協会設立の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/27 23:40 UTC 版)
賢治は1926年3月31日に、教員として勤務していた岩手県立花巻農学校(岩手県立花巻農業高等学校の前身)を退職した。この退職の理由としては複数の事情が挙げられているが、最も大きかったものは生徒に対して「農民になれ」と教えながら、自らが俸給生活を送っている点への葛藤であったと推定されている。 同年4月より、実家から約1.5km離れた花巻川口町下根子桜(現・花巻市桜町)にあった宮沢家の別宅(建物については後述)を改造して独居自炊の生活を始める。4月1日付の地元紙岩手日報には「新しい農村を建設する 花巻農学校を辞した宮沢先生」という賢治の談話入りの記事が掲載された。同年夏、周囲の若い農民とともに、羅須地人協会を設立した。「協会」とはいっても実質的には賢治一人によるもので、堀尾青史は「ひとりの使命感を持った人物の指導と奉仕による会」と述べている。設立日は旧盆に当たる同年8月16日とされた。
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