もうりてるもととは? わかりやすく解説

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もうり‐てるもと【毛利輝元】

読み方:もうりてるもと

[1553〜1625]安土桃山時代武将元就(もとなり)の孫。織田信長反抗し豊臣秀吉攻撃受けたが、本能寺の変によって和睦。のち、秀吉仕えて五大老一人となったが、関ヶ原の戦い西軍に参加したため所領長門周防(すおう)2国に削られた。


毛利輝元

読み方:もうり てるもと

安土・桃山時代中国地方大名隆元の子で、元就の孫。幼名は幸鶴丸法名を宗瑞。父の急死によって家督相続織田信長対立したが、備中高松城羽柴秀吉講和を結び、本願寺変後秀吉属す文禄・慶長の役大将として出動五大老一人として重きをなした。関ヶ原の戦後、減封されたが一族家臣協和につとめ、毛利家存続の礎を築いた寛永2年(1625)歿、73才。

毛利輝元(もうり てるもと) 1553~1625

○幸鶴丸 少輔太郎 右衛門督 右馬頭 侍従 参議 権中納言
◇父:毛利隆元 室:宍戸隆家女、児玉元良女、羽根元泰女、井上就正女 子毛利右近衛権少将秀就、日向守就隆
 父の死後安芸毛利氏当主となるが若年の為、祖父元就その死後吉川元春小早川隆景の両叔父両川”の後見を受けるが、凡庸な武将であったという。羽柴(豊臣)秀吉講和して以後は、秀吉従い朝鮮出兵では大将として渡海豊臣家五大老一人に列せられた。関ヶ原の戦いでは石田三成安国寺恵瓊担がれて、西軍総帥になった合戦では積極的には出なかったが、責任を取らされて防長2国に減封となった
毛利元秋(もうり もとあき) 1552~1585→椙杜元秋
毛利元清(もうり もときよ) 1551~1597→穂田元清
毛利元綱(もうり もとつな????????相合元綱
毛利元倶もうり もととも) 1555~1571→出羽元倶


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