人物と経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/31 00:40 UTC 版)
父はオート三輪の製造販売、エンジンの設計、車体のデザイン、水冷エンジンバイク、オート三輪への丸ハンドル、ツインのヘッドライト、セルモーターの導入などの凄腕の技術者。浜松はバイクのメッカ、若き本田宗一郎 も父の工場によく来ていたという。縞志は4人兄弟の長男でエンジン音だけで車種さえ当てられる少年だった。母は教室を構えて教えるほど手芸が得意。庭には花がいっぱい育てられていた。 静岡県立浜松北高等学校時代は陸上部で三段跳びの選手。1965年千葉大学園芸学部造園学科卒業。当時、施工系に進んだのは同級生の内ただ一人であった。まずは、観葉植直物の生産、 デパートなどでの販売、ここで植物の育て方から消費者の嗜好と流通のシステムを学ぶ。次いで、 土木建設を経験すべくゴルフ場造成現場責任者、土木機械。200 名の人夫の労務操作と土量の計算から、理、芝草の流通、病虫害の管理、森林保全のための土壌学や生態学の学習にいたるまで多数経験。10年間の施工経験後、1972年からは外空間作家の深谷光軌に師事、ここで深谷独特の “ものづくりの合理精神”や造形論、生態論、文明論を学び深め、その後は造園設計事務所で公園緑地の基本設計、緑のマスタープランのマニュアルづくりなど経験。 やがてフリーランスの充電期を過ごす。1977年フリーランサーとなり各種プロジェクトに参加。1988年(株) M&N環境計画研究所設立。 年間のうち11 カ月働き、1カ月は世界を旅行しホンモノの風景、ホンモノの環境を記憶体験。撮影したスライドは20,000枚におよぶ。 主な活動として、2001年 「From Modernismn To MA」(ランドスケーブエキシビション·ロンドン)、2003年 大規模郊外型ナーセリー見学会を企画(日本ランドスケープフォーラム運営委員)、「近代遺産をたずねて」深谷光軌氏作品を案内・解説(RLA)、2007年 インターナショナルシンポジウム(レクチャー、中国·青島大学)、ロシア・ランドスケープアーキテクチャーウィークinジャパン (レクチャー)等。 主な作品と受賞歴に、1983年 アークヒルズ(超高複合建築群)基本構想、1985年 海石榴迎す館庭園(昭和61年度神奈川県下建築コンクール最優秀賞。建築と泉庭)、1986年 御殿山ヒルズ(超高層複合建築群外構)、1987年 カルソニック・マニュファクチュアリング・コーボレーション庭園(米国,ナッシュビル)、1988年 小笠原諸島国立公園海中公園、1992 年 ニュージーランド大使館外空間(コンペ当選作)、1993 年 赤坂パークビルチング (超高層ビル外空間、コンペ当選作)、道の駅とみうら(道の駅グランプリ2000最優秀賞)、カトリック浜松教会 (浜松市都市景観賞)、1995年 MM21住都公団新事務所外空間、1996年 ホテル日航東京(日本造園学会造園作品選集 1998)、1997年 目白学園キャンパス、紅陵学院本部キャンパス、1998年 石垣島シーマンズクラブリゾートホテル、1999年 東京霊園、オーシャンスパ九十九里、2001年 ガーデンコート成城、2003年 諏訪山吉祥寺境内及び庭園、2004年 ESTクリニック ローアレルゲンガーデン 弘前市、2005年 ザリッツカールトンバリ・ニュービラ(インドネシア、バリ島)、2006年 ダヴィンチ芝バーク(オフィスビル コンペ当選作) 港区、2007年 白金幼稚園園庭、他多数。 2001年静岡文化芸術大学非常勤講師。03年~09年千葉大学非常勤講師。03年~京都造形芸術大学非常勤講師、現在に至る。登録ランドスケープアーキテクト(RLA)。
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人物と経歴
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朝鮮京城府生まれ。福岡県立伝習館高等学校から、東京大学に進学。1957年、東京大学工学部建築学科卒業時は総代。卒業設計を手伝いにきていた女性と結婚。大学卒業後は同大学大学院建築学専攻修士課程に進学し、丹下健三に師事。建築家志望であったが、 1959年、同大学院修士課程修了後、博士課程進学の直後、フルブライト留学生として都市計画・都市経済学分野を修めるべく渡米し、プリンストン大学建築学部大学院都市計画学専攻修士課程に進学。同大学院修了後はハーバード大学大学院博士課程に進学し、1963年9月、同大学都市地域計画学博士課程を修了し、ハーバード大学経済学部都市計画分野助教授を経て、1969年より世界銀行都市開発局勤務。同銀行の開発事業方面に従事の後財団法人国際開発センター主任研究員を経て、1975年に筑波大学社会工学系教授(都市計画主専攻担当)。東京大学工学部都市工学科非常勤講師。1976年、「Income Distribution and Regional Development」(University of Tokyo Press)で第19回日経・経済図書文化賞本賞受賞。 1982年に再び世界銀行勤務。1986年、東京国際大学商学部教授就任。 1995年から2008年までは、南カリフォルニア大学経済学部教授(国際ビジネス講座担当)。 2006年、ロサンゼルスにて非営利活動法人「日本再生研究会」を設立し、同会理事長。日本の将来を健全にするためとして、日本の近現代史を会員とともに研究し、2012年に著書を出版した2014年に歴史の真実を求める世界連合会(GAHT)を発足させ、日本人の名誉を守るためとして「慰安婦奴隷説」のような歴史観の普及に対する反対運動を展開。米国グレンデール市に対する「慰安婦像」撤去訴訟に参加した。2014年10月、「朝日新聞を糺す国民会議」に参加。朝日新聞を提訴する原告団の一員となる。 2019年12月18日、前日朝に米国で死去したことがGAHTから公表された。
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人物と経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 00:23 UTC 版)
クワンは中国人で建築家の父と、スコットランド人でモデルの母の元、香港に生まれた。両親は彼女が2歳の時に離婚した。1941年12月、太平洋戦争が開戦し、クワンは父と兄弟と共に中国に身を隠した。 一家は終戦後、香港に戻り、クワンはイギリスに留学。ロイヤル・バレエ団のバレエ学校に学び、コヴェント・ガーデンの『白鳥の湖』と『眠れる森の美女』に参加した。彼女はバレエ学校を卒業し、バレエ教師の資格を手にするが、イギリスで映画プロデューサーのレイ・スタークに見いだされた。 当時、映画におけるアジア人は、しばしばアジア風のメイクアップを施した白人の俳優、女優によって演じられた。しかし、スタークは18歳のクワンを『スージー・ウォンの世界』(1960年)の主役・スージーに抜擢した。スージーは、芸術家のロバート・ローマクス(ウィリアム・ホールデン)を魅了する、美しく自由闊達な香港の売春婦という役である。 続いてクワンは翌年、ヒットミュージカルの映画化作品『フラワー・ドラム・ソング』(1961年)に主演し、ハリウッドで最も活躍するアジア系女優のひとりになった。(ちなみに、『フラワー…』の母親役は、ハリウッドで中国系であるゆえの差別に苦しみ続けたアンナ・メイ・ウォンが、渇望しながらもついに演じることができなかった役である) クワンは1960年には雑誌『ライフ』の表紙を飾り、1963年には映画『The Wild Affair』で見せた、ヴィダル・サスーン考案のボブ・カットでファッションアイコンとなった。その左右不揃いなヘアスタイルは60年代を通じてカットの基本やバリエーションを生み、現代に受け継がれている。 クワンは60年代、数本の映画に主演し、合間にテレビシリーズ『ハワイ5-0』に出演した。『ハワイ…』の撮影が終わるまでの間、クワンはアメリカとヨーロッパを行き来した。 のちにクワンは、オーストリア人のスキーインストラクターと結婚し、息子のバーニーを生んだ。しかし、バーニーは1996年、エイズにより33歳で亡くなった。 1972年、クワンは故郷の香港に戻り、彼女の危篤の父に付き添った。父親の死後、彼女はディレクターでプロデューサーのノーバート・マイゼルと結婚し、1979年にアメリカに戻った。 帰国以降、クワンは脇役で多数の作品に出演している。また、彼女は『燃えよ!カンフー』、『特攻野郎Aチーム』、『ER緊急救命室』など、多数のテレビの創作に関わっている。1990年にはテレビのコマーシャルにも出演した。 現在、クワンはアジア系アメリカ人有権者連合のスポークスパーソンとして政界で活動している。
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人物と経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 18:21 UTC 版)
幼いころから絵を描くことが好きで、広島県立広島国泰寺高等学校では目立たない生徒であったが、絵の才能を認められて卒業アルバム委員に選出され、1982年の学校公式卒業アルバムの挿絵を担当したのが初仕事となった。この時点では、東京の美術大学を目指すことができるほどの絵の実力はないと考えており、周りのすすめに従い、地元の広島女学院大学短期大学部に進学、卒業後、マツダに就職して11年間勤務。自分にできることを探しながらシステム開発などに携わった。 しかしどうしても本格的に絵を学びたくなり、1995年、32歳にして退職上京。セツ・モードセミナー、福井真一イラストレーション教室などに通い、1998年、第16回「ザ・チョイス」年度賞鈴木成一賞受賞、フリーのイラストレーターとなる。 「やはり絵の勉強がしたい」と上京したのは人生で初めて自分で決断したことであり、今、高校生の「自分にはなにもない」と思っている私に会えたなら「そんなことはない」と声をかけてやりたい、何かをスタートするには遅すぎるということはない、高校生の私のように「将来やりたいことがみつからない」「自分に自信がない」という生徒には、あせることはないと伝えたいと述べている。 書籍カバーでは「奇想コレクション」シリーズ、「日本の古典をよむ」シリーズ、「スティーブン・キング」シリーズ、横山秀夫『クライマーズハイ』、カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』、小林聡美『アロハ魂』、柴田よしき『愛より優しい旅の空』など、手がけた本の装丁画は300冊にのぼる。この他、CDジャケット、広告ポスター、パッケージデザインなども手掛けている。 2017年、広島県立美術館の日本・ブータン国交30周年記念特別展「ブータン展」のアートディレクタに選出され、展示会場設計などを担当した。
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人物と経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/16 00:38 UTC 版)
「カール・テオドール・ソーレンセン」の記事における「人物と経歴」の解説
家業が庭師で、親の元で修行をし独立する。 1935年、セントベンド教会の周辺に関するRingstedデザインコンペにてスティン・アイラー・ラスムッセンと協働し2等入賞。 1937年から労働者とその家族のためにスウェーデンのストックホルム近くスベンハームリンにSundyberg公園を生み出す。 1930年代後半、家族むけ児童公園をコペンハーゲンの北にあるコテージパークの提案取り組みでジャンク遊び場の変遷に関し、顕著になっていたが、変革の提案はソーレンセンと教師だったハンス・Dragehjelmとのコラボレーションでとりくまれる。 提案では、多数の自然と触れ合う遊び場の特色、自然遊びのために子供の機会を提供することへのコミットメントを 見ることができる。 提案は子供の楽園と題され、1930年代初頭におけるソレンセンの他の作品にもしばしば反映されている。 こうしたソレンセンのジャンクな遊び場は結局コペンハーゲンの貧困地域エンドラップで初の冒険遊び場になる。 これは大家族世帯住宅プロジェクトの一環として、1943年8月にオープンし、即時の成功を収める。これが冒険遊び場として、世界に広まる。 ただし本国では広まることはこれ以上なく、地域の子どもたちの遊び場の代わりにテニスクラブが展開され、英国風の庭園が保たれた。 その後もマレーネ・ホークスナーアロットメント・ガーデンなど、都市菜園やこどもたちの遊び場、コテージパークなどに取り組み、50年代のデンマーク・ランドスケープ・アーキテクチュアを支えた。彼のデザイン手法はヴァイキングの城壁に範をとっているといわれ、幾何学的曲線の空間囲い込みを好んで用いていた。 ソーレンセンの作であるNarum(1948年から1952年)は、生垣に囲まれた楕円庭園の調和のとれた配置に基づいて制作され、当初計画から審美的、実用的かつ社会的な面を兼ね備えていく。 ヨーロッパでマーシャル・プランと生産性の向上に支えられていた景気拡大が、第二次世界大戦の余波とオイルショックとで緊急の復興に対応する必要があるほど荒廃していた70年代、車に与えられた優先順位がすぐにアテネ憲章(1933年)に謳われた原則、ゾーニングの機能主義の論理によって支配都市開発のパターンを決定していた スペインもイタリアもフランスのように庭そのものは、特に緑地の面で考えうる公共受注の観点から、しばしば単なる残留ボイドとして考慮していた。 スカンジナビアではしかし、ソーレンセンらは環境に配慮した先導的な役割として都市菜園を提供し、その経験は、革新的な創造につながる。 作品で遊び場や菜園のほかには、クローケーガーデンの公営集合住宅(1938年~1939年)、ヘアニン美術館と展示庭園(1965年から)、オーフス大学キャンパス・円形劇場(1933年から1947年、コンペ1等案)、スウェーデン銀行ストックホルム食堂庭園と温室(1973年から1976年) など多数。作風は、場所の使われ方という、モダニズムが見落としていた事柄を重視している。
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