協会規制と「新宣言」
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1976年の第34回総選挙で初めて自民党が過半数割れ(ただし追加公認で過半数確保)すると、政権交代は現実のものとして論議に上った。しかし党の内紛は続き、江田三郎は1977年党大会で協会派が代議員の多数を制し、副委員長を解任されたことで社会党に絶望したと述べて離党し、社会市民連合(後の社会民主連合)を結成した。江田離党と1977年参院選敗北が契機となり、成田委員長らは辞職し、協会規制がおこなわれ、社会主義協会の活動に一定の歯止めがかけられた。これ以降、総評の変化もあり1980年代以降の社会党は、飛鳥田一雄委員長、平林剛書記長の指導の下、日本共産党を除き、民社党や公明党などの中道政党と連立政権を作ろうという構想(社公民路線)をとった。 1970年代後半からは議席数では与野党が伯仲したが、有権者の意識の上では、自民党政権はむしろ安定性を増していた。1980年の衆参ダブル選挙(第36回総選挙・第12回参議院選挙)で自民党は大勝したが、1983年の第37回総選挙で再び与野党の議席は伯仲した。しかし社会党の議席は微増(107から112)にとどまった。公明・民社は表向き社公民路線を取りつつも、自民との政策協議を重視するようになった(自公民路線)。さらに労働界も、政府に対する政策要求の効果を高める目的で、IMF-JCを中心に社会党支持労組の中からも政策協議路線を後押しする動きが強まり、自民党を中心に政策決定していくことを前提にした政党間関係を構築していくようになる。こうした動きは日本共産党から「国政もオール与党化」「大政翼賛会の二の舞」などとの批判が浴びせかけられる。一方では、1960年代から続く、自民党との国対政治が常態となっており、自公民+社の政策協議路線と、自社両党の国対政治が交差しながら、低落した党勢の中で最大限に政策実現を図ろうとしていた。 1985年、社会主義協会の指導者であった向坂逸郎が死去し、その前後から社会主義協会内も現実路線と原則路線との対立が始まった。1986年、激しい論争を経て、石橋政嗣委員長のもと、「道」は「歴史的文書」として棚上げされ、新しい綱領的文書である「日本社会党の新宣言」が決定された。これは従来の、平和革命による社会主義建設を否定し、自由主義経済を認め、党の性格も「階級的大衆政党」から「国民の党」に変更するなど、西欧社会民主主義政党の立場を確立したものである。ただし採決による決着を回避し社会主義協会派代議員を含めた全会一致の採択を実現するための妥協策として、旧路線を継承するとも取れる付帯決議を付加したため、路線転換は明確とはならなかった。
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