宮沢家別宅について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/27 23:40 UTC 版)
賢治の祖父、宮沢喜助によって、1904年(明治37年)隠居所として建てられた。木造2階建てで、1階は10畳と8畳の2室、2階は床の間付き8畳の和室となっている。 妹の宮沢トシが結核に冒されて亡くなる8日前まで療養所として使用される。その後、賢治によって1階の10畳を集会場に使える近代的なリビングに改造の上、羅須地人協会として使用されている。賢治の没後、人手に渡って現在の場所に移築されたが、1969年(昭和44年)に花巻農業高等学校の用地の一部として買い取られ、復元整備の上で『賢治先生の家』羅須地人協会として一般に公開されることになった。学校の事務室で鍵を借りて観覧が可能である。 玄関横の黒板には、賢治の筆跡を模した『下ノ 畑ニ 居リマス 賢治』の文字(復元整備の際に弟の宮沢清六によって書かれたものが、消えないよう農業高校の生徒によって上書きされ続けている)が記されており、建物横には賢治が農作業のあとに使用した手洗い場の東屋も復元されている。 2007年に花巻農業高校同窓会百周年記念事業の一環として建物の手直しがおこなわれた。この際、1階の床板をすべて張り替えている。 一方、協会の建物がもともと建っていた桜町の跡地には、賢治の死去から3年後に「雨ニモマケズ」の詩碑が建立された。その翌年の賢治の命日(9月21日)から、碑の前で賢治の追悼会が開かれるようになり、1951年(昭和26年)以降は一般参加も可能な「賢治祭」に改められている。また、賢治が居住していた当時の井戸が残されている。
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