羅須地人協会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/26 13:36 UTC 版)
羅須地人協会(らすちじんきょうかい)とは、1926年(大正15年)に宮沢賢治が現在の岩手県花巻市に設立した私塾。あるいはその目的で使用された宮沢家の住宅建物である。
注釈
- ^ チェロと譜面台はいずれも、花巻市の宮沢賢治記念館が所蔵、2015年(平成27年)3月31日まで開催の宮沢賢治記念館企画展「宮沢賢治の世界」などで音楽資料とともに展示し[10]、演奏会(2012年[11]ほか)で音色を聴かせた。
- ^ 聴取の時期について『新・校本宮澤賢治全集』の年譜では「3月か?」としている[17]。
- ^ 井上ひさしの戯曲「イーハトーボの劇列車」には刑事として伊藤儀一郎が登場するが、これは井上の創作である。
- ^ 施肥した田畑が不作だった場合には農民から補償を求められることもあった。そうした状況は詩「もうはたらくな」や童話「グスコーブドリの伝記」に反映されている。
- ^ 室伏の影響については上田哲(政治家の上田哲とは別人)の『宮沢賢治―その理想世界への道程』[34]に詳しい。
- ^ モリスは上述の岩手国民高等学校で指導した折の講義録にも名前が記されている[要出典]。
- ^ ただし、実際には松田と親交のあった吉田コトが宮沢清六とともに作品を選定したと、吉田の著書『月夜の蓄音機』[44]には記されている。吉田コトは『宮澤賢治殺人事件』[45]の著者吉田司の実母である。
出典
- ^ a b c 堀尾 1991, p. 249-250.
- ^ 宮沢清六「兄・賢治の生涯」(『兄のトランク』(筑摩書房、1987年)に収録)
- ^ 堀尾 1991, p. 293-297.
- ^ a b 堀尾 1991, p. 311.
- ^ 堀尾 1991, p. 251.
- ^ 堀尾 1991, p. 302、305.
- ^ a b c 堀尾 1991, p. 313-315.
- ^ 堀尾 1991, p. 309.
- ^ 『チェロと宮沢賢治 ゴーシュ余聞』音楽之友社、1998年、13頁。ISBN 4-276-21044-5。
- ^ (PDF) 『賢治のチェロにまつわる、奇跡のような物語』花巻市 。
- ^ “市勢ハイライト2012(平成24年)「賢治のまちづくり始まる」”. www.city.hanamaki.iwate.jp. 花巻市. p. 1002464 (2019年(平成31年)2月8日更新). 2020年10月26日閲覧。
- ^ a b 堀尾 1991, p. 316.
- ^ 堀尾 1991, p. 253.
- ^ 新校本全集年譜 2001, p. 326.
- ^ 新校本全集年譜 2001, p. 354.
- ^ 堀尾 1991, p. 259.
- ^ a b c 新校本全集年譜 2001, p. 343.
- ^ 新校本全集年譜 2001, p. 351.
- ^ 堀尾 1991, p. 326-331.
- ^ 堀尾 1991, p. 331-334.
- ^ 堀尾 1991, p. 347-350.
- ^ 堀尾 1991, p. 316-318.
- ^ 堀尾 1991, p. 278.
- ^ a b c 堀尾 1991, p. 318.
- ^ 『定本見田宗介著作集IX』岩波書店、2012年、p.220(初出は『宮沢賢治 - 存在の祭の中へ』岩波書店<20世紀思想家文庫>、1984年)
- ^ a b 堀尾 1991, pp. 299–300.
- ^ 堀尾 1991, p. 310.
- ^ 堀尾 1991, p. 300.
- ^ 宮沢賢治. “宮沢賢治 農民芸術概論綱要”. www.aozora.gr.jp. 2020年10月26日閲覧。
- ^ 「農民芸術概論綱要」 『宮沢賢治全集』 12巻、筑摩書房、1968年、10-18頁。doi:10.11501/1674637 。2020年10月26日閲覧。
- ^ 青空文庫版[29]の底本(1997年版)の親本(1967年版=1968年版の誤記か)は、国立国会図書館デジタルコレクションに収載。国立国会図書館内公開の指定があり、当該箇所の電子化ファイル名は「農民藝術槪論綱要」(0011.jp2 - 0015.jp2)[30]。
- ^ 宮沢賢治 『農民芸術概論綱要』花巻市教育委員会社会教育課(編)、花巻市文化団体協議会、2002年6月、2-21頁。
- ^ 「伊藤清一講演筆記帖」として『【新】校本宮澤賢治全集 16巻上 補遺・資料 〔補遺・資料篇〕』筑摩書房、1999年、pp.165-199に収録。
- ^ 上田哲 『宮沢賢治―その理想世界への道程』明治書院、1988年、[要ページ番号]頁。
- ^ 室伏高信 『文明の没落』批評社、大正12年。doi:10.11501/1021262 。2020年10月26日閲覧。
- ^ 宮沢賢治の碑 - 岩手県観光ポータルサイト
- ^ 宮沢賢治の記念碑 - 平塚しってもらい隊
- ^ 宮沢清六「焼け残った教材絵図について」『兄のトランク』筑摩書房、1987年、pp.158 - 163(初出は『宮澤賢治 科学の世界-教材絵図の研究』筑摩書房、1984年)
- ^ 畑山博『教師宮沢賢治の仕事』小学館、1988年、p.68
- ^ 佐藤清「財団法人宮沢賢治記念会のあゆみ」『修羅はよみがえった』宮沢賢治記念会、2007年、p.302
- ^ 佐藤清「財団法人宮沢賢治記念会のあゆみ」『修羅はよみがえった』宮沢賢治記念会、2007年、p.308
- ^ 新校本全集年譜 2001, pp. 346–347.
- ^ 新校本全集年譜 2001, pp. 356–357.
- ^ 吉田コト 『月夜の蓄音機』荒蝦夷、2008年、[要ページ番号]頁。
- ^ 吉田司『宮澤賢治殺人事件』、太田出版、1997年。改版し〈文春文庫〉、2002年、ISBN 9784167341039。
- ^ 草野心平「会えざりし記」『昭和文学全集』月報No.14(角川書店、1953年)
- 1 羅須地人協会とは
- 2 羅須地人協会の概要
- 3 農民芸術概論綱要
- 4 関連人物
- 5 外部リンク
羅須地人協会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 15:00 UTC 版)
1926年(大正15年)3月31日、花巻農学校を依願退職。弟宛ての手紙では校長の転任に伴って義理でやめると書いているが、前年4月13日杉山芳松宛ての手紙では「来春はやめてもう本統の百姓になります」と辞職の決意をしている。4月、実家を出て、かつてトシが療養生活をしていた下根子桜の別宅に移り、改装。周囲を開墾して畑と花壇を作った。ここで白菜、とうもろこし、トマト、セロリ、アスパラガスなど野菜を栽培するとともに、チューリップやヒヤシンスの花を咲かせた。賢治は野菜をリヤカーで売り歩いたが、当時の農民にはリヤカーは高級品で、賢治の農業は金持ちの道楽とみられてしまう。野菜を勝手に持っていかれても笑って許していた。農村の水路修理などの共同作業も参加せず金を包んで済ませている。また畑の白菜を全て盗まれるという嫌がらせにあった話を詩に残している。「羅須地人協会」として農学校の卒業生や近在の篤農家を集め、農業や肥料の講習、レコードコンサートや音楽楽団の練習を始めた。6月『農民芸術概論綱要』起稿。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」として農民芸術の実践を試みた。また肥料設計事務所を開設、無料で肥料計算の相談に応じた。この様子は「それでは計算いたしませう」という詩に書かれている。 12月2日、上京。タイプライター、セロ、オルガン、エスペラント語を習い、観劇をする。資金は父親頼みだった。18日、高村光太郎を訪ねている。年末帰花。1927年(昭和2年)2月1日『岩手日報』夕刊二面で「農村文化の創造に努む/花巻の青年有志が/地人協会を組織し/自然生活に立ち返る」の見出しで賢治の活動が紹介される。これが社会主義教育と疑われ、花巻警察の聴取を受ける。以後、羅須地人協会の集会は不定期になり、オーケストラも一時解散した。 この頃、小学校教員の高瀬露という女性が協会にしばしば通ってくるようになる。高瀬は賢治の身の回りの世話をしようとしたが、賢治は居留守を使ったり、顔に灰を塗って出てきたりするなどして彼女の厚意を避けようとした。協会に人が集まった時、高瀬はカレーライスを作ってもてなしたが、賢治は「私には食べる資格がありません」と拒否。怒った高瀬はオルガンを激しく引き鳴らした。その後、彼女は賢治の悪口を言って回るようになったが、父の政次郎は「はじめて女のひとにあったとき、おまえは甘い言葉をかけ白い歯を出して笑ったろう」と賢治の態度を叱った。 1928年(昭和3年)6月、胆沢郡水沢町(現在の水沢市)の豪家出身で、伊豆大島に住む伊藤七雄を訪問。伊藤は結核療養のため大島に移り、ここに園芸学校を建設するにあたって賢治の助言を得るため相談していた(1931年伊藤の死去に伴い学校は消滅した)。この訪問は伊藤の妹チヱとの見合いの意味もあったが、チヱの回想によれば賢治は結婚について全く眼中にない様子だったという。しかし1931年、森荘已池を訪ねた賢治は「伊藤さんと結婚するかもしれません」と話している。 肥料相談や稲作指導に奔走していたが、8月10日、高熱で倒れ、花巻病院で両側肺浸潤との診断を受ける。以後、実家で病臥生活となる。
※この「羅須地人協会」の解説は、「宮沢賢治」の解説の一部です。
「羅須地人協会」を含む「宮沢賢治」の記事については、「宮沢賢治」の概要を参照ください。
羅須地人協会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 01:13 UTC 版)
宮沢賢治によって設立された、イーハトーヴォの農民たちが協力し合うための会。賢治は留守にしているが、会員のファゼーロが常駐しており、話を聞かせてくれる。
※この「羅須地人協会」の解説は、「イーハトーヴォ物語」の解説の一部です。
「羅須地人協会」を含む「イーハトーヴォ物語」の記事については、「イーハトーヴォ物語」の概要を参照ください。
- 羅須地人協会のページへのリンク