人物と生涯
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大阪府大阪市出身。生家は船場でも指折りの米問屋だったが、米騒動のあおりを受けて倒れる。兵庫県立神戸工業学校の建築科に入り、建築会社への就職が決まっていたが、実兄が東京で画家の修行をしていたことから、自らも画家の道が捨てきれず、卒業試験をすっぽかして単身東京へ行く。この頃、社会主義思想に傾倒し、特高にも目をつけられ、尾行を巻いているうちに浅草のレビュー小屋に潜り込んで、そのまま文芸部員としてレビューの台本を書いたり、また歌手として舞台で歌ったりして生計を立てるようになる。 1932年11月にカジノ・フォーリーで歌手としてデビュー。1933年1月に浅草オペラ館の俳優となる。その後エノケン劇団、万盛座のグラン・テッカール、「吉本ショウ」などを転々とする。当時は笠井峰と名乗っていた。のち大阪に戻り、いくつかの舞台に立つが、芽が出ずに俳優を辞めて朝鮮に行き、実業につく。1937年8月、東宝のロッパ一座に入り役者に復帰。このとき一緒に入ってきた森繁久彌と出会う。ここで芸名を加川久と名乗る。 1939年3月、当時ヴォードヴィルグループ「あきれたぼういず」が絶大な人気を得ていたが、リーダーの川田義雄を残して、坊屋三郎、益田喜頓、芝利英の3人が吉本興業から松竹系の新興キネマ演芸部に引き抜かれた。このとき、川田の代役として加川久が選ばれ、山茶花究と芸名を変更してグループに参加し、第2次あきれたぼういずが結成される。1943年に解散、森川信の新青年座に副座長で入り、1944年に山茶花究劇団を組織して巡業するが、戦況の悪化により解散する。その後、水の江滝子主催の劇団たんぽぽに加わり、終戦を迎える。 敗戦直後の1945年10月に再び劇団を立ち上げるが、すぐに解散。1946年に坊屋三郎、益田喜頓と「あきれたぼういず」を再結成。1952年に解散後は、喜劇役者として舞台や映画で活躍。ラジオのジャズ番組の司会などをしていたところ、森繁久彌から誘われて映画『夫婦善哉』にふちなし眼鏡をかけたインテリの番頭役で出演、冷酷で神経質なキャラクターを嫌味たっぷりに演じ、性格俳優として飛躍。 『社長シリーズ』『駅前シリーズ』などの喜劇映画に多数出演する一方、黒澤明、川島雄三作品の常連俳優でもあった。エラの張ったギョロ目の風貌で、高利貸しやヤクザの親分など嫌味かつ個性的な役どころなど天下一品の味わいを出し、悪役も善玉もこなす性格俳優として、日本映画黄金期に140作品以上の作品に出演した。1961年に『女は二度生まれる』の演技でNHK助演男優賞を受賞。 また舞台でも活躍し、森繁劇団では番頭格として三木のり平と共に森繁の片腕として動く。喜劇畑出身の俳優だったが、実際は左翼思想に傾倒していただけに新劇志向だったという。1970年5月、森繁劇団の明治座公演で倒れ、酸素マスクをつけてまで舞台に立ったが、気管支拡張症で入院。肺結核と糖尿病に苦しみ、死の床に見舞いに来た森繁久弥に「繁ちゃん、いっしょに逝こう」という言葉を残し、翌1971年3月4日午前6時16分に心不全で息を引き取った。 芸名は、九九の「さざんがきゅう(3×3=9)」に由来する[信頼性要検証]。またいつもサインを求められると、「非情」とそえていた。
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人物と生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 15:47 UTC 版)
栃木県塩谷郡氏家町(現さくら市)に小菅宗吉・ミワ夫妻の三男として誕生。宮沢賢治より7ヶ月後で、早生まれの同学年となる。 1915年、栃木県立農学校(現栃木県立宇都宮白楊高等学校)を経て、盛岡高等農林学校(現・岩手大学)農学科第二部(後に農芸化学科に改称)に入学する。1917年(大正6年)7月、、1917年(大正6年)、宮沢賢治、保阪嘉内、河本義行らと同人誌『アザリア』を創刊した。小菅はその巻頭言「初夏の思い出に」を執筆、主筆を務める。 翌1918年、3年の正規課程を経て、3月に同校を卒業する。一時、青森畜産学校(現青森県立三本木農業高等学校)の教諭を務めた後、その年の9月、土壌微生物学(多くの書籍に土壌細菌学とあるが、これは土壌微生物学の間違い[要出典])を学ぶ目的で、アメリカ合衆国に留学する。同年10月、サンフランシスコに到着する。その後、1919年10月、ロサンジェルス、1921年にはシカゴ、そして最終地ミシガン州グランドラピッズに移り、結局、8年間、米国に滞在した。この間、大学での研究生活を送るよりはむしろ生活費稼ぎのためのアルバイトに精を出しており、土壌微生物の研究に従事できたかは不明である。一方、高等農林を研究科で終えて家業を手伝いながら父との対立を深めていた賢治は、1919年8月21日に保阪嘉内に宛てた手紙に、「私の父はちかごろ毎日申します。『きさまは世間のこの苦しい中で農林の学校を出ながら何のざまだ。何か考へろ。みんなのためになれ。錦絵なんかを折角ひねくりまわすとは不届千万。アメリカへ行かうのと考へるとは不見識の骨頂。きさまはとうとう人生の第一義を忘れて邪道に踏み入ったな。』」と記していた。具体的に小菅の名前は出ていないが、この時期に同窓生の「海外雄飛」が盛んであったことが『校本 宮澤賢治全集』第14巻(筑摩書房、1977年)収録の年譜(執筆は堀尾青史)には記されている。 1926年(大正15年)に帰国し、母校盛岡高等農林学校に帰国報告を行い、その足で賢治を花巻町下根子桜の羅須地人協会に訪ねた。 1927年(昭和2年)1月、愛媛県三島町の愛媛県立宇摩実業学校(現・愛媛県立土居高等学校)に教員として就職。1935年(昭和10年)9月、愛媛県蕪崎村立蕪崎青年学校職業科指導員嘱託になる。1936年(昭和11年)、前年末からの風邪をこじらせ、入院し、一時危篤状態になる。2月退院。 1937年(昭和12年)3月、同校指導員嘱託を辞職。同年4月、京都府立須知農林学校(現・京都府立須知高等学校)教諭として就職。小菅の担当科目は畜産、獣医、博物、化学、英語など多岐にわたっている。京都府立須知農林学校の前身は1876年(明治9年)創設の京都府農牧学校(駒場農学校、札幌農学校と共に日本三大農学校のひとつ)であり、いったん閉校された後に、船井郡立実業学校などを経て、1923年(大正12年)1月1日に京都府立須知(しゅうち)農学校として創設され、さらに1932年(昭和7年)4月に京都府立須知農林学校と改称された。小菅健吉が勤務したのは、この改称から5年後の1937年(昭和12年)4月のことである。 1942年(昭和17年)10月、京都府立京都農林学校(後の京都府立大学の前身)の校長心得兼教諭。1944年(昭和19年)4月、京都府立北桑田農林学校(現、京都府立北桑田高等学校)新設に伴い、校長兼教諭として赴任。農場、校庭、校舎の建設整備に奔走。 1947年(昭和22年)7月、京都府立須知農林学校の最後の校長に就任。 1948年(昭和23年)4月、戦争中の教育関係者の公職追放令を考慮して、新制の京都府立須知農業高等学校に嘱託として勤務し、校長代理を勤める(初代校長とする資料もあるが誤り[要出典])。 1949年(昭和24年)1月、京都府立須知農業高等学校を辞職。郷里に近い宇都宮市に戻り、栃木県立鹿沼農商高等学校(後の栃木県立鹿沼農業高等学校)教諭(担当:英語)や母校の後身である栃木県立宇都宮農業高等学校教諭などを歴任し、1955年(昭和30年)定年退職。 退職後さらに、私立宇都宮学園高校(現・文星芸術大学附属中学校・高等学校)、私立宇都宮女子商業高校(現・宇都宮文星女子高等学校)の英語教師として教壇に立ち、1966年(昭和41年)3月まで教師を務めた。 1977年(昭和52年)5月30日、宇都宮にて肺気腫で死去。享年80。戒名は喬松院健翁徹心居士。
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