人物と生涯とは? わかりやすく解説

人物と生涯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 08:42 UTC 版)

山茶花究」の記事における「人物と生涯」の解説

大阪府大阪市出身生家船場でも指折り米問屋だったが、米騒動のあおりを受けて倒れる。兵庫県立神戸工業学校建築科入り建築会社への就職決まっていたが、実兄東京画家修行をしていたことから、自らも画家の道が捨てきれず、卒業試験すっぽかして単身東京へ行く。この頃社会主義思想傾倒し特高にも目をつけられ尾行巻いているうちに浅草レビュー小屋潜り込んでそのまま文芸部員としてレビュー台本書いたり、また歌手として舞台で歌ったりして生計立てるようになる1932年11月カジノ・フォーリー歌手としてデビュー1933年1月浅草オペラ館俳優となる。その後エノケン劇団盛座のグラン・テッカール、「吉本ショウ」などを転々とする。当時笠井峰と名乗っていた。のち大阪戻りいくつかの舞台に立つが、出ず俳優辞めて朝鮮行き実業につく。1937年8月東宝ロッパ一座入り役者に復帰。このとき一緒に入ってきた森繁久彌出会う。ここで芸名加川久名乗る1939年3月当時ヴォードヴィルグループ「あきれたぼういず」が絶大な人気得ていたが、リーダー川田義雄残して坊屋三郎益田喜頓芝利英の3人が吉本興業から松竹系新興キネマ演芸部引き抜かれた。このとき、川田代役として加川久選ばれ山茶花究芸名変更してグループ参加し第2次あきれたぼういず結成される1943年解散森川信新青年座に副座長入り1944年山茶花究劇団組織して巡業するが、戦況の悪化により解散するその後水の江滝子主催劇団たんぽぽ加わり終戦迎える。 敗戦直後1945年10月に再び劇団立ち上げるが、すぐに解散1946年坊屋三郎益田喜頓と「あきれたぼういず」を再結成1952年解散後は、喜劇役者として舞台映画活躍ラジオジャズ番組司会などをしていたところ、森繁久彌から誘われて映画夫婦善哉』にふちなし眼鏡をかけたインテリ番頭役で出演冷酷神経質なキャラクター嫌味たっぷりに演じ性格俳優として飛躍。 『社長シリーズ』『駅前シリーズ』などの喜劇映画多数出演する一方黒澤明川島雄三作品常連俳優でもあった。エラ張ったギョロ目風貌で、高利貸しヤクザ親分など嫌味かつ個性的な役どころなど天下一品味わい出し悪役善玉もこなす性格俳優として、日本映画黄金期に140作品上の作品出演した1961年に『女は二度生まれる』の演技NHK助演男優賞受賞。 また舞台で活躍し森繁劇団では番頭格として三木のり平と共に森繁片腕として動く。喜劇出身俳優だったが、実際左翼思想傾倒していただけ新劇志向だったという。1970年5月森繁劇団明治座公演倒れ酸素マスクをつけてまで舞台立ったが、気管支拡張症入院肺結核糖尿病苦しみ死の床見舞いに来た森繁久弥に「繁ちゃん、いっしょに逝こう」という言葉を残し、翌1971年3月4日午前6時16分に心不全息を引き取った芸名は、九九の「さざんがきゅう3×3=9)」に由来する[信頼性検証]。またいつもサイン求められると、「非情」とそえていた。

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人物と生涯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 15:47 UTC 版)

小菅健吉」の記事における「人物と生涯」の解説

栃木県塩谷郡氏家町(現さくら市)に小菅宗吉ミワ夫妻三男として誕生宮沢賢治より7ヶ月後で早生まれ同学年となる。 1915年栃木県農学校(現栃木県立宇都宮白楊高等学校)を経て盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学科第二部(後に農芸化学科改称)に入学する1917年大正6年7月、、1917年大正6年)、宮沢賢治保阪嘉内河本義行らと同人誌アザリア』を創刊した。小菅はその巻頭言初夏思い出に」を執筆主筆務める。 翌1918年3年正規課程経て3月同校卒業する一時青森畜産学校(現青森県立三本農業高等学校)の教諭務めた後、その年の9月土壌微生物学(多く書籍土壌細菌学とあるが、これは土壌微生物学の間違い[要出典])を学ぶ目的で、アメリカ合衆国留学する同年10月サンフランシスコ到着するその後1919年10月ロサンジェルス1921年にはシカゴ、そして最終ミシガン州グランドラピッズ移り結局8年間、米国滞在したこの間大学での研究生活を送るよりはむしろ生活費稼ぎのためのアルバイト精を出しており、土壌微生物研究従事できたかは不明である。一方高等農林研究科終えて家業手伝いながら父との対立深めていた賢治は、1919年8月21日保阪嘉内宛てた手紙に、「私の父ちかごろ毎日申します。『きさまは世間のこの苦しい中で農林学校を出ながら何のざまだ。何か考へろ。みんなのためになれ。錦絵なんかを折角ひねくりまわすとは不届千万アメリカへ行かうのと考へるとは不見識骨頂。きさまはとうとう人生第一義忘れて邪道踏み入ったな。』」と記していた。具体的に小菅の名前は出ていないが、この時期同窓生の「海外雄飛」が盛んであったことが『校本 宮澤賢治全集第14巻筑摩書房1977年収録年譜執筆堀尾青史)には記されている。 1926年大正15年)に帰国し母校盛岡高等農林学校帰国報告行いその足で賢治を花巻町下根子羅須地人協会訪ねた1927年昭和2年1月愛媛県三島町愛媛県宇摩実業学校(現・愛媛県立土居高等学校)に教員として就職1935年昭和10年9月愛媛県蕪崎村青年学校職業指導員嘱託になる。1936年昭和11年)、前年末からの風邪こじらせ入院し一時危篤状態になる。2月退院1937年昭和12年3月同校指導員嘱託辞職同年4月京都府須知農林学校(現・京都府立須知高等学校教諭として就職小菅担当科目畜産獣医博物化学、英語など多岐にわたっている。京都府須知農林学校前身1876年明治9年創設京都府農牧学校駒場農学校札幌農学校と共に日本三大農学校のひとつ)であり、いったん閉校された後に、船井郡実業学校などを経て1923年大正12年1月1日京都府須知しゅうち農学校として創設され、さらに1932年昭和7年4月京都府須知農林学校改称された。小菅健吉勤務したのは、この改称から5年後1937年昭和12年4月のことである。 1942年昭和17年10月京都府京都農林学校(後の京都府立大学前身)の校長心得教諭1944年昭和19年4月京都府立北桑田農林学校(現、京都府立北桑田高等学校)新設に伴い校長教諭として赴任農場校庭校舎建設整備奔走1947年昭和22年7月京都府須知農林学校最後校長就任1948年昭和23年4月戦争中教育関係者公職追放令考慮して新制京都府立須知農業高等学校嘱託として勤務し校長代理勤める(初代校長とする資料もあるが誤り[要出典])。 1949年昭和24年1月京都府立須知農業高等学校辞職郷里に近い宇都宮市戻り栃木県立鹿沼農商高等学校(後の栃木県立鹿沼農業高等学校教諭担当:英語)や母校後身である栃木県立宇都宮農業高等学校教諭などを歴任し1955年昭和30年定年退職退職後さらに、私立宇都宮学園高校(現・文星芸術大学附属中学校・高等学校)、私立宇都宮女子商業高校(現・宇都宮文星女子高等学校)の英語教師として教壇に立ち、1966年昭和41年3月まで教師務めた1977年昭和52年5月30日宇都宮にて肺気腫死去享年80戒名喬松院健翁徹心居士

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