人物と没後の顕彰
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学習院大学にて文芸部委員長を務めた際には、同人誌発行のため奔走した。同人誌の費用を賄うために落語研究会を発足させ、五代目古今亭志ん生らを招いて興行を行っていた。当初は学習院側から講堂の使用許可が下りなかったため、院長の安倍能成の自宅を訪ねて直談判し、使用許可を取り付けている。興行のチケットは文芸部の部員が販売したが、部員の一人が皇太子明仁親王にまでチケットを販売していたため、興行当日には明仁親王も観客として来場した。なお、日本の大学において落語研究会が設置されたのは、このときが初めてだとされる。 吉川英治文学賞、オール読物新人賞、大宅壮一ノンフィクション賞、新田次郎文学賞、太宰治賞、大佛次郎賞の選考委員を務めた。 病魔に侵された晩年を、いわゆる尊厳死の形で終えたことは関係者に大きな衝撃を与えた。夫人は「本人は考えた上でのことだろうが、家族にとっては突然のことだった」と振り返っている。 没後の2011年に発生した東日本大震災の後、『三陸海岸大津波』が再評価され、新たに多くの読者を獲得したことが話題となった。 出身地の荒川区は2017年3月26日、吉村昭記念文学館を備えた複合施設「ゆいの森あらかわ」を開設する。没するまで長年居住した三鷹市は、吉村の書斎を自宅隣の井の頭公園内に移築して公開する計画を進めている。当初は「2019年4月に公開予定」としていたが、建設場所の再検討及び建設スケジュールの見直し等により、大幅に遅れている。
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