人物と私生活、残る出自の謎
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「ナデジダ・パヴロワ (1905年生のバレエダンサー)」の記事における「人物と私生活、残る出自の謎」の解説
ナデジダは明朗でユーモアのある性格の持ち主で、姉エリアナとは対照的であった。沢静子とエリアナは1936年頃突然絶交し、その状態が2年近く続いた。絶交の理由は、エリアナの恋愛問題について沢がナタリアに告げ口したのではないかと疑われたためだった。その後、貝谷八百子のデビュー公演(1938年11月)に際して、エリアナから沢の娘鞠子宛に招待券2枚が手渡された。公演終了後、沢はエリアナの楽屋を訪れたものの、中に入る勇気が出なかった。そのときナデジダが楽屋ののれんをかき分けて現れ「長らくのごぶさたの沢さん、来ましたのネ」とおどけ、「二人、仲良くしましょネ」とその場をとりなした。ナデジダの機転によって、エリアナと沢の仲は修復された。 ナデジダのユーモアセンスは、バレエのレッスンにも生かされていた。ナデジダはバレエのレッスンに際して、ユーモアを含んだ和やかな雰囲気の中で丁寧に指導していた。ムーヴメントの指示には、江ノ電の通る山側と海側をポイントにして、「ハイ、海のほうへ…」、「電車のほうへ…」と表現し、特に子供たちには効果的であった。彼女のバレエ指導は評判がよく、「ロシアバレエ本来の典雅な雰囲気を教えられる最後の人」と高く評価されて1961年には神奈川文化賞を受賞している。 助教師を長らく務めた岩井素子は、「まるで、十三歳の少女みたいな方でした」と回顧している。金銭感覚にうとい上に、バレエで金もうけをしようなどという考えは持っておらず、月謝は安かった。ナデジダは大滝愛子の指導を小牧にゆだねるなど、懐の深い人物であった。 パヴロワ一家について「日本人より人情の厚い方たちで、義理がたいところがありました」という評がある一方で、「疑い深いところもあった」ともいわれていた。その理由は、七里ヶ浜にバレエスクールを建築する際に、職人が先払いの代金を持ち逃げした話が何回かあったからだという。 晩年に病気がちとなったナデジダは、孤独感に苛まれてしばしばオーリガ毛馬内に電話をかけていた。同国人ということで気を許せる間柄だったものの、オーリガより年上だったナデジダの甘えによって何回も喧嘩になるほどであった。 ナデジダはエリアナと同じく、生涯独り身を通した。2人の男女交際について、母ナタリアが道を踏み外さぬように常に監視していた。ナタリアはナデジダには甘く、エリアナには常に厳しくあたっていたという。 白浜研一郎(1986年)や宮田治三(1997年)、鈴木晶(2008年)などは、エリアナとナデジダについて「実の姉妹ではない」という説があることに言及している。2人は出生地が違っている上、顔立ちも似ていなかった。本人たちが生前に話したところによれば、エリアナは父を「軍人だった」、ナデジダは「貴族で俳優だった」としている。さらに鈴木は、通説で白系ロシア人貴族の血筋を引くというエリアナについて「旅芸人の家族に生まれたらしい」と指摘した。 川島京子(2012年)は、エリアナ自身の回想録で「幼い妹ナージャ(ナデジダの愛称)」について触れた部分を示した。エリアナが6歳のときに父が死去し、続いて3歳の妹ナージャも亡くなったという。この亡くなったとされるナージャと、日本での「妹」ナージャ、すなわちナデジダの関係は不明である。川島はナタリアについて「エリアナの実母であろう」としているが、逆にナデジダこそナタリアの実子でエリアナは養女だという説も出ていて、出自の謎は未解決のままである。
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