメリカ陸軍航空軍にも適用され、例えば日本本土空襲を行うB-29も、その恩恵にあずかった。パウナルは決して、クラークあたりが指摘するところの「及び腰で潜水艦に捜索任務を丸投げしていた」わけではなく、むしろ後任のミッチャーがこのやり方を「伝授」され、少しやり方を修正しつつスタンダードにしていった。これによりパイロットの士気は高く維持され、高度に訓練されたパイロットの損失はできる限り低減された。タワーズが批判したクェゼリン攻撃でも、写真偵察により建設中の爆撃機用滑走路が発見されたため、クェゼリン攻略の期日が繰り上げられた。爆撃機用滑走路のある島の攻略が優先されていたからである。 しかしながら、パウナルの更迭は本決まりとなって待命状態となり、1944年2月23日付で太平洋艦隊副司令官として転出するタワーズと入れ替わるようにハワイの太平洋航空部隊司令官となることが決まった。ハワイに転出するまでの間、ミッチャーをなおも信用していなかったスプルーアンスは、パウナルを自分の航空助言者として帯同させた。もっとも、2月17日のトラック島空襲を境にスプルーアンスはミッチャーへの偏見を改め始め、2月23日のマリアナ諸島空襲はスプルーアンスとミッチャーが完全に意見を一致させて行われた最初の作戦となった。ミッチャー就任後に第58任務部隊と呼称されるようになった高速空母任務部隊は2月20日にクェゼリンに帰投し、パウナルの「役目」もここで終わった。パウナルは太平洋航空部隊司令官の職をしばらく務めた後、太平洋を離れてフロリダ州ペンサコーラにある海軍飛行学校(英語版)に教官として赴任した。
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更迭
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「ダグラス・マッカーサー」の記事における「更迭」の解説
11月28日になって、ようやくマッカーサーは軍司令に撤退する許可を与え、第8軍は平壌を放棄し、その後38度線の後方に撤退した。巧みに撤退戦を指揮していた第8軍司令官のウォルトン・ウォーカー中将であったが、12月23日、部隊巡回中に軍用ジープで交通事故死した。マッカーサーはその報を聞くと、以前から決めていた通り、即座に後任として参謀本部副参謀長マシュー・リッジウェイ中将を推薦した。急遽アメリカから東京に飛んだリッジウェイは、12月26日にマッカーサーと面談した。マッカーサーは「マット、君が良いと思ったことをやりたまえ」とマッカーサーの持っていた戦術上の全指揮権と権限をリッジウェイに与えた。リッジウェイはマッカーサーの過ちを繰り返さないために、即座に前線に飛んで部隊の状況を確認したが、想像以上に酷い状況で、敗北主義が蔓延し、士気は低下し、指揮官らは有意義な情報を全く持たないという有様だった。リッジウェイは軍の立て直しを精力的に行ったが、中国人民志願軍の勢いは止まらず、1950年1月2日はソウルに迫ってきた。リッジウェイはソウルの防衛を諦め撤退を命じ、1月4日にソウルは中国人民志願軍に占領されることとなった。 中国の義勇軍の人海戦術に押され、マッカーサーとワシントンはパニック状態に陥っていた。マッカーサーは大規模な増援と、原爆使用も含めた中国東北部空爆を主張したが、第二次世界大戦後に常備軍の大幅な縮小を行ない、ヨーロッパでソ連と向き合うアメリカ軍に、大規模な増援を送る余裕はなかった。中国東北部への爆撃は戦争の拡大をまねき、また原爆については、朝鮮の地勢と集約目標がないため現実的ではないと否決された。マッカーサーは雑誌のインタビューに答える形で「中国東北部に対する空襲の禁止は、史上かつてないハンディキャップである」と作戦に制限を設けているトルーマンをこき下ろし、また中国軍に追われ敗走しているのにもかかわらず「戦術的な撤退であり、敗走などと広く宣伝されているのは全くのナンセンスだ」と嘯いた。トルーマンは激怒し、ワシントン中枢のマッカーサーへの幻滅感は増していった。マッカーサーからの批判に激怒したトルーマンは、統合参謀本部に命じてマッカーサーに対し、公式的な意見表明をする場合は上級機関の了承を得るようにと指示させたが、マッカーサーはこの指示を無視し、その後も政治的な発言を繰り返した。 ソウルから撤退したリッジウェイであったが、撤退はそこまでで、国連軍を立ち直らせると、1月26日には戦争の主導権を奪い返すための反転攻勢サンダーボルト作戦を開始し、中国の義勇軍の攻勢を押し留めた。マッカーサーはこの時点で中国が全面的に介入してきていると考え、ワシントンに再度前の話を蒸し返し、「国連軍が蹂躙されないためには、中国沿岸を封鎖し、艦砲射撃と空爆で戦争遂行に必要な工業力を破壊」することと国民党軍を参戦させるなど、中国との全面戦争突入を主張した。しかしトルーマンの方針は、日本か台湾が脅かされれば対中国の本格的作戦に突入するが、それ以外では紛争は朝鮮半島の中に限定するとの意向であり、マッカーサーにたしなめるような長文の返答をしている。参謀総長オマール・ブラッドレーはマッカーサーの戦争拡大要求は、戦争の状況よりむしろ「自分のような軍事的天才を虚仮にした中国紅軍の将軍たちへの報復」に関係があると推測していた。 しかし、リッジウェイは現有通常戦力でも韓国を確保することは十分可能であると判断しており、中国軍の第3期攻勢を撃破すると2か月で失地を取り戻し、1951年3月には中国軍を38度線まで押し返した。戦況の回復はリッジウエイの作戦指揮によるもので、マッカーサーの出番はなかったため、それを不服と思ったマッカーサーは脚光を浴びるためか、東京から幕僚と報道陣を連れて前線を訪れた。しかしある時、リッジウェイが計画した作戦開始前にマッカーサーが前線に訪れて報道陣に作戦の開始時期を漏らしてしまい、リッジウェイから自重してほしいとたしなめられている。マッカーサーの軍歴の中で、真っ向から部下に反抗されたのはこれが初めてであった。リッジウェイは自伝でマッカーサーを「自分でやったのではない行為に対しても、名誉を主張してそれを受けたがる」と評している。 ワシントンは、この時点では朝鮮半島の武力統一には興味を示さず、アメリカ軍部隊を撤退させられるような合意を熱望していた。一方マッカーサーは、リッジウェイの成功が明らかになると、自分の存在感をアピールするためか「中国を1年間で屈服させる新しい構想」を策定したとシーボルドに話している。のちにこれは「最長でも10日で戦勝できる」に短縮された。その構想とは、戦後マッカーサーが語ったところによれば、満州に50個もの原爆を投下し中ソの空軍力を壊滅させた後、海兵隊と中国国民党軍合計50万名で中国軍の背後に上陸して補給路を断ち、38度線から進撃してきた第八軍と中朝軍を包囲殲滅、その後に日本海から黄海まで朝鮮半島を横断して放射性コバルトを散布し、中ソ軍の侵入を防ぐというもので、この戦略により60年間は朝鮮半島は安定が保てるとしていた。 また、後年リッジウェイは「マッカーサーは、中国東北部の空軍基地と工業地帯を原爆と空爆で破壊した後は残りの工業地帯も破壊し、共産主義支配の打破を目指していた」「ソ連は参戦してこないと考えていたが、もし参戦して来たらソ連攻撃のための措置も取った」と推察している。この考えに基づきマッカーサーは、何度目になるかわからない原爆の前線への移送と使用許可をトルーマンに求めたが、トルーマンは返事を保留した。 マッカーサーへの返答前に、トルーマンは朝鮮問題解決の道を開くため停戦を呼びかけることとし、3月20日に統合参謀本部を通じてマッカーサーにもその内容が伝えられた。トルーマンとの対決姿勢を鮮明にしていたマッカーサーは、この停戦工作を妨害してトルーマンを足元からひっくり返そうと画策、1951年3月24日に一軍司令官としては異例の「国連軍は制限下においても中国軍を圧倒し、中国は朝鮮制圧は不可能なことが明らかになった」「中共が軍事的崩壊の瀬戸際に追い込まれていることを痛感できているはず」「私は敵の司令官といつでも会談する用意がある」などの「軍事的情勢判断」を発表したが、これは中国への実質的な「最後通牒」に等しく、中国を強く刺激した。また、野党共和党の保守派の重鎮ジョーゼフ・ウィリアム・マーティン・ジュニア前下院議長からマッカーサーに宛てた、台湾の国民党兵力を利用する提案とトルーマン政権のヨーロッパ重視政策への批判の手紙に対し、マッカーサーがマーティンの意見への賛同とトルーマン政権批判の返事を出していたことが明らかになり、一軍司令官が国の政策に口を出した明白なシビリアン・コントロール違反が相次いで行われた。これは、1950年12月にトルーマンが統合参謀本部を通じて指示した「公式的な意見表明は上級機関の了承を得てから」にも反し、トルーマンは「私はもはや彼の不服従に我慢できなくなった」と激怒した。 またこの頃になるとイギリスなどの同盟国は、マッカーサーが中国との全面戦争を望んでいるがトルーマンはマッカーサーをコントロールできていない、との懸念が寄せられ、「アメリカの政治的判断と指導者の質」に対するヨーロッパ同盟国の信頼は低下していた。もはやマッカーサーを全く信頼していなかったトルーマンは、マッカーサーの解任を決意した。 4月6日から9日にかけてトルーマンは、国務長官ディーン・アチソン、国防長官ジョージ・マーシャル、参謀総長オマール・ブラッドレーらと、マッカーサーの扱いについて協議した。メンバーはマッカーサーの解任は当然と考えていたが、それを実施するもっとも賢明な方法について話し合われた。また皮肉にもこの頃にマッカーサーの構想を後押しするように、中国軍が中国東北部に兵力を増強し、ソ連軍も極東に原爆も搭載できる戦略爆撃機を含む航空機500機を配備、中国東北部には最新レーダー設備も設置し、日本海に潜水艦を大規模集結し始めた。これらの脅威に対抗すべく、やむなくマッカーサーの申し出通り4月6日に原爆9個をグアムに移送する決定をしている。しかし、マッカーサーが早まった決断をしないよう強く警戒し、移送はマッカーサーには知らせず、また原爆はマッカーサーの指揮下にはおかず戦略空軍の指揮下に置くという保険をかけている。 4月10日、ホワイトハウスは記者会見の準備をしていたが、その情報が事前に漏れ、トルーマン政権に批判的だった『シカゴ・トリビューン』が翌朝の朝刊に記事にするという情報を知ったブラッドレーが、マッカーサーが罷免される前に辞任するかも知れないとトルーマンに告げると、トルーマンは感情を露わにして「あの野郎が私に辞表をたたきつけるようなことはさせない、私が奴をくびにしてやるのだ」とブラッドレーに言った。トルーマンは4月11日深夜0時56分に異例の記者会見を行い、マッカーサー解任を発表した。解任の理由は「国策問題について全面的で活発な討論を行うのは、我が民主主義の立憲主義に欠くことができないことであるが、軍司令官が法律ならびに憲法に規定された方式で出される政策と指令の支配をうけねばならぬということは、基本的問題である」とシビリアン・コントロール違反が直接の理由とされた。 日本時間では午後にこの報は日本に達したが、マッカーサーはそのとき妻のジーンと共に、来日した上院議員ウォーレン・マグナソンとノースウエスト航空社長のスターンズと会食をしていたが、ラジオでマッカーサー解任のニュースを聞いた副官のシドニー・ハフ大佐は電話でジーンにその情報を伝えた。その後、ブラッドレーから発信された「将軍あての重要な電報」が通信隊より茶色の軍用封筒に入った状態でハフの手元に届いた。その封筒の表には赤いスタンプで「マッカーサーへの指示」という文字が記してあった。ハフはマッカーサーが居住していたアメリカ大使公邸にこの封筒を持って行ったが、マッカーサーの寝室の前にいたジーンがその封筒を受け取り、寝室のマッカーサーに黙って渡した。内容を読み終えたマッカーサーはしばらく沈黙していたが、やがて夫人に向かって「ジーニー、やっと帰れるよ」と言った。 その電報にはトルーマンよりの解任の命令の他、「指揮権はマシュー・B・リッジウェイ陸軍大将に移譲されたい。あなたは好きな場所に望みどおりの旅行を行うために必要な命令を出すことが許される」とも記しており、突然の解任劇にも冷静だったマッカーサーは、フィリピンと南太平洋とオーストラリアをゆっくり回ろうとも考えたが、かつて参謀総長として仕えた元大統領のハーバート・フーヴァーから国際電話があり、既に共和党の実力者とも連絡を取り合っていたフーヴァーは「トルーマンやマーシャルや、やつらの宣伝屋が君の名声を汚さないうちに、一日も早く帰国したまえ」と忠告している。共和党は、マッカーサーが帰国後に両院合同会議で演説することを民主党支配であった上下両院で了承させ、さらにマッカーサーの解任問題を通じてトルーマン政権を弾劾することも考えていた。アメリカ本国の政権争いに担ぎ出されることとなったマッカーサーであったが、腹心であったGHQのウィリアム・ジョセフ・シーボルド外交局長には本心をさらけ出しており、「(マッカーサーの)心を傷つけられるのは、大統領の選んだやり方にある。陸軍に52年も我が身を捧げたあと、公然たる辱めを受けるとはあまりに残酷である」とトルーマン対する不満を述べ、それを涙を浮かべながら聞いていたシーボルトは「彼(マッカーサー)のすることを目にし、言うことを聞いているのがこのときほどつらいことはなかった」と述べている。
※この「更迭」の解説は、「ダグラス・マッカーサー」の解説の一部です。
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