人物と没後経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 03:52 UTC 版)
滝は岡山藩家老・日置帯刀(へき たてわき)の家臣であり、妻と男女各1人の子があった。代々砲術の家柄であったという。墓所は岡山市東山と伝わる。 辞世 きのふみし 夢は今更引かへて 神戸が宇良に 名をやあげなむ 滝善三郎については、神戸事件以外の記録が見当たらない。しかし、彼の切腹は神戸事件を収拾させたのみならず、世界的にセンセーションを巻き起こすこととなる。検視に立ち会った当時のイギリス外交官・ミットフォードが滝の切腹の模様を本国に伝え、それをイギリスの新聞『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』が銅版画付きで報じたためである。 当時は「切腹」と言っても短刀を腹に当てた時点で介錯が首を落とすとか、さらには短刀の代わりに扇子を使う「扇腹」(おうぎばら)などが一般的だったのだが(幕末期は本来の作法通りも少なくはなかった)、ミットフォードによると滝善三郎の切腹は古来よりの作法に則った形であった様である。ミットフォードは日本の作法についてもよく調べており、滝の切腹の模様を生々しい筆致で書き残している。 善三郎の切腹により、息子の成太郎(しげたろう)は備前公の直参に引き立てられ、500石を賜った。善三郎の跡目は、娘が婿を取って継ぎ、こちらも100石を賜った。 切腹に用いた脇差は長男成太郎に、介錯に使われた刀は長女いわに残され、子孫によって継承されている。善三郎の姉の孫にあたる松崎天民は1917年に善三郎についての著書『運命の影に』を刊行した。
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