関ヶ原の戦い 本戦までの動き

関ヶ原の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/09 03:31 UTC 版)

本戦までの動き

家康の東進と毛利輝元の大坂入り

6月18日に伏見を発った家康は[55]7月1日に江戸に到着し[56]7月7日には最上義光秋田実季ら東北の諸大名に会津攻めに関する指示を出すとともに、7月21日(秀忠は19日)に出陣することを伝える[57]

7月5日、宇喜多秀家が豊国神社に参詣[58]

一方、上方に残っていた前田玄以増田長盛長束正家の豊臣三奉行は7月12日、広島にいた毛利輝元宛に「大坂御仕置之儀」のための大坂入りを要請する書状を出し[59]、増田長盛は家康家臣永井直勝宛に、大谷吉継の眼病と石田三成の出陣に関する「雑説」を報告[60]

また宍戸元次ら輝元の家臣は7月13日付けの書状で榊原康政本多正信永井直勝安国寺恵瓊が輝元の命令として東進していた軍勢を近江から大坂に戻していることを報告し[61]、14日には吉川広家も同様の報告を榊原康政に出している[62]。書状の中で宍戸らは大坂への転進について三成と吉継の関与を疑っており、輝元は関知していないことであると述べている。

上坂要請を受けた輝元は7月15日に広島を出発し、同日加藤清正に秀頼への忠節ための上洛を促す書状を送る[63]。同日、島津義弘は上杉景勝に輝元・宇喜多秀家・三奉行・小西行長・吉継・三成が秀頼のため決起したことを伝え、これに「同意」することを求める書状を送っている[64]

7月17日、豊臣三奉行は秀吉死後、家康が犯した違背の数々を書き連ねた「内府ちがひの条々」を諸大名に送付。また輝元と秀家も前田利長に家康の非をならした書状を送る[65]。同日、毛利秀元が大坂城西之丸に入る[66]。同日細川忠興家臣小笠原秀清は「奉行衆」よりの人質要求を拒否し、忠興室ガラシャらと共に大坂の忠興邸で自刃[67]。正保5年(1648年)成立の『霜女覚書』等の二次史料はこの人質要求の主体を石田三成とするが、この時期一次史料で「奉行衆」と記されるのは豊臣三奉行のことである[48]。また「内府ちがひの条々」には家康が勝手に諸大名の妻子の帰国を認めていたことを弾劾する一文があり、家康の養女で真田信幸の妻の小松姫沼田城において西軍についた舅・真田昌幸を追い返したという伝説で知られる)が開戦以前に帰国していた可能性が指摘されている[68][69][70]

7月18日、三成が豊国神社に参詣[71]7月19日には輝元が大坂城に入城し[72]、丹後方面に向けて西軍勢が出陣[73]する一方、家康家臣鳥居元忠らが留守を勤めていた伏見城に対する西軍の攻撃が開始され、22日宇喜多秀家[74]23日には小早川秀秋勢が攻め手に加わる[75]伏見城の戦い)。なお、当初島津義弘と小早川秀秋は家康に味方するため城側に入城の意思を示したが拒否され、やむなく西軍に属して城攻めに加わったとする説がある。しかし、前者は「島津家譜」[76]、後者は「光録物語」[77]等、関ヶ原の戦い後江戸時代に成立した二次史料の記述を典拠としており、史実である確証は無い。

東軍諸大名の反転

7月18日稲葉通孝が「関東陣沙汰」が延期になったとして国許に引き返す[78]。 ただし、7月19日には秀忠が、21日には家康が江戸から会津に向け出陣しており[79]、この時点では会津征伐自体は中止されていない。 しかし7月21日付で細川忠興が家臣松井康之らに宛てた書状によれば、この時点で輝元と三成の決起の報告が上方から家康の許に続々と入っており[80]7月23日になると家康から最上義光に対して、三成と吉継が各地に書状を触れ回しているという「雑説」があるので会津侵入は「御無用」とする指示が出される[81]。さらに7月26日になると関東に参陣していた畿内・西国の東軍側諸大名が西進を開始。家康も「即刻上洛」の意思を示す[82]。 なお、この時点での東軍の戦略目標は三成の居城佐和山城であった[83]

7月27日、榊原康政は秋田実季に、三成と吉継が「別心」したので、家康に対して淀君・豊臣三奉行・前田利長らより上洛の要請があることと、会津方面における指揮権が家康から秀忠に移されたことを伝える書状を出している[84]。ところが7月29日になると一転して三奉行が「別心」した事を伝える家康の書状が黒田長政田中吉政・最上義光に出されている[85]。この時点で黒田・田中の両勢はすでに西へ向かっており、7月30日には藤堂高虎に対しても西進の命令が出されている[86]

なお7月25日に下野国小山において、家康と会津征伐に従軍していた東軍諸大名が軍議を開き、会津征伐中断と軍勢の西上を決定したいわゆる「小山評定」が行われたとされる。しかし「小山評定」についての詳細を直接記した一次史料は無く、評定の有無・内容・意義を巡っては様々な説が出されている。

西軍の伊勢侵攻と東軍の岐阜城攻め

7月26日付の書状で豊臣三奉行は中川秀成に輝元勢2万は瀬田と守山の間で陣取り、東軍の西進があれば迎撃する予定であること、また秀家と秀秋の両勢が醍醐・山科・大津に展開していることを伝える[87]7月29日に三成が伏見に到着[88]

8月1日、伏見城が落城[89]。同日輝元・秀家と豊臣三奉行に三成を加えた四奉行は、木下利房に木下勝俊と共に、加賀国小松に進出した前田利長に備える為北ノ庄へ向かうように指示を出すが[90]8月3日に西軍側山口宗永の籠もる加賀大聖寺城は前田利長によって攻め落とされ、宗永は自害[91]

8月4日、家康は西進する福島正則・池田輝政ら諸大名に対して井伊直政を派遣したので、その指示に従うようにとの書状を出す[92]8月5日に家康は小山から江戸に戻り[93]、同日三成も佐和山に戻る[94]。この頃西軍は尾張清洲城に入った福島正則を説得中であり、これが成功すれば西軍は三河侵攻、失敗すれば清州を攻撃する予定であった[95]8月8日には吉川広家と安国寺恵瓊が指揮を執る約1万の軍勢が長束正家勢とともに伊勢へ出陣。また、三成も岐阜城主織田秀信と相談のうえ尾張方面に出陣。この時点では輝元が3万の兵力をもって、浜松で家康を迎撃する予定であった[96]8月17日に島津義弘が美濃垂井に着陣し[97]、20日には本国薩摩に向け増援の要請を出している[98]

8月19日、黒田長政らは井伊直政・本多忠勝に対して家康の出馬を待たずに、木曽川を越えて犬山城方面に進出することを報告[99]

8月22日、東軍諸大名は清須周辺に集結し、同日木曽川を渡った池田照政麾下の部隊が秀信勢と戦いこれを破る[100]翌23日には福島正則以下各隊が秀信の居城岐阜城を攻め秀信を降服させ[101]、救援に駆け付けた三成・島津勢も撃退[102]

8月24日、徳川秀忠は信州上田攻略のため宇都宮を立つ[103]。岐阜城と同じ西軍側の犬山城に対して、井伊直政が同日付の書状で、城主石川貞清とともに籠城している竹中重門らに城の明け渡しを勧告[104]

8月26日より秀家・行長・三成・義弘・秀頼の馬廻衆ら2万人が守る大垣城に対して、東軍8万人による包囲が開始され、城方は毛利勢に救援を要請する[105]

8月27日、岐阜落城の知らせを受けた家康は岐阜攻めに参加した諸大名に戦功を賞する書状を出し、福島正則には自分と秀忠勢が到着するまで軍事行動を控えるよう指示する[106]

一方、伊勢に侵入し、安濃津・松坂の両城を降伏させた西軍は尾張へ向かう[107]

決戦と抗争終結

9月1日、家康が江戸を出立。同日付書状で、この頃垂井に集結していた福島・池田らの東軍主力諸将に、自分の到着まで自制するよう再度指示を出し[108]、堀直寄には大垣城を水攻めで落とすつもりであることを伝えている[109]

9月2日、大谷吉継、戸田重政、平塚為広、赤座直保、小川祐忠、朽木元綱、脇坂安治が北国口を抑える為に関ヶ原南西の山中村に布陣。

9月3日、犬山城が開城[110]。同日細川幽斎が籠城する丹後田辺城に向け、和平の使者として日野輝資中院通勝・富小路秀直が出立[111]。この頃より城主京極高次の寝返りにより東軍の城となった大津城に対する西軍の攻囲が始まる[112]。ただし、京極高次の動向については彼の影響下にあった弟の高知が東軍として行動していることや7月時点で東軍諸将の間でも既に高次は東軍の一員として認識されていることから「最初から東軍方であった」と見るべきで、西軍諸将が高次が淀殿の義弟であることや一時的に西軍に靡く素振りを示したことで西軍につくと思い込んでいたために、あたかも高次が寝返ったかのように認識されたとする見解もある[113]

9月5日一度は徳川秀忠に降伏を申し出た真田昌幸が一転して抗戦を表明。砥石城を放棄して上田城に撤退[114]

9月7日、毛利秀元、吉川広家が南宮山[115]に着陣。

9月14日、小早川秀秋が関ヶ原の南西にある松尾山城に伊藤盛正を追い出して入城。続いて9月14日夜に大谷義継が関ヶ原に着陣する[116]

一方、家康は9月9日に岡崎[117]10日に熱田[118]13日に岐阜と軍勢を進め[119]、14日には赤坂に着陣。享保12年(1727年)成立の『落穂集』には島津義弘が、赤坂の家康本陣への夜襲を提案するも、島左近が反対し、三成がそれに従った結果作戦が採用されなかったとする逸話が載せられている。ただし、この夜襲策について記された一次史料は確認されない。

9月12日、田辺城に籠城していた細川幽斎が勅命を受け入れて退城[120]。 9月13日前後に東西両軍間で和睦が成立して大津城が開城し[121]9月15日に毛利元康が大津城に入る[122]。同日関ヶ原にて東西主力の戦闘が行われ東軍勝利。同日家康は佐和山にまで軍を進める[123]

9月17日、毛利元康が大津城を退去し[124]、同日佐和山城落城[125]。同日に大垣城内にいた相良頼房・秋月種長・高橋元種は熊谷直盛・垣見一直・木村由信父子の三名を殺害し、その首を持参して投降。城に残った福原長堯はその後20日過ぎまで抵抗を続ける[126]。この頃より輝元と家康との間で黒田長政・福島正則を介した交渉が始まり[127]、現毛利領が安堵される条件で和睦が成立[128](但し10月になってこの約束は反故にされ、周防・長門2ヶ国に減封される[129])。

9月25日、家康と秀忠は福島正則・黒田長政ら5名の大坂入城を確認し[130]、輝元は退去[131]

続いて9月27日には家康が大坂城に入城し、豊臣秀頼と「和睦」[132]

10月1日、恵瓊・行長・三成の3名が京六条河原にて斬首された[133]




注釈

  1. ^ 近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている(関ケ原 戦いの場所は「青野カ原」 合戦直後の文書に記載 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。
  2. ^ なお、この二派を、東軍・西軍と呼んだのは後世のことである。
  3. ^ 藤木は「太閤蔵入地をめぐる政権中枢の大名たちの暗闘のなかに、すでに関ケ原戦への予兆をはっきりと読み取ることができる」と述べている。
  4. ^ 宝永5年(1708年)に成立したとされる木村高敦の『武徳安民記』などを史料として用いた岩澤愿彦は、この時の伏見の徳川家康邸に参集した大名を福島正則・池田輝政・森忠政・織田有楽・黒田如水・黒田長政・藤堂高虎・有馬則頼・金森長近・新庄直頼・新庄直忠・蜂須賀家政・山内一豊・有馬豊氏・京極高次・高知兄弟・脇坂安治・伊達政宗・大谷吉継・堀秀治・最上義光・田中吉政らであるとしている。そして、大坂の前田利家邸に参集した大名を毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家・細川忠興・加藤清正・加藤嘉明・浅野幸長・佐竹義宣・立花宗茂・小早川秀包・小西行長・長宗我部盛親・岩城・原・熊谷・垣見・福原・織田秀信・織田秀雄・石田三成・増田長盛・浅野長政・長束正家・前田玄以・鍋島直茂・有馬晴信・松浦鎮信らであるとしている[32][33]
  5. ^ この7名は史料によってメンバーに違いが存在するが、ここでは近年の研究において採用されている慶長3年閏3月5日付家康書状の宛所(宛名)の7名を記す。
  6. ^ 徳川家の大名は多くが領国の北側に配されている。ただし、井伊の様に軍監として東海道先発隊に加わったり、大久保忠隣の様に秀忠の補佐として中山道隊に加わったりと若干の入れ替えはある。
  7. ^ 「森家先代実録」によれば森忠政は自領である川中島に待機するよう家康から厳命されており中山道隊参加の形跡は一切無い。また川中島待機を命じる家康からの書状も森家に現存している。
  8. ^ 真田昌幸の西軍転身を受けて家康より帰領申し付け。よって中山道隊には不参加で在国[53]
  9. ^ 工藤章興によると関ヶ原の本戦に参加したとしている[54]。古来より同族で同じく東軍についた古田重然(古田織部)と混同されており、本戦で戦ったのを重然とする史料(太田牛一『慶長記』)もある。
  10. ^ 原文では「鍋嶋」としか表記されておらず、実名は不明。
  11. ^ 諏訪勝則作成の表(『歴史読本』780号 新人物往来社、2004年)掲載のでは一忠。
  12. ^ 黄母衣衆や、織田信吉織田長次が布陣したとされる。
  13. ^ 古田重然という説もある。
  14. ^ これについて、中山道軍の遅参のため徳川本軍は合戦で大きな役割を果たすことができず、外様大名に戦功を挙げられてしまい、そのため戦後処理で主導権を取りづらくなったことが原因であるとの説がある。
  15. ^ 吉橋村は三成の母の出身地である杉野村の近隣であり、同村の三珠院または飯福寺が秀吉と三成が初めてであった「三杯の茶(三献茶)」の舞台であったとする伝承がある[145]
  16. ^ 旧暦10月18日に自刃したとする説もある。
  17. ^ 慶長10年(1605年)毛利家御前帳に29万8480石2斗3合と記されている。
  18. ^ 慶長15年(1610年)に領内検地の後、幕閣とも協議し高直し
  19. ^ ただし、これについては吉川氏は関ヶ原以前より毛利氏庶家の筆頭の地位に過ぎず、万一の際の毛利宗家継承権を有していた長府毛利家徳山毛利家とは同列には出来ないとする見解もある[152]
  20. ^ 厳密には「慶長三年御蔵納目録」作成時点での数字。それ以降大名への給付によって減少していると考えられる。

出典

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  29. ^ 毛利家文書3、p.247
  30. ^ 「関ヶ原軍記大成」では政宗・福島正則蜂須賀家政の3名をあげているが、「家忠日記増補追加」・「伊達日記」では政宗の名前のみが載せられている。
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