第3編の内容とは? わかりやすく解説

第3編の内容

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 08:32 UTC 版)

支那思想及人物講話」の記事における「第3編の内容」の解説

第1次世界大戦以来我々を痛感させる社会現象は、社会あらゆる方面に於る道徳的進歩である。社会道徳的自覚と従ってその制裁偶々厳正になったがためで、私はそこに却って動かすべからざる社会道徳的進歩発見する道徳根柢自覚にある。自覚伴わぬ行為決し道徳的とはいえない。その自覚発達こそ即ち現代道徳的進歩雄弁語っている。孔子精神春秋乱世当たって社会道徳的秩序恢復し、人間理想的社会生活道徳的国家に於て実現せんとしたのである孔子は現在紛乱せる社会にまだ一脈恢復すべき秩序生気認めて、そして周室を中心とする社会階級の統整を企てた。彼は彼の時代に於て極端な改造運動のなお更社会救いうもない乱脈に陥れることを恐れて先ず現在の社会状態をそのままできるだけ収拾し、そこに新たなる道徳的活動実現せんとした。ゆえに彼は大義名分を以て階級自覚喚起し、礼を説いて生活の放肆矯めようとしたのである。そこで第一に君臣の義厳しく説かれた。臣の道即ち忠は、子の道即ち孝と併せて儒家根本信条となり、後世儒教といえば直ち忠孝想起せられ、それが特に我が国に入るに及んで国情との契合がその驚くべき発達生じたのである真正儒家どういう風に政治解し統治機関観察して居ったかを公平に述べるのは、儒教解釈のために極めて必要なことと思う。 中世キリスト教流行とともにローマ教会属す僧侶唱導した神政主義神法主義のことを神学的法理思想、と呼ぶ。腕力の勝つところは外面的服従に過ぎないから、これを更に内面的に服従させねば、到底長き真の服従を得ることができない腕力依る服従内燃的に把握する、即ち叛逆叛逆たらしめずしてこれを易世革命とするためには、要する神意振りかざして権力者意志否定するが一番である。ゆえに神学的法理思想はこの意味に於て革命的思想権力者の側より言えば油断のならぬ危険思想であろう中国独特の拜天思想政治上これと同じ意義有する元来天なる語は、簡明に説明すれば有形意義に於ける天、即ち我ら日常仰ぐ天と、無形意義に於ける天とに二分される。無形意義に於ける天は、万有創造し支配する最高絶対のもの、或いは自己実現せんとする一般者というような観念と、法則或いは運命を指す観念との二種を含んでいる。穿袍的老天爺(袍の長者の意味)などと擬人的に視ることもある。その万有創造し支配する最高絶対者自己実現せんとする一般者が蒼天にその徴を表せるものとして、民族的に天を信仰し、これを祭った人間も天に依り造られた、天の支配生きるのである天の法則天理或いは天道外れ天の命背いた者は到底生存することはできない代々権力者は皆この天命真っ向振り翳すことに依り首尾好く天下掌握し、またその天命空しく他に利用せられたためにその権力奪い去られた。もし万乗天子といえども天子天の元子という文字示せ如く、常に天に対して隷属的関係に立つものであるから、民族独特の拜天思想こそ一面に於いては実に主権者の最も油断のならぬ革命思想危険思想といわねばならない儒家依る万物は生の泉を天に汲む。天は万物創造して生成進化の因を与える。人も生を天に享ける。ただし、自然に放置すれば種々な障害のためにその生を全うすることができぬ。天は生民統制してこれを支配し、これを誘導するように生民元首定めた元首人民に対して支配者であると同時に教育者なければならぬ。聡明有徳なることを要する天命を奉体して、民の生を全くするに努力する哲人称して天子という。天子ほど尊い職分はなく、人民天子に対して絶対に敬を致さねばならないさて、或る人が天子であること、天命存在は何に依って知ることができるか。何が天命代表するか。生民天命代表する。天は民を生じ、その生を遂げめんがために天子命ずるから、必然に天命生民輿論となって表現せられる民心或る人に向かって傾くとき、厳かな天意啓示されている。民心天子より離反したときは、天はその天子与えた命令撤回したことを啓示している。是の如き天子を殺すも、決して君を弑するではなく一夫の紂を誅するのである――孟子――。この思想一種暴君討伐論である。ただし、西洋暴君討伐論は以下の如し君主の統治君民間の契約に依って発生するものであり、人民君主人民安寧秩序保持し福利増進すべきことを条件として、之に主権委託し、之に服従約したのであるから、この条件遵守しない君主最早暴君である。人民是の如き暴君討伐する権利無ければならない――ユニウス・ブルツス、ジョージ・ブキャナンら――。これに対して中国暴君討伐論者は、天子天の命享けて生民支配し教育する天命民意に依り代表される民意失い天命背ける天子はすでに天子ではなく匹夫である。ゆえに代わって天命享けた者が之を討伐する何の不可は無い、と論ずる。両者間には用語的差違はあるだけで、討伐正当なることを認め実質差違はない。そこで中国天子位置極めて不安なのである天命死活実質民意在る。しかも民意は常に厳正なものではなくて一度事変に遇えば、煽動政治家のために動乱招きやすい。ゆえに天子たる職分神聖であるが、天子地位決し絶対でも不可侵でもない欧州における如き王権神授説中国では唱導余地がない中世ヨーロッパ帝王皆無条件で神から特権授かったようであるが、中国天子頗る厄介な附款を附せられた。中国では国家存在理由及び統治権根拠一に天意帰して居る。従って、天子天の機関孟子いわゆる天吏)、生民の側より言えば統治最高機関である。天下決し天子私有財産ではなくて生民公物である。明末碩儒黄南宗義)などは、天下元来天下天下であるものを、これを私有財産としたのは秦の始皇に始まるものだと喝破している。すでに天子統治最高機関である。機関とは国体代表してゆくものの謂であるが、常識的に言えば国体役員である。天子人民高等使用人であるとも言える官吏また、決して君の命令なるがゆえにその職に当たる者ではない。君主選任に依り生民のために、無定量勤務義務を負う者である。その勤務自己鞅掌する範囲内事務に就いては、私心去り心身尽くして無限に生民安寧福利のために努力すべき義務を負うて居る。究竟するところ君主官吏同じく機関である。官吏にあっても、当然生民のための官吏であって、民に比すれば君は軽からざるを得ない官吏たることは君王選任に依り君王意志帯びて統治作用輔佐し、完了するのであるから、上に対して従順義務を負うべきは勿論である。しかしながらいかなる場合に於ても常に上の命令従順なるべきものとして、換言すれば、悪法もまた法とし、不法命令もなお君命として常に服従すべきものとするは、これ明らかに官吏本文悖るのである。君は天の命享けて、民の生を育成する機関であり、官吏もまた之に準ずべきものゆえ、民の生を進むるに於て始めて君王の法であり命である。民本思想中国民衆の最も根本的な政治思想である。表面一切天意帰するけれども、いわゆる民の声天の声で、天の命民意に依って代表されるのであるから、人民思想的に非強な強者地位在る。ゆえに暗君は常にいかにして自己の左右荘厳にして、以て人民幻惑せんかと心を悩まし名君は常に王道大成専ら力めるのである中国人民は昔から悪政批難呪咀喧しい。必ずしも政体如何に拘泥するものではない。行政組織如何なろうと、何人天子宰相となろう如何でも好い生民福利如何が唯一の問題である。専制的圧迫といわれる中国帝政時代に、反って暴な程擅に言論が戦わされたことは確かに史上奇観である。言論の自由圧迫両方とも中国では面白い程徹底して居た孟子民本思想を最も露堂々に力説した第一人者である。中国政治思想一貫した理想である哲人主義的民本政治代表的主張といって好い国家要素たる人民土地社稷を以てこれを表徴する)と主権者との中で、人民第一要素土地第二主権者第三とした。天は人民の生を全うせしむるために土地与え主権者命じたのである天の丞民を除斥して統治作用在るべき理由はない。生民国家社会第一要素生民存在する以上、先ず生を託する土地要する。人と土地とあれば主権者無くとも生成作用営まれる最後主権者が、生成作用統制し完成する。ゆえに主権者たる天子は民よりは軽い。天は生民輿論に依ってその意志啓示し生民主権者天子定めたのであるから、天子結局人民の心を得なければ天子はなれない天子生民のために、天の下命に依る天吏である。天吏が生民のために、天意を奉体して自ら選任するものを官吏(臣)という。ゆえに官吏は間接に天に対して生民のために統治を行う責任有って居るのである。その天吏(及び官吏)が存在意義目的たる如何にして生民安寧秩序確保し福利増進するかの道を王道といい、これに反して、吏たる地位利用して、私の野心のために人民手段供して福利謀る覇道称する孟子最たる抱負王道大成に在った。当時斉の宣王宣伝試みたのはその目的出でのである王道生民死活関る問題で、王者及び官吏たることは人間の中で最も大切な尊い職分である。両者人民最上の尊敬受く真の理由その道徳的理由無ければならないそれだけ行動壊ることは又最も憎むべき罪悪となる。孟子暴君討伐論の発生である。宣王君主たる地位を以て神聖不可侵視し、神聖不可侵君主道徳的職分在ることを忘れていた。湯王が桀を、武王が紂を伐ったことを内心奇怪思った孟子はその謬想を喝破した。「仁を破る者は之を賊と謂い、義を破る者は之を残と謂い、残賊の人は之を一夫と謂います。武王如き一夫の紂を誅したので、君を弑したと謂うべきではありませぬ」と。真の君主成立条件仁義なりとした。同様に臣の道を峻烈説く宣王との問答。昔は天子諸侯皆その下に今の国務大臣或いは顧問官相当する卿を置いた。卿という字が章或いは嚮と同意で、道を明らかにする或いは人心の帰嚮することを示す字である。従って王とともに天人に対して常な職責がある。ただ孟子に依ればその卿にも自ら君主血統同じゅうする貴戚の卿と、そうでない異姓の卿の区別があって責任程度異なる。しかし一様に臣列は臣列である。宣王眼中には畢竟臣列があるのみである。王は孟子に卿の責任尋ねた先ず貴戚の卿の責任尋ねた。「君に大過あれば諫めねばなりませぬ。もしいくら諫めて聴かれねばもはや止むを得ぬ君主を易えるのがその職責です。」王は顔色変えた次に異姓の卿の責任を問うた。「君に過あれば諫め、いくら諫めて用いられねば、辞職して去らねばなりませぬ。」孟子統治機関という点に於て君臣平等に考えたのである筆者私見に於て、これらの思想中国国体として何等の奇もない。彼が君臣の義重んずることと、その民本思想とは決し矛盾するものではない。孟子思想孟子思想としてそのままに、飽く迄もその中国独特の妙味失わぬように活かさねばならない。 宋末の処士鄧牧心、明末清初大儒黄宗義思想。牧心は儒家には非ずとの説もあるが、彼の思想飽く迄も儒家である。哲人主義的民本思想主張者である。ただ時代頽廃対す反感憂慮とが一言現在制度否認に度っているに過ぎない。古、天下統治権総攬し生民支配した者は、止むに止まれぬ場合始めてその局に当たった君王となることは寧ろ甚だ苦痛で、決し快楽ではなかった。生民自己に対してその安寧秩序確保し福利増進するために様々な施設要求するが、自己人民に対して何等求むるところも無い。君王生民異ならず、衣も粗末であった住居敢えて輪奐の美を飾るではなく万事民衆何等択ぶところは無かった。そして自由に民衆接触して、彼らの生活を規制して行った民衆君主服従することを苦痛はしないしかるに一度秦王政現れて、封建制度破り天下統一してからは、天下挙げて自己一身享楽資し漫に王権拡張を謀って、詩書焚き法律万能し、また万里の長城増築して、只管王位確保することと、その身辺荘厳にすることばかり腐心したその結果は却って民衆から孤立せねばならなくなって勢い君主宛も臆病者小判を懐に隠して、人に攫われるのを怖れるような不安な地位になってしまったのである専制君主政治を自ら容すならば、革命反乱否認する理由は無い。専制治下に於てはどこに順逆常則があるか。不幸にして破れたならば逆賊であるが、首尾好く勝てば一躍して帝王となるのであるいやしくも一国体を統制するであって国体進歩発達を思わず、智者愚者欺き強者弱者凌いで、ただ私利私欲を営むのみでは、到底未来永遠に天下の乱は鎮まらないであろう。この言は今更如く今日中国、否世界適中している。牧心は個人主義専制君主を以て大盗如くみなしたただ中国人である彼は決し君主そのもの否定してはいない。飽く迄も天下天の命享け聖人現れて、蒼生のために一身犠牲にして統治の局に当たるに非ずんば、到底永遠の平和は得られぬことを確信して居る。黄南思想もまた牧心と異いは無い。君主地位決し享楽天地たるべからざる理由説く社会倫理のまだ発達しない古代にあっては、人は自ら利己心に依って動くものである。「公共の利益」を興したり、「公共の害」を除く等のことを個人がなすものではない。一人の人があり、自己一身利益を以て利とせず、自己一身の害も害としないで、更に眼を高うして公共の利を謀り公共の害を除くことに努力するならば、その人は即ち君主たるべき人である。君主勤労大きくて、しかも自己敢えて利益天下求めるのではないから、畢竟君主地位人情自然に拒否する道理である。是の如き君主起源及びその本質であり、又かくあるべき理想君主のである後世君主は皆自己の利害を以て天下尺度とし、利益総て自己集め損害悉く民衆帰して顧みない。かつ擅に民衆束縛して、民の営利行為放任せず、自家のを以て天下公事称し天下自己の私有財産みなして、これを無窮に子孫世襲せしめて享楽さそうとする。私有財産と見るに止まるならなお好いが、惹いて古彼の孟子いわゆる民を貴しとなす。社稷これに次ぐ。君を軽しとなす先王政治根本主義覆して、君を貴しとし、民を軽んじ君主私財増加し淫楽奉ずるために生民衣食剥ぎその子女を離散せしめて未だ曾て顧みぬ如き至っては、君主寧ろ社会大害毒といわねばならない立君の意に決し決し是の如きことを容さない。君主統治機関である。機関たる本質に於ては決し官吏異ならないが、ただ一切官吏の上位する最高の機関である。君主民の声に依ってかの天命を受け、天意を奉体して生民を化道するところ君主絶対的権威がある。南もまた明らかに哲人主義的民本政治論者で、この思想取りもなおさず儒教根本思想であり、又実に中国民族信念である。 鄧牧心の官吏論はまことに峻烈である。官吏を以て君主同じく統治機関とし、君主官吏とはただ上級下級との差有るのみで、毫も差違認めておらぬ。先ず官吏人材招致し難かるべき所以説く。昔、治者被治者との関係が密接であった時分は、官吏の数も少なくて済んだ。それには才能勝れ、徳も高い人物を択んだ。しかし是の如き人物中々官吏になることを承諾してくれない往々にして彼等名山深谷思索的生活を逐うた。官吏となるものは皆止むを得ぬ義理から出たもので、自ら至誠至公の態度を以て民衆接しその結果民衆受くるところの恩沢は実に尊いものであったしかるに後世官吏はそうではなく、到底官吏たる資格の無い者、むしろ民を害するような人間を拉してきては逆に民を牧せしめ、しかも民の乱れることを懼れるのであるしからば一体如何すれば好いのか。要する真個人材選任するより他はないのであるが、人材を得ることができないならば、もはや止むを得ない大臣局長知事郡長一切廃めて了って、天下をして自然のなり行き放任してみるのであるその方がなお現状には勝るであろう官吏頽廃憤る情熱茲に至って敢然として無政府の状態を是認せしめた。彼は、結論に於て著しく人生楽観者である。しかしながら勿論無政府主義者ではない。飽く迄も哲人政治謳歌者である。アリストテレス国体三種分けて、1.Monarchy、2.Aristocracy、3.Politeiaとし、それらの堕落したものをそれぞれ1.Despotie、2.Oligarchie、3.Democratieと称した。牧心の思想前者1.を表とし、3.を裡とし、その円融した哲人政治に在ったので、後の三種腐敗政治はむしろ無政府に劣ると考えたのである黄南もまた官吏君主とに何等本質上の差違認めて居ない統治内容は複雑であり、到底一人統治の実を挙げて行けるものではない。百官置いて治する官吏は「分身の君」である。さらに論ずる。官吏出で仕えるのは天下ためにする。君一人のために仕えるのではない。万民のために働き、一姓のために働くのではない。官吏は常に公共を念とし、公共の利益なければ君主厳命といえども服従してならない大臣といえどもまた然りである。官吏は常に君主命令といえども厳にその内容審査せねばならないという議論である。今日法律でも、官吏上官命令服従すべき限度に就いて問題はかなり争いのある問題である。南説に依れば、君主官吏との関係は上級官吏下級官吏との関係に準ずべきものであるから、前記争い同じく後者移して考えられる多数学者官吏はその職務命令内容適法であるか否かに就いては全く審査を有たないと論じて居る。例えラーバンドも、官吏正当な形式に遵って発せられた命令に対しては、その実質の適法であるか否か審査するが無いといって居る。これに対してステンゲル等は、官吏はただ憲法及び法律遵う義務はあるが、違法命令遵う義務は無いとして居る。(当時中国固より今日いわゆる憲法法律は無いけれども、しかし今日とは異なった意味で不文法制定法もあったことは変わらない。)南は当然官吏君主命令審査して、その違法なるものを拒否すべきものである論じて居るのであるから、彼の説は即ちステンゲル等と相応ずるものである。しかし官吏是の如き強大な自由裁量認むることは今日法律上より言えば実に官吏階級顚倒するものであって、その誤謬は明らかであるが、官吏を以て分身の君とみなし、あまり階級権現認めぬにあっては当然な議論といわねばならない。ただ彼の議論政府当局に取って飽く迄放漫な議論で、それでは統治者命令統一が全然行われなくなって了うわけである。これは臣道論ずるに重大な問題であろう。さらに論ずる。官吏は君のために設置せられたものであり、君主委任に依って君主のために天下治める、君の官吏であるとするのは、政治堕落する第一歩である。別の方面より言えば君主官吏との関係は師友の関係でなければならない官吏君主その道等しくする師友であり、師友要求するところは、労働ではなく道徳である。腐敗政治控えて彼の議論確かに一世人士対す警鐘であり、その思想本質儒家として何等奔逸したものではない。熱烈な民本主義者であり、最も輿論重んずる真の輿論、従って天意は、賢人に依って代表されねばならぬことを確信して居た賢人能く自然と人生とを貫く法則洞察し、これ無くして生きることできない点に率う人である。賢人は道を体得した人である。この人こそ万人のために謀って克く忠なる人である。彼は是の如き賢人要する碩学大儒集めて大学作り、これを政府から独立地位置いて、ここで真の輿論代表して政治運用指導し批判したいと考えた彼もまた哲人主義者である。 儒家対す誤解がある。儒教社会的階級の儼存を是認し、従って個人主義国家対立肯定しその結果自ら軍備充実主張し民衆の自由幸福を制限することを容認するのである一般に考える。儒教と言えば直ち頑迷不霊な外面的形式的道徳説くものと独断する。儒教本質と、その変態的産物たる迂儒叟の思想とを混同した謬想に過ぎない儒家理想とする社会は、深い思念と、正し勇気と、陰りの無い愛に富んだ真の国家主義者社会主義者哲人主義者等こそ最も善くこれを理解し得るのである元来生に執着することの甚だ深い中国人は、社会生活あるを知って国家生活に関知せざらんとする民衆であった彼等知識階級殊に儒家はこの民衆の自由と幸福とを確保する理想国の実現最大理想とした。元来中国民族一面非常に想像力富んで居るとともに一面また極めて実感的な人間である。事実を掴まねば承知できない中国人理想単なる将来懸けて置くことができない彼等信念では、理想はすでに古聖王の代に於いて実現せられてあったものを、人心堕落に因って是の如き現実の世界に立ち到った観ずる。ゆえに彼等はこの現実の醜苦な世間を複び古聖賢世に還すには、一に人間道徳的向上を待つより他は無いとした。ちょうど西洋神学的観念である。中国人の「尚古癖」を筆者是の如く解して居る。そこに興味の深い民族心理機微覚える。自由な人格民衆の幸福を確保する哲人政治国家実現することが儒家理想である。この理想立てて、これを実際政治上に実現してこうとするものを王道という。ただ人格の問題も幸福の問題も、生活の不安を先ず去って了わねば到底空論に終わる。政治第一要件生存権確保である。ゆえに孔子政策樹立説く経済生活の安定第一とし、止むを得ねば軍備犠牲にせねばならぬ説いた孟子農業林業漁業盛んにして、生活の条件に欠くる所の無いようにすることが王道始めであると論じた。しかし生存権確保だけではまだ個人主義利己主義社会そのまま放任することはできない。なお財産私有階級対立競争等から生ず厄介な問題がある。是非とも倫理的規範確立して民衆行為道徳的に反省せしめ、信義観念養成せねばならない禹湯文武周公等はこの意味に於いて大政治家である。小我中心として信義原則行わる社会近代儒家一派小康の世、または小一統の世、或いは升平の世といい、これはさらに進んで大同――大一統――太平の世とならねばならぬ小我消滅して大我活きるところである。各国家も公政府の下に統一せられ、その個人主義色彩消失して渾然たる一大世界国をなすものである。これが儒教理想であると説いて居る。孔子儒教今日是の如く発展してきたことを筆者正当な成長と思う。

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