中央道派との抗争
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縦貫道法が可決成立するよりも少し前、1950年代半ばから東京 - 神戸間の路線計画において、建設省道路局が推す東海道案と、田中清一や青木一男など中央道派が推す中央道案のいずれかの採用を巡って次第に論争が交わされ始めた。 両派の論争は理想と現実の争いであった。中央道派は田中の掲げた構想を貫き、「国土開発、沿線への人口の再配分、酪農中心の農業振興、工場誘致、観光と地下資源開発」等の理想を追い、それは長野県、山梨県など、関係県が後進性打開の夢を中央道に託しているのに対し、東海道派は限界を超えた交通状況の打開という現実に重きを置いていた。東海道派の懸念は、交通量の増大により数年以内に国道1号が麻痺するのではないかという点にあったが、中央道派の捉え方は違った。既に産業と人口過密にある東海道に高速道路を誘致すれば、東海道はますます人口と産業が集中し、反対に経済発展に取り残された地域との格差は拡大、結果、産業集中地域だけ所得が高く、その他の地域は産業も興らず人口も増えない。現状、工業地帯は特定地域に集中しすぎており、これを国土開発縦貫自動車道の路線網によって地方に分散することが、今後増加する人口を分散する意味からも国策上急務であると主張した。さらに、東海道の交通渋滞は、都市部近郊の短距離自動車輸送における交通輻輳が大部分で、そこに中・長距離輸送が割って入ることを踏まえ、短距離対策は各都市部近郊の国道1号の改良とバイパスを設け、中・長距離輸送を中央道に任せれば東海道の交通渋滞も緩和するとして、東海道に高速道路は不要と断じた。 論争はあれど両案とも名古屋(小牧)以西では概ねルートの一致を見ていることと、名古屋 - 神戸間の経済効果が大きく、財政面からも東京 - 神戸間を一括で建設することは困難と判断したことから、政府は計画ルートが決まらない東京 - 名古屋間を後回しにして、とりあえず整備すべき区間を名古屋 - 神戸間に限定し、名神高速道路として先行建設することになった。それに伴い、建設費用の一部を世界銀行からの借款に依存することから、名神建設の妥当性を調査するために、1956年(昭和31年)5月19日、ラルフ・ワトキンスを団長とするワトキンス調査団が来日した。調査団は東海道と中央道の論争があることに触れて、比較すべき計画ではなく、それぞれに異なった根拠で有益として断を下し、両道並立との見解を示した。しかし、財政に余裕のない当時の日本の国情ゆえ並立は困難で、建設するとすればどちらか一方というのが現実的な選択であった。 調査団来日当時、東海道案を支持するのは建設省と日本道路公団のみで、それ以外の政治家と官僚、銀行団は中央道を支持した。その理由として、東海道案は国鉄東海道線と競合して国鉄の経営を悪化させる。また、高級な道路を造ることは外国製の機械を輸入する必要が生じ、同時に道路開通後は石油の輸入も必要であることで、日本の外貨状況を悪化させることであった。こうした政府や国会の誤った考えに対して、ワトキンスは真っ向から反論した。1956年(昭和31年)時点で日本の経済成長率が年々10パーセント以上を示している以上は、それによる鉄道貨物の容量不足をいかに解消するかを考えるべきで、そのために鉄道が不得手とする短距離、小口の輸送をいち早く道路に明け渡すべきである。経済が進むほど交通、運輸の需要は高まって様々なサービスを要求する。したがって、道路と鉄道の競争ではなく、互いの長所を発揮し合う補完関係に立つことが進んだ経済に対する交通体系であり、鉄道経営が悪くなるから東海道の高速道路を造らないという考えは間違いであると指摘した。また、外貨が悪くなる事に関しては、支出により失うことを恐れるのではなく、むしろ外貨を稼ぐ方に目を向けるべきであるとした。道路が悪いことによって原材料や半製品の動きに時間とコストがかかることは、日本の生産性と国際競争力を大きくそぎ落とす。重量にして2.5ポンド(約1.1 kg)しかない日本製カメラが、輸入する鉄の1トンの値段と等しくなることを考えると、日本が生産性を高くして輸出を振興することによって、逆に道路を造るために輸入しなければならない外貨支出をはるかに上回る外貨収入を得られることに、もっと目を向けるべきであると力説した。こうした調査団の分析にもかかわらず、両道の論争はその後約4年間も継続したが、少なくとも両道並立の気運はこのレポートによって蒔かれた。 調査団離日翌年の1957年(昭和32年)4月、縦貫道法が公布施行され、その他必要な法整備が行われたのち、同年10月に満を持して名神の施行命令が発せられた。名神の着工に伴い、次に問題となるのは東京 - 名古屋間の路線選択であった。 画像左 : 恵那山から望む赤石山脈。建設省は当初から中央道案に乗り気ではなかった。通過予定地に立ちはだかる赤石山脈の貫通には技術的にも工費でも困難が予想されたためである。画像右 : 精進湖付近から望む青木ヶ原の大樹海。構想ではここを中央道が横断する計画であった。 法律のお墨付きを得た中央道に対して、東海道は何ら後ろ盾を持たず、明らかに出遅れた感が否めなかった。建設省道路局としては、戦前からの弾丸道路計画を受け継ぎ、悪化する国道1号の交通混雑を解消するためにも東海道に高速道路を誘致しようと計画していたところへ、縦貫道法が国会議員ほぼ全員の総意によって立ちはだかった。そのため、建設省としても表向き中央道に反対できなくなったが、裏では徹底的に東海道支持という態度を崩すことはなかった。省職員は中央道案を指して、日本列島の中央に高速道路を縦に通す馬鹿馬鹿しい構想で、あんな無茶苦茶な高速道路網はないと省内で言い合った。何よりも赤石山脈を貫いて道路を通すことの難しさを建設省はよく理解していたが、これはあくまで実務面から山の通過は無理と判断したものである。 法的に一歩先んじた中央道であったが、縦貫道法第三条と第十条が足かせとなり、東海道との決着を付けるためには一刻も早く中央道予定路線法案を国会に上程する必要があった。だが、幾ら待っても一向に政府に法案提出の気配がなく、青木を始めとする中央道派はいらだち始めていた。この第三条と第十条を要約すると、予定路線の法律をまず提出してから、それから必要な基礎調査を行なって建設線の基本計画を決める、と定めている。青木はこれを盾にとって1958年(昭和33年)3月の参議院予算委員会で建設大臣の根本竜太郎に詰めより、政府が調査を名目にして法案上程を先延ばしにしているのは順序が逆ではないかと追求した。予定路線を定める前に詳しい現地調査など不要で、法律に則って予定路線法案を早く国会に上げるように迫った。この委員会開催前、経済企画庁長官が関西財界との懇談会で、東京 - 神戸間の高速道路は東海道案が有力であるとの示唆を行ったという新聞記事と、日本道路公団に関係する高速道路調査会の理事を務める大学教授が、東海道案促進の講演会をして回っているという情報を耳にした青木は、委員会でこの二点についても激しく追求した。あくまでも法律に定められた以上は中央道を推進するべきであり、東海道は法律を直した後でなければ計画することはできないはずであるとして、原則論を強調した。 予定路線法案上程を迫る中央道派を尻目に、世論は政治臭の強い中央道案よりも東海道案に同情的で、さらに東海道を擁護する団体が現れたが、これが産業計画会議であった。1958年(昭和33年)3月に「東京・神戸間高速自動車道路についての勧告」としてレコメンデーションを出し、中央道案絶対有利の状況にあって中央道の弱点を真正面から指摘し、東海道に高速道路を誘致することの合理性を説いた画期的な提案であった。さらに代表の松永安左衛門は、建設省案に対してさらに安上がりの方法があるとして、チャーターしたヘリコプターに建設省職員を乗せて、東京から京都まで東海道海岸を往復して見せるなど、間接的に東海道案促進に大きな力を与えた。 それでも議員立法で立ちはだかった縦貫道法を前にして東海道派は無力であった。建設省が表立って中央道案を否定できないことに加え、その頃はのちに東海道案に賛成する者や東海道地域に地盤を持つ国会議員でさえ、国道1号の改良と新幹線の新設で東海道は間に合うと考えていた。特に自民党を支持する農民が東海道案に反対で、ゆえに東海道案を推して落選の危険を冒すよりは、何もしないことが懸命であるという空気が支配的であった。この頃、静岡県内の国道1号の混雑は目に余り、静岡県は東海道高速道路の必要を痛感した。そのため、県議会議長を会長として、とりあえず建設運動の準備会を発足させたが、同志を集めるのは一苦労であった。県は建設省に陳情したが、縦貫道法を前にして動けない建設省は逆に静岡県に対して県が中心となって東海道への高速道路誘致の運動をしてほしいと陳情した。 こうした中で、日本道路公団総裁の岸道三は、中央道では採算が採れないことから中々着工に踏み切れない状況下にあって、高等学校以来の友人で静岡県選出の衆議院議員の遠藤三郎に東海道案促進のためにひと働きするように申し入れた。しかし、遠藤もまた他の議員と同様で、農民を敵に回すことを恐れ、さらに中央道法案の力の前に今さら叶わないという態度であった。これ以前に遠藤は建設大臣を経験しており、その立場で青木から予定路線法案の上程の件で激しく追求されていたことから、中央道法案の持つ力は重々承知していた。この時の答弁で遠藤は、東海道に高速道路を造ることは全然考えていないと表明している。 だが、遠藤が東海道案について農家の就職問題と絡めて農民と座談会を催したとき、聴衆の反応がそれまでのものと変わっていることに気がついた。東海道案によって沿道の工業が盛んになれば、農民の就職難の時代にあってその受け皿として東海道の工業が機能することを説得したのであるが、効果は予想以上であったことから遠藤は考え方を変えた。圧倒的不利の東海道案が法的に先行する中央道案に追いつくためには、沿線自治体の一致と関係国会議員への説明と根回し、マスコミ対策が必要であるとして、遠藤は周到に計画を練り上げた。これが実を結んで1959年(昭和34年)8月、関係一都三県の自治体の長から成る「東海道第二国道建設期成同盟会」の立ち上げに至り、さらには東京都から三重県までの国会議員八十数名に呼びかけて、同年12月に関係一都三県の与野党議員全員が参加する促進議員連盟が結成された。その会長に遠藤自らが就任し、これ以後、東海道派の巻き返しが強まることになった。 建設省は一貫して東海道実現のために運動していたが、縦貫道法の施行に伴って中央道をいつまでも放置しておくことは出来なくなった。不承不承とはいえ法律に定められた以上は準備を進めなければならず、予定路線について調査し、基本計画、整備計画を策定せねばならなかったからである。このため、精細な調査をおこなって、1959年(昭和34年)12月末にはその結果を「建設省中央道調査報告書」にまとめて中央道派に示したところ、猛烈な反撃が加えられた。このとき提示した建設費用は3,200億円、kmあたり10.8億円で、中央道派が信じていたkmあたり3.2億円、事業費にして約1,000億円とはほど遠かったからである。これにより「建設省の積算は過大だ」「建設省はやる気がないのだ」と怒って、席を立って出て行く者が多かった。しかし、積算が間違っていたのは中央道派のデータで、全延長の50パーセントが山岳区間ゆえ、建設費用も勢い高額になることは明らかで、一般に言われている資金では到底、中央道の建設は不可能であることを、実際に中央道の通過予定地を視察した関係者は確信したという。この費用に比べ、この時点における東海道案の概算費用は1,700 - 1,900億円で、中央道案の約半分であった。調査によると、世界にも類を見ない高額な道路となる割には、一日あたりの推定交通量は1967年(昭和42年)時点で6,500台と少なく、投資額の償却には約半世紀を要するなど、有料道路としては非採算的であると結論した。 この試算結果を受けて大蔵省は、3,200億の建設費に見合うだけの交通需要の見込めないところに世界銀行が融資するはずがないとして、中央道案に反対した。経済企画庁も開発の趣旨には賛同するも、予算とのバランスの悪さによって消極的で、農林水産省に至っては、酪農振興は結構だが、中央道予算のあおりを受けて本来の農林予算が縮小されてはたまらないとして警戒するなど、中央道の旗色はいよいよ悪くなってきた。新聞もおしなべて中央道案に否定的で、険しい山岳道路ゆえ、豪雨、降雪、凍結、霧の影響は避けられず、さらには勾配やトンネルの多さから高速道路としては不適格であるとした。国土の開発を狙いとするならば最高価な高速道路を設ける必要はなく、むしろ国民経済の発展にとって開発効果の高い地域を優先するべきであると断じたが、同様のことは産業計画会議も指摘した。今回の建設省の発表は、東海道派の促進議員連盟の結成と並んで中央道反対の火に油を注ぐ格好となった。 こうした中央道派の不利に乗じて、東海道派は一気に攻勢を仕掛け、まずは建設の根拠を得るための立法化に全力を傾注した。これは中央道と違って東海道には縦貫道法に予定路線の記載がないためである。よって、それに拠らずに建設するための独自の法律策定を目指したが、これが「東海高速自動車国道建設促進法案」で、議員立法としての成立を試みることになった。 先に法律ができて有利であった筈の中央道案が、見る見るうちに東海道派が力をつけていくのを目の当たりにして、中央道派はいよいよ危機感を強めてきた。これまで中央道案が有利であったのは、東海道と違って法律的な後ろ盾があったことによるが、今や東海道派は議員立法で別に法律を作ろうと運動しており、これが実現すれば中央道案と対等の立場に立つ。そうなった場合、経済効果、建設費用の面で圧倒的有利の東海道案の前に中央道では勝負にならないと知っているだけに、中央道派としては何としても今国会で中央道法案を可決成立させ、その後で東海道法案を蹴落とすことにした。このため青木は、第三条と第十条の規定を盾に、法律に則って中央道予定路線法案の国会上程を真正面から政府に迫る作戦を採った。1960年(昭和35年)3月9日に開催された参議院予算委員会で、政府に対して予定路線法案提出の遅延の責任を追及し、総理、建設、経済企画庁長官、農林、大蔵の各大臣を次々と答弁台に呼びつけ、法律に明文化されている中央道予定路線法案提出に賛成か反対か、その態度を表明せよと迫った。反対と答えれば法律違反となるだけに、全員が賛成と答えざるを得なかった。 青木の追求が功を奏し、翌10日に開催された交通関係閣僚協議会で、中央道の予定路線を定める法案の今国会提出が決定した。この情勢を見た東海道派は「東海高速自動車国道建設促進法案」を中央道予定路線法案と同時提出、同時採択に持ち込むことを主張した。ここで同時提出、同時採択に持ち込むのは、今国会で中央道法案が可決した後で来年提出の東海道法案の反対に回り、中央道の着工完成を先に済ませようとする中央道派の魂胆があまりに見え透いていたためである。 自民党政務調査会建設部会はこの両法案を並行審議して、第34回国会で双方通そうとした。よって、3月31日になって一つの調整案を出した。それは、自動車専用道路の臭いを薄めるために、法案名称「東海高速自動車国道建設促進法案」のうちの「高速自動車国道」の文字を「幹線自動車国道」に置き換えて「東海道幹線自動車国道建設法案」に、区間は、中央道を「東京 - 小牧」に、東海道を「東京 - 名古屋市付近」に改めて、両路線が共存できるようにする、というものであった。これにより、中央道とは違う道路であることを印象づけることで、中央道派の納得を得ようとしたのであるが、中央道派は一旦はその調整案を呑むも本心ではなかった。事実、4月1日の中央道予定路線法案の閣議決定と自民党七役会議の両法案の並行審議了承後、政務調査会と総務会で東海道法案を決めるのを待ってから両法案同時に国会に提出する予定になっていたが、政務調査会の席で青木が真っ向から東海道案に反対して今国会における中央道案の単独提出を主張した。青木の脳裏にあったのは、もし東海道に高速道路が造られた場合、中央道は法律のうえでの道路が残るだけで、実際に車が通る道はいつまでたっても建設されないという見通しであった。 青木の反発により、与党首脳は政務調査会の調整を一時棚上げして、党議決定の最高機関である総務会に移した。4月13日、ここで両派から意見を聞いたが、応酬となった。中央道派が、中央道は法律で決まっている、東海道に高速国道の必要なしと言えば、東海道派は、あれは開発道路のはずで、高速国道は東海道に建設してこそ効果が得られると反論した。そして、両派とも選挙地盤、利権が絡んでいるだけに問題はこじれる一方であった。総務会では法律で決まっている中央道を今国会に上程して東海道案は別途考慮する方向に傾いたが、これに東海道派は強硬に反発した。この席で中央道派は原則論を出し、東海道法案を提出したいならば、法律に則り縦貫道法の審議会にかけるよう迫った。しかし、国会議員選出の審議委員には中央道派が多数を占めることで、東海道法案が否決されることは目に見えていることから東海道派は納得せず、むしろ建設省の報告書を引き合いに出して、中央道の採算面、経済効果等の問題を取り上げて中央道の非現実性を追求し、場合によっては縦貫道法の改正も辞さないとの強硬姿勢を採った。 中央道派がパンフレットを国会の内外に配布して同調者を募れば東海道派も議員の著名運動で対抗し、自民党内も社会党内も意見が真っ二つに割れた。このままでは両派の応酬で共倒れに至ることを危惧した建設大臣の村上勇が、5月4日に青木を訪ねて説得した。どうか中央道側で譲歩をして、東海道案を認めてほしい。その代わり、中央道側に対しては政府と自民党で建設の保証を与える旨を述べると、青木も次の理由により村上の提案を呑んだ。仮に共倒れになったとして、次の国会で再び問題化した場合、中央道法案が東海道案より有利に傾く保証はない。この時点で東海道派の議員同盟は関係地域以外の全国の議員からも多数の署名を取っており、この状況下で次の国会で東海道を蹴って中央道だけ通すことは不可能であると判断し、ゆえに今国会における同時提案は了承する。ただし、東海道だけ建設して中央道建設の梯子を外さないことを党と政府で保証してもらいたい旨を伝え、村上は了承した。これにより、5月11日の政調会審議会、続く翌12日の総務会で最終的な検討がなされ、第34回国会への両法案提出で最終的な決着をみた。 これを受けて、第34回通常国会の衆議院建設委員会で「国土開発縦貫自動車道中央自動車道の予定路線を定める法律案」(内閣提出)と「東海道幹線自動車国道建設法案」(遠藤三郎ほか55人提出)が5月18日に可決した。翌19日、50日の会期延長と新日米安全保障条約が衆議院で強行採決され、怒った社会党と民社党両党が国会不参加を表明したことから、国会は全くの機能停止に陥った。わずかに自民党の単独審議が変則的に行われ、6月17日の衆議院本会議の両法案の可決と、6月21日の参議院建設委員会における両法案の可決はこれによってなされた。法案成立まで余すところ、参議院本会議における審議のみとなったが、国会運営正常化の見込みが立たず、関係議員からはこのまま審議未了により廃案になるのではないかと危ぶむ声さえ聞かれた。こうして国会は空転したまま会期最終日の7月15日を迎えた。この時点で50法案が参議院にたまっており、二つの自動車道法案もこの中に含まれていた。 時間切れが迫るなか、首班指名選挙における自民党の妥協により社会党と民社党の暗黙の了解を取り付けたことが功を奏し、自民党と同志会による参議院本会議が午後十時過ぎから開催された。特に緊急を要する法案の審議が優先して行われ、両自動車道法案も時間切れ目前の危ういところで可決成立した。なお、東海道幹線自動車国道建設法は、それ自体が予定路線を法定するため、今回同時成立した中央道の予定路線法とようやく同等の立場となった。それから10日後の7月25日、両法は公布施行され、東京 - 小牧間には法律上、二つの路線が存在することになった。 揉めた東京 - 名古屋間であったが、「建設省中央道調査報告書」の公表と、遠藤三郎の東海道派への加入が、東海道案が法的に先行する中央道案と肩を並べる一要因となった。遠藤と共に誘致を働きかけた山本敬三郎(のちの静岡県知事)は、遠藤がいなければ東名の実現は高度経済成長の後であったろうと言った 。その遠藤だが、東名の施行命令発令直前の1962年(昭和37年)4月に脳溢血の発作で倒れたことによる入院中、東名の路線問題で訪ねてきた建設省道路局長への対応に加え、静岡県裾野市における東名通過予定地が偶然にも遠藤の生家と重なったことから、これを公団に明け渡すなど、計画末期に至るまで東名と縁の深い政治家となった。
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